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しながわ・しぶや・ろっぽんぎ

2009.09.18(23:57)

ピカピカサンセットレインボーブルースピカピカサンセットレインボーブルース
(2005/01/13)
tobaccojuice

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 ひとり、電車に乗って「しながわ」へ行った。原美術館は遠かった。住宅街のまんなかにあったので、わたしはとっても混乱した。「この作品が見たい!」と思って目当てで行った作品が実物ではなく写真作品だったことに、とっても混乱した。その作品はやなぎみわ「案内嬢の部屋 1F」だった。写真美術館で見たときは「びみょう…」と思っていたのだけれど、こういう写真を撮らせればやなぎみわはすごい。ボリス・ミハイロフ「昨日のサンドイッチ#11」は女の子のおしりが写っていて好き。ほかには、トイレにお花が咲いている作品だとか、トイレでマネキンが大股開きしている作品だとか、おもにトイレ関係の作品がよかった。トイレ美術館。
 ツァオ・フェイ「RMB City:セカンドライフでの都市計画」はびっくりした。どういうつもりでつくっているのか知らないけれど、ひどく悪趣味だと思う。「FF7」の頃からちっとも進化していないじゃないかと思う。あれから10年経ったというのに、たぶんわたしたちの「近未来観」はたいして進化していないのだと思う。それはたぶんわたしたちが近未来を想像することをすっかりやめてしまったからだと思っている。「サマーウォーズ」のOZはたとえば近未来的なシステムだと言えなくもないのだけれど、そこでは、もちろん近未来なんて描かれていなかった。「近未来」というのはもうそういうふうなものになってしまったように見える。銀色のぴかぴかの服はもう近未来的ではとっくになくなってしまっている。だって、あんなださい服を近未来のひとが着るはずがないもの。銀色のぴかぴかの服は近未来的ではなくて、もう過去的になってしまった。トイレ美術館。

   ◇◇◇

「しぶや」まで移動して、ユーロスペースでフレデリック・ワイズマン「聴覚障害」を見る。あんまりにもおもしろくて愕然とした。いちおう、ドキュメンタリー作品だけれど、見ていても、ドキュメンタリーなんだかフィクションだかちっともわからない。ドキュメンタリーだと知らなかったら、ずっとフィクションだと思って見ていたと思う。ブコウスキー「死をポケットに入れて」を小説だと思って読んでいたらあとがきでエッセイだと書いてあったびっくりした、ことを思いだす。「すぐれたフィクションはドキュメンタリーである。すぐれたドキュメンタリーはフィクションである」とゴダールは言っていたけれど、そういうことなんだと思う。いい文章は形式がなんであってもいい文章だし、いい映像は形式がなんであってもいい映像なんだと思う。演技ってなんだろうと思う。わたしはこのなかのひとたちが演技をしていても不思議じゃないと思った。そうわたしが思ってしまうのはフィクションとしての映画の功労だと思うけれど、それでも、演技ってなんだろうと思ってしまう。形式を問うことがくだらなく思えてくれる作品が、好き。色合いが好きだった。光がきれいだった。どのひとも醜くなかった。やさしかった。聴覚障害者を撮るその真摯さにびっくりする。たとえばワイズマンは、「自殺するんだぴょん!」と言う男の子にたいして大人たちが語る言葉をカットしない。どこかの黒人が「ひゃっほいっ! アメリカさいこうっ!」という趣旨の演説をカットしない。カットしなくても強度を保てているように見える。カットしないことがあたりまえのように見えてくる。こういうのを見てしまうと、ぶいぶいカットして要点だけをかんけつに述べた映像がひどく不誠実に見える。要点だけをまとめた文章がすくなくともわたしにとって読む価値がないように見えるのと同じように、要点だけをまとめた映画もわたしにとっては価値がない。ワイズマンの映像は、聴覚障害者にいっさいの同情もかけていないように見える。そこにあるものを撮ってそこでしゃべっているひとたちを