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藻の く ず

2009.09.06(07:34)

上司は思いつきでものを言う (集英社新書)上司は思いつきでものを言う (集英社新書)
(2004/04)
橋本 治

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 アルバイト中、どらんくなお客様の野郎にまじぎれされる。それじたいはどうでもいいけれど、なぜ、まじぎれするお客様の野郎は、「俺はおまえのために言ってやっているんだよ」ということを何度も言うんだろう。そういうことを言われると、わたしは「はい! 勉強になります!」とか「以後気をつけます!」というような正気でないことを言わないといけないので、こまる。わたしはいじわるで冷徹で自分の非をいっさい認めない人間なので、そう言われても、「ああ、しがない俺のためを思ってくれるなんてこのひとはなんてよいひとなんだろう!」とは絶対思わず、「このメタンガスみたいな野郎は自分のまじぎれを正当化しようとしているだけなんじゃないのか?」としか思わない。わたしはお客様の野郎のまじぎれを正当だとは思わなかったので、そのひとがそう言うとわたしはそんなふうに思った。
 ところで、店員として、お客様の野郎に謝るのはとてもたやすい。わたしにとってお客様の野郎はどうでもいいし、(アルバイトだし、向上心もまったくないゆえに)店もどうでもいい。だけれど、本当に何か人間関係を結びたいと思うひとにまじぎれされたり、謝ったりしたり、そういうことは、そんなものよりもよっぽど、よっぽどややこしくてつらく、そういうとき、わたしはいちばん卑小になると、すこしだけ思った。

   ◇◇◇

 文学の話を、まじめに。
「『智恵子抄』を読んで爆笑した」とか、「川端康成なんてただのロリコンじゃん! ぷぎゃー!」とか、そういうことをわたしはもちろんわざと書いているのだから、それは感性の話ではなく読みかたの話だ。ドストエフスキーを読んだとき全ロシアの問題についてまじめに書くのではなく「リーザかわいい」と一言書く、そういう読みかたをしているひとのほうがすてきだと思ったからわたしはそうしているだけで、それはだから感性ではなく読みかたの話だと思う。なぜ、何十年、何百年も前の小説にまじめに向きあわなければならないんだろうかと思う。「川端康成なんてただのロリコンじゃん!」と言うことで川端康成の価値が下がると誰かが思うなら、それはそのひとが文学に幻想を抱いているのだと思う。どの本にも、たいしたことなんて書いていない。どの映画にも、たいしたものは映っていない。わたしはときどきそう思う。だけれど、それがその本やその映画をきらう理由にはならない。ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」が19世紀ロシア全土の問題をえぐりだす小説だとしても、残念ながら今は19世紀ではないし、あいにく、わたしはロシア人ですらない。だからそんなものにはたいしたことは書かれていない。19世紀ロシア全土の問題をえぐりだす、という現象には興味があるけれど、決してそれ以上ではない。それよりリーザはかわいい。自分でドアに指をはさんで指を潰したリーザはかわいい。そういうことだけが唯一せつじつだと思う。すくなくとも、いまのわたしは、そう思う。
 ブコウスキーの小説にはときどき「あの女はおっぱいがでかい」と「俺はまた仕事をクビになった…」ぐらいしか内容がない。そんなものだと思う。それで小説として成りたつのなら、小説なんてその程度のものでしかない。
「あなたの詩や小説は難しい」と言われたときにわたしは「それはちがう」と言った。「それはあなたが僕の小説を難しい・やさしいという尺度で読もうとしているからそう思うだけだ。だから、『難しい』というのは僕の詩に付属する属性ではなく、あなたの読みかたに付属する属性だ」とものすごくひどいことを言った。それはもちろんテクストをないがしろにした乱暴な言いかたにはちがいなく、究極的すぎるので実効性は何もない。だけれどわたしはそう思う。
 もしかりに「川端康成なんてただのロリコンじゃん!」と言うことで川端康成をさらに好きになれるなら、わたしは「川端康成なんてただのロリコンじゃん!」と臆面もなく言いたい。どの本にもしょせんたいしたことが書かれていなくても、わたしはそれを好きになろうとするし、実際、好きになっているのだと思う。本に接するやりかたをたぶんわたしはそれしか知らない。本も、ひとも、わたしの場合、たぶん、好きになりつづけようとすることでしか好きになれない。それはゆがんだことかもしれないけれど、わりあい、どうでもいい。
 これから文学がどうなっていくのか、わたしはほとんど興味がない。わたしと文学の関わりがこれからどうなっていくのか、ということには興味があるけれども。「文学は死んだ」とえらいひとは言う。それを真に受けてわたしも「文学は死んだ」とよく言っていたけれど、真に受けるわたしはずいぶん馬鹿だったのだと思う。「文学は死んだ」というひとは自分に関係ある言葉ではなく、他者と関係するときに使われる言葉だ。わたしはわたしと関係するだけでせいいっぱいなので、「文学は死んだ」なんてきっともう言わない。死んでいたら死体を愛でればいい。それだけだと思う。「死体なんて愛でられないよ!」と言いたいなら言えばいいと思う。それはそのひとの問題であって、わたしの問題ではなく、もっと言えば、死体となった文学の問題ですらない。
 まとめると、「文学はけっこうおもしろいよ」になる。文学はけっこうおもしろいよ。

