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音楽が鳴る場所

2009.09.14(12:04)

MELOPHOBIAMELOPHOBIA
(2006/12)
安川 奈緒

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「今日が賞味期限なんで食べてください!」と言ってせんせえがお菓子を持ってきたのであたしはもぐもぐ食べる。もぐもぐ。そういえば二カ月ぶりぐらいでせんせえと会ったなあと思いだして、「研究のことなんにも言わなかった。らっきー」とうきうきしていると、ドアがばたんと開いて「ところで桜井くん話は変わるんですけれど最近(研究について)どんなことに興味がありますか?」とにこにことやってきた。「えーといまプログラムの改修をしているんですけれど。もごもご」と返すけれど「ロングレンジ(長期的に見て)で」とすっぱり言われる。あたしは口ごもる。お菓子が口に入っていたからではなく頭のなかに研究のことが入っていないからだ。せんせえは「好きなことやればいいんじゃないですか」と言って笑う。あたしも笑う。「桜井くんはもう台湾で発表もしたし、べつに、ねえ、もう、なんでも」。あたしはこれを卒業可能フラグと受けとった。なんであのせんせえはあたしたちに甘いのだろう。甘やかされたので帰ります。

   ◇◇◇

「自分が必要とした言葉を他人も必要としていると根拠もなく信じること。それ以外に私は他人との関係をもう想像することもできないぐらい友達がいない。」で始まり「この世は音楽を愛しすぎている。」で終わる安川奈緒「MELOPHOBIA」のあとがきをあたしは一生忘れたくない。理解や共感はいらないと思っているだろうと思う。音楽恐怖症というタイトルを掲げた彼女は、共感や理解を音楽だと思っているように見える。安川奈緒なら「おまえがそう思うことは私の詩とは関係ない」と言いそうだけれど、関係ないとしても、わたしは「理解や共感は音楽だ」と思った。あとがきの一行目は圧倒的な世界の肯定だと思う。そういう人間関係を望みながらいつも手に入らないと嘆いているひとが馬鹿に見えるほど、肯定だ。
「音楽の趣味があうことと読書の趣味があうこと、人間関係としてどちらがたいせつ?」と訊かれわたしは「音楽の趣味があうこと」と即答した。それはいま思えば音楽の性質の話だった。わたしやわたしが想定する他人たちとの性質ではない。
 理解や共感を必要としなければ保たれない存在がひどく脆いと思えることがある。文学を必要とする人間は文学を必要としない人間に比べ劣っているといつでも思っている。ほかの人間は文学なんてなくても平気で生きているのに、わたしはわたしたちはいつも文学文学と言うただの猿にすぎないと思っている。そうだとしたら、わたしは猿でいい。弱者でいい。弱者になったとき幸せになれないと思っているならそれはかんちがいだと思う。弱者になったときに何かを失うと思っているならそれはかんちがいだと思う。弱くてもいい、逃げてもいい、屑でもいい。そのときそのひとが幸せであるならば。
 理解や共感が発生される場所はわたしの絶対的な頭のなかだと思う。ひとが救われないのは決まっている。完璧な救済なんてありえない。だからわたしはそのときどきによって少しずつ救済されるしかない。音楽が鳴りひびくのはドーナツの輪ではなく、その何もない中心だ。理解や共感の上でしか成りたたないものはわたしと相手との関係性を放棄している。理解や共感が鳴るのはわたしの中心にすぎないからだ。安川奈緒は世界を撃っている。彼女の詩集は拳銃で、彼女の言葉は弾丸だ。彼女は花だ。わたしは彼女が世界に向けて撃った流れ弾にまちがってあたった。わたしは彼女になら撃たれてもいいと思った。彼女が撃ってくれるから、わたしはときどき流れ弾にあたることができる。ほかのほとんどの人間は撃たない。何かしゃべっていると思いこんだまま何かしゃべっている。どうしてわたしがそんな人間の言葉を聞かなくてはいけないんだろう。彼女は花だ。理解することなく世界を撃つ彼女は誰よりもやさしい。




コメント
>>弱者になったとき幸せになれないと思っているならそれはかんちがいだと思う。弱者になったときに何かを失うと思っているならそれはかんちがいだと思う。弱くてもいい、逃げてもいい、屑でもいい

強者になったとき幸せになれないと思っている人間や強者になったときに何かを失うと思っている人間が自分のまわりにはあふれているので、この文章は少々意外でした。自分のまわりにいる人間とはここでいう文学を必要としている者がほとんどです。
【2009/09/15 13:59】 | 名無し #- | [edit]
>強者になったとき幸せになれないと思っている人間や強者になったときに何かを失うと思っている人間が自分のまわりにはあふれているので、この文章は少々意外でした。

