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俊読~shundoku~5@クロコダイル

2009.09.10(04:08)

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 早稲田松竹にてチャン・フン監督「映画は映画だ」とナ・ホンジン監督「チェイサー」を見る。
「映画は映画だ」はとてもおもしろかった。日本の70年代、80年代あたりの任侠ドラマ(知らないので適当)にありそうな音楽を平気で使っていたり微妙に古臭い面があって、でもわたしは今のこの手の韓国映画は21世紀をきちんと生きていると思うので、古さと21世紀が平気で同居している奇妙な映画だと感じた。泥まみれになって熱血に殴りあうシーンなんてどうして撮るんだろう。ばかじゃないだろうか。パロディなのかもしれないけれど、よくわからなかった。「映画を撮りにいく」と行ってソ・ジソブはひとを殺すわけだけれど、そのさいカン・ジファンに「おまえがカメラだ」と言う。わたしたちの目はもちろん例外なくカメラかもしれない。でもゴダールが言うように、カメラを向けて撮った映像が例外なく映画になるわけじゃない。映画が発生する余地というのはほとんどない、というのはだけれど誤解で、映画はいたるところに発生している。でも、わたしたちのカメラはたいていの場合ぽんこつで、そこに映画を発見することはできない。「恋愛」や「自分」が発見されたものであるのと同じように、「映画」も発見されるものだと思う。発見する前からつくりはじめてしまうから、ほとんどの映画はつまらないのだと思う。そういうこととは関係なくホン・スヒョンがかわいすぎて死ぬかと思った。黄色いパーカー着て踊っている姿がかわいすぎて死ぬかと思った。
「チェイサー」はとってもとってもおもしろいので言うことはない。