   ◇◇◇

 橋本治「上司は思いつきでものを言う」を読む。こういうのを読むと、何かものを語りそれを聞かせるということがほとんどのひとにはできないんじゃないだろうかと思う。ゴダール、高橋源一郎、橋本治というひとは、「何かものを語りそれを聞かせる」ということがとてもうまいと思う。「何かものを語る」ということはかんたんだけれど、「それを聞かせる」という馬鹿みたいに難しいことに接続するのは、たいへんな苦労がいる。橋本治は、わかっても意味があることをわからせようとするのではなく、わかっても意味のないことについて説明しようとしている。わかっても意味のないことをわからせようとしている。その結果どうなるかというと、「わからない」とわたしは言う。わかっても意味のないことがわかったということはわからないということだと思う。わからなくてもいい。ゴダールは「私は誰かに何かを理解させようとしたのではなく、誰かに何かを見させようとしたのです」と言った。わたしは「『見なくてもわかるだろ!』と訴えている映画は『見なくてもわかるだろ!』以外のものをうつさない」と言った。「わかる」というのは個人的なものだ。「わたしがわかる」というのは成りたつけれど、「わたしが誰かにわからせられる」というのは本当に成りたつんだろうか。わたしは勝手にわかって勝手に納得し、勝手に誰かを傷つけ、勝手によろこぶ。そういうこと以外に、いったいひとは何をやればいいのか、わたしにはよくわからない。
 理論的に、いちばんつまらない文体は新聞の文体だと思っている。よくよく考えれば、新聞には「知っても意味のないこと」しか載っていないんじゃないかと思う。新聞記者に「あなたが書いたこの記事はわたしにとって何か意味のあることなのですか?」と訊いてみたい。どうしてそういうことを訊かないで、「若者は新聞を読まない…」ということしか言わないんだろう。
 土曜美術社「現代ロシア詩集」を読んでいる。副題は「自由を求めたロシアの詩人たち」。ここで言う「自由」は「国家から」ということでしかない。わたしはたとえば国家への帰属意識はほとんどないけれど、それでも「俺は自由だ!」とは思わない。たぶん「俺は自由だ!」と自信を持って言えるひとはほとんどないと思う。わたしは「あたしは自由ではないにょ」と言うくせに、何から自由ではないかは知らない。だから「自由だ!」とさけぶことも「自由ではない」とさけぶことも、わたしを自由でないことにしている対象を設定することからはじめる。その「対象」が存在するかしないかに、関係なく。だから「自由ではない!」とさけぶことも「自由だ!」とさけぶこともひとりあそびにすぎない。実際の体制とわたしはあまりにも関係されない。対象の設定から文学から生まれるのだとしたら、文学はひとりあそびだと思う。そしてたいていの場合、ひとりあそびはかわいいし、楽しい。

   ◇◇◇

 過去にわたしが書いた小説を誤って削除してしまって、けっこうな、ショックを受けた。その慰みにたくさん書いた。どれもこれもがどうしようもないものなのでべつになくたってまったくこまりはしないのだけれど、わたしは、誤ってすべてを削除してしまった。そういうことが起こった。それはとてもかなしい。




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