むしろそっちのほうが僕には意外です。文学を必要としている人間はみんな「俺は屑だ!」と絶叫している人間ばかりだと思っていました。
【2009/09/17 06:07】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
どうやら僕には「俺は屑だ!」という絶叫の後に「だけど屑だからこそ分かることがある!」「屑だからこその美しさがある!」などの反転した図々しい自己肯定のメッセージが多少なりとも隠されているんじゃないかと疑いたくなる回路が育っているようです。記事の中で「猿にすぎない」という否定の後にすぐそれを肯定するあたりに、反転したナルシシズムみたいなものを邪推したくなったのかもしれません。
元々僕は自分が劣っているとか弱者だというのはある意味非常に卑怯な態度で、そのマイナスの地点から脱出する意思と行動がないものが言う場合は特別なデリカシーが必要だという考えに過剰な思い入れがあるのですが、それでもやはりこういうブログまで開設している人が文学を必要とするのは劣っている猿だと言うからには、文学を必要としなくても平気なようになるための意思を少しでも感じられるのが望ましいというか、そうでなければ説得力がなく不誠実だと思うのです。
【2009/09/17 16:16】 | 名無し #- | [edit]
 だいぶおもしろいです。コメントありがとうございます。 

>どうやら僕には「俺は屑だ!」という絶叫の後に「だけど屑だからこそ分かることがある!」「屑だからこその美しさがある!」などの反転した図々しい自己肯定のメッセージが多少なりとも隠されているんじゃないかと疑いたくなる回路が育っているようです。記事の中で「猿にすぎない」という否定の後にすぐそれを肯定するあたりに、反転したナルシシズムみたいなものを邪推したくなったのかもしれません。

 それは邪推ではないと思います。この記事のなかで本当に肯定されているのは、「いつも文学文学と言うただの猿」だと思います。「屑だからこその美しさがある!」という物言いは、たとえ「図々しい自己肯定のメッセージ」であったとしても、まちがっているとは思いません。それを「図々しい自己肯定のメッセージ」として発することは、控えるほうがよいかもしれませんが。
 ほとんどすべての文章はナルシシズムだと思っています。美しい文章は、他人から見たときまったくナルシシズムがないように見える文章のことかと思うときがあります。僕はナルシシズムのかたまりです。こういう物言いもナルシシズムです。ナルシシズムを消そうとは思っていません。それとどう向きあうか、それをどう描くかの問題だと思っています。

>元々僕は自分が劣っているとか弱者だというのはある意味非常に卑怯な態度で、そのマイナスの地点から脱出する意思と行動がないものが言う場合は特別なデリカシーが必要だという考えに過剰な思い入れがある
 
 その考えはとてもまっとうだと思います。ただ、マイナス地点から脱出する意志と行動がある時点で、そのひとはとても強いひとだと思います。そしてその言いかたはいつも強者から発されるものだと思います。
 少し話がずれるかもしれませんが、弱者の声、たとえば「俺はこんなに屑だけれどそんなものは全部社会のせいだ!」という声があるとすれば、僕はそういうものを聞き逃しがちです。聞いていてもちっとも楽しくないからです。「そのマイナスの地点から脱出する意思と行動がないものが言う場合は特別なデリカシーが必要だ」。特別なデリカシーをつけたら、たとえば太宰治のようになるのでしょうか。たとえば秋葉原で通り魔事件を起こした加藤智大のその行動が特別なデリカシーだという可能性はないでしょうか。「特別なデリカシーが必要だ」と言うその声はたとえば「馬鹿は黙っていろ」と何かちがうところがあるのでしょうか。

>こういうブログまで開設している人が文学を必要とするのは劣っている猿だと言うからには、文学を必要としなくても平気なようになるための意思を少しでも感じられるのが望ましいというか、そうでなければ説得力がなく不誠実だと思うのです。

 誰かを説得するため、論理を駆使して何かを言おうとしているわけではないので、この文章に説得力を求めてはいません。でも誠実さがなかったらそれはわりあいいやです。
 僕は「文学を必要としなくても平気なようになりたい!」と言っているわけではありません。なりたいと思わないでもないこともないのですけれど、それよりは、「文学を必要としたままでもいいけれど、必要としたままどう過ごすべきかなあ」と思います。文学を必要としなくても平気なようになりたいひとはそうなれるようにがんばればいいと思います。ただ僕はもうちょっとべつのことを考えようと思っています。
【2009/09/17 18:42】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2009/09/19 02:09】 | # | [edit]
石川啄木の歌に「農作業と短歌は同じ価値だよ。こう言うと農家も怒るし、歌人も怒るんだけどな!」(意訳)というのがあります。文学をやたら「高尚なもの」にするのは私は嫌いですね。
【2009/09/19 21:52】 | 上田洋一 #- | [edit]
> 石川啄木の歌に「農作業と短歌は同じ価値だよ。こう言うと農家も怒るし、歌人も怒るんだけどな!」(意訳)というのがあります。文学をやたら「高尚なもの」にするのは私は嫌いですね。

そうなんです。僕も「それはあんまり意味ないな」と、いろんなひとを見て、せっせと表面上から高尚さをそぎおとす行為をしているわけです。文学が好きなのは僕にとってはあたりまえなので、できるだけ「文学なんてくだらない!」とか「文学をやっているひとはばかだ!」とか、そういうことを言いたいと思っています。
僕は今のところそういう態度がすてきだと思うからそういう態度で臨んでいる・臨んでいこうと思うわけですけれど、けっきょくそれはでも数ある態度のひとつでしかないと思うのです。「高尚なものとして見据える」というのもひとつの良い態度であるにもちがいなく、まあ僕ももちろん文学は高尚なものだと思っていないでもないので、「まあどうしよう」な感じです。
【2009/09/20 17:09】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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