   ◇◇◇

 喫茶店でブコウスキーやコクトーやセリーヌを読みながら時間をつぶし、管城さんと「俊読~shundoku~5」に行くため、渋谷で待ちあわせ。渋谷は「ひがしぐち」とか「みやますざかぐち」とか難解な出口がたくさんあるのでたくさん困惑する。わたしは「ひがしぐち」から「みやますざかぐち」まで行けない。「ひがしぐち」でなんの努力もせずにぼさっと待っていたら目の前を管城さんらしきひとがすたすたと通り、けれどその管城さんはぱっつんになっていて、わたしはひとの顔を覚えられずだいたい髪形等でそのひとを判別しているのでぱっつんになっている管城さんはもしかしたら管城さんではない可能性があるかもしれないとどきどきしながら肩をたたいたら管城さんだったのでわたしはたいへんうれしかった。
 管城さんは「クロコダイルではわにが食べられます」と言った。わたしは「そんなわけないじゃん」と思ったので「そんなわけないじゃん」と言うと「わたしはいままでうそをついたことがありません」と彼女はいきなりうそをついた。でもクロコダイルに行ったら「わにチャーハン」という食べものがあった。わたしたちは「わにチャーハン」を食べた。わにはどこにいるのだとわたしは思った。
 芸人のようなひとがいきなりマイクパフォーマンスを始めたと思ったら、桑原滝弥さんだった。彼は「俺は芸人じゃなくてアーチスト!」と絶叫していた。
 朗読の最初はジュテーム北村さんだった。なんで短パンを履いているのかわからなかった。たぶんポケモンを捕まえに行く途中なんだろうと思った。ジュテーム北村さんはとあるひとに「あまり好みじゃないかもしれないけどおすすめだよ!」と言われていたのだけれど、とてもよかったと思う。「これはねっころがって読む詩です」と言いながらねっころがって何か読んでいた。あとは忘れた。
 加藤亜由子さんはかわいかった。桑原さんの言う「にゃあにゃあ♪」的な直接的な萌え行動に萌えることはないとわたしは思うのだけれど、なぜかこのひとは読むまえ顔をくりくりさせていてとてもかわいかった。とてもかわいかったこと以外は忘れた。
 青木研治さんは最初から最後までれろれろだった。格好が常軌を逸していた。朗読をするはずなのに、東京で夢破れてべろんべろんに酔っぱらい、気づいたら熊谷にいた話をしていた。それが詩だったのかもしれない。ホテルもなく、ファミレスもない、だけれど熊谷には健康ランドがあった。そこへ向かうためタクシーに乗りこんだら昔の恋人に出会ったという話だった。あとは忘れた。
 休憩中に管城さんが「イシダユーリさんが来てる…」というので全力で探した。でもわたしはイシダユーリさんの顔をよく知らないので見つかるはずがなかった。暇をもてあましたらしい管城さんは自分の髪の毛で自分の首を絞めていた。
 三角みづ紀さんはいつもどおりだった。わたしは三角みづ紀さんを愛しているのでなんの文句もつけるつもりも本当にないというのはうそで文句なんだけれど、何故彼女はいつも同じ詩を朗読するんだろう。わたしだってたまにはちがうのが聴きたいと思う。「夕陽の隅までたたかれております」的な詩の読みかたがちがってきているのはとてもよくわかるけれど、わたしは、たまにはちがうのが聴きたい。三角さん、好きだ。
 桑原滝弥さんは「チェイサー」と同じで特に言うことはない。
 管城さんは終電があるためにここで帰り、わたしは、すこし余裕があったのでいのこる。「俊読」に来たのに谷川俊太郎を見ないのは彼女だけだったと思う。わたしたちは「まだ死にそうにないからいいよね…」という話をした。
 最後は谷川俊太郎さんだった。「今日は詩を読みません」といきなり言った。谷川さんは桑原滝弥さんをだいぶちゃかしていて、「桑原さんのパフォーマンス中、彼の嫁が爆笑してるんだよ」と言っていた。「そういう関係はとてもいい」というようなことも言っていた。わたしもそういう関係はとてもいいと思った。桑原さんと谷川さんのやりとりでどっかんどっかん受けていた。どっかんどっかん受けるというのはどういうことだろうなあとわたしは考えたけれど、よくわからなかった。谷川さんは詩を読まないかわりに物語を読んでくれた。そのあとQ&Aコーナーがあった。「どうして詩を書きはじめたのか?」と訊かれて「原稿料」と答えた。「サンドイッチは美味しいですか?」と訊かれて「美味しい」と答えた。「服はどこで買いますか?」と訊かれて「アルマーニ」と答えた。もちろんうそだ。わたしは「死んだあとどうしますか?」と訊きたかったけれどいつもどおりやめておいた。「死んだら死ぬだけだ」とたぶん言うような気がする。「生きている必要はないと思いますか?」とわたしは訊くべきだったのかもしれない。最新の詩集からいくつか朗読をした。詩人あてクイズみたいなものだった。わたしは中也「サーカス」しかわからなかった。
「俊読」は思ったよりひとがいた。わたしはひとはいるよりいないほうがいいと思っているので(おもにわたしのために)、とてもびっくりした。朗読はとてもおもしろいけれど、わたしは朗読に特に思いいれがあるわけではないので、どうでもいい。
 彼らのパフォーマンス、特に桑原さんや青木さんのパフォーマンスを見ていると、「そこまでやってまでそれを詩と定義しなくてはいけない詩の哀しさ」を同時に見てしまう。谷川さんは「俺は芸術家じゃなくて、職人だから」と言う。「あらゆるものは詩である」というのは「あらゆるものは詩でない」とほとんど等しいとしか思えない。その何もないなかで詩人は何かを詩として獲得していかなければならないのだから、詩人は、たいへんへんてこりんな生き物だ。桑原さんや青木さんのパフォーマンスを「詩」とするその考えかたはあまりにかっこうよすぎてしまう。わたしも好き。わたしももちろんそういうふうに考えるようにしてきた。でも、同時に「彼らのパフォーマンスを詩と定義しないといけないその現象」は崩壊であり、悲哀だと思う。めんどうくさいのは、崩壊も悲哀もとてもうつくしいという、その、いってん。

   ◇◇◇

 帰りの駅にふたりのホームレスがいた。ひとりがもうひとりに「いいか。ごみはきちんと捨てなくちゃいけないよ」と言っていた。わたしはそれが詩的現象、あるいは詩だと思った。たぶんここまではあっていると思う。だけれど、同時に、わたしはそれを詩的現象、詩と呼ぶことのどうしようもないばかさを、すこしくらいは意識しておく必要はあるのかもしれない。その努力は、もちろんまったくしないまでも。

   ◇◇◇

 花びらのない花になぜひとは欠落の名を捧ぐのか。

   ◇◇◇

 ブコウスキーは「何故あなたは政治や社会的な問題について書かないのですか?」と問われ、こう答えた。
「なんのために? たとえばどんなできごとを? ベーコンが焼けているのは誰だって知っている」




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