スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

あたしのこゆび

2009.09.13(06:34)

村上昭夫詩集 (現代詩文庫)村上昭夫詩集 (現代詩文庫)
(2000/01)
村上 昭夫

商品詳細を見る

「チョコレイト・ディスコ」もかわいいけれど「マカロニ」もかわいいよね。マ・マ・マ・マカロニ。

 硝子のコップをきょぽきゅぽ洗っていたらいきなりぱりんと割れてあたしの小指がとれてしまった。あたしの握力はひとから「あいつ、片手でりんごの皮をつぶせるらしいぜ…」とうわさされるほどひどいものだから、洗われるコップが急にやる気を失ったにちがいない。コップにきらわれた。ショックを受けて、あたしは小指をひろって、ボンドでくっつけた。くっついた。くっつくまでのあいだ、小指をおさえてお勝手をうろうろしていた。朝の6時だった。何をやっているんだろう。ばかみたいだ。ばか。あたしばか。そんなふうに思って、憲法の勉強をして、眠った。

「コクトーの詩集はつまんない!」と大声で言ったけれど、「平調曲」や「オペラ」からがぜんよくなる。ごめん。でも解説のほうがおもしろい。コクトーの初のバレエ作品は、衣装と背景がピカソ、作曲がエリック・サティというすごいメンバーだった。コクトーはその舞台挨拶で観客から「ひとを馬鹿にするにもほどがある! ぷんぷん!」と言われ、林檎を投げつけられて負傷した。

 現代詩文庫「村上昭夫詩集」を読んでいる。こういうのを読むと、あたしは、初期の鈴木志郎康みたいなちんぷんかんぷんのこきたない詩より、たんじゅんな詩のほうが好きなんだなとしっかり思えて、好き。ちんぷんかんぷんな詩でもいいけれど、そのなかにたんじゅんに光る一文に、惹かれる。

 死んだ小鳥は
 葬らねばならない

 ほんとうの空ならね
 何時だって真っ青な色なんだ
 そう思いながら
 みきちゃんもかこちゃんもけんちゃん達も
 みんな鉄砲なんかうたない
 幸せな大人になるんだもの
 そう思いながら

 死んだ小鳥は
 葬らねばならない
            ――小鳥を葬るうた


 
 ねずみを苦しめてごらん
 そのために世界の半分は苦しむ
 
 ねずみに血を吐かしてごらん
 そのために世界の半分は血を吐く

 そのようにして
 一切のいきものをいじめてごらん
 そのために
 世界全体はふたつにさける

 ふたつにさける世界のために
 私はせめて億年のちの人々に向って話そう
 ねずみは苦しむものだと
 ねずみは血を吐くものなのだと

 一匹のねずみが愛されない限り
 世界の半分は
 愛されないのだと
            ――ねずみ

 村上昭夫の詩は動物と宇宙(世界)があっさり結合してしまう。だからセカイ系だと思う。村上春樹もよくセカイ系だと言われるけれど、村上春樹はセカイ系だと「言われてしまう」ことがすごい。「太宰なんて道化だよ」と言われてしまうことが太宰のすごい点であるのと、同じように。動物と宇宙がある。そのふたつは線分で結ばれ、その中心に黒い穴がある。その黒い穴が、村上昭夫の詩だと思う。

 文学の話をまじめに。
 誰かが「昔の文豪の書いた原稿用紙を見た。ものすごい推敲のあとがあった。昔のひとはやはりこれほどたくさん推敲していたから、すごいものが書けるんだなあと思った」と言っていた。あたしはこれはうそだと思う。昔のひと、原稿用紙で書いているひとに比べたらパソコンで書いているひとのほうが絶対推敲していると思う。パソコンだと推敲のあとが残らないから比べられるわけがないけれど、パソコンなんかで文章を書けばすいすいなおせるのだからパソコンで書いているひとのほうが推敲しているに決まっていると思う。
 それで、たぶん「もしかりに今のひとが昔のひとに比べてろくな文章を書けないのだとしたら、推敲ばっかりしているからじゃないの?」といっかい思わなくちゃいけないと思う。
 推敲をする・しないは問題じゃないと思う。山之口獏みたいに発表したあともだらだらだらだら推敲してなおすひともいれば、三角みづ紀さんみたいにいっさい推敲しないと言うひともいる。どちらもとてもすてきな詩を書く。だから推敲すればいいものが書けるとはかぎらない。推敲しなくてもいいものが書けるひとがいて、推敲したら推敲しないよりもっといいものが書けるひとがいて、推敲してもしなくてもろくなものが書けないひとがいる。それだけだと思う。「パソコンで書くか、手書きで書くか」とか「横書きで書くか縦書きで書くか」も同じような問題だと思う。パソコンで書きたいひとはパソコンで書けばいいし手書きで書きたいひとは手書きで書けばいい。パソコンで書いてろくなものが書けないひとが手書きで書いてろくなものが書けるわけもなく、その逆も、おんなし。「ヘミングウェイの文体はタイプライターのリズムだ!」という話は興味深くて好きだけれど、好きなだけで、あたしはヘミングウェイじゃない。
 文章を書くひとは、みんな自分がヘミングウェイじゃないのに「あたしはヘミングウェイだ!」と思っているんじゃないだろうかとときどき思う。それがいいことなのかわるいことなのか知らないけれど、そう見えることがある。
「推敲する」とひとくちに言ってもいろいろなやりかたがあるんだから、せめて、そういうことを語るべきだと思う。だらだら自分の文章を読んでちょっとだけ最後の「だった。」を「だ。」にして「すいこう!」とか「リズムを整えた!」と言っているひともいれば、ばっさり一部を切って新たにこつこつ書きなおすひともいると思う。「神は細部に宿る」という言葉はだいたいあっているようにも思えるけれど、「細部ってどこだ?」についてまじめに考えたほうがいいのだと思う。「だった。」を「だ。」に変えることが細部だと本気で思っているんだろうか。
 ということをあたしは思うけれどなにひとつ自分に活かさないという方法論。文学なんてまじめに考えたら「書くより書かないほうがいい」ということに落ちつくような気がするので、まじめに考えちゃいけない。くわばらくわばら。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/695-209edefd
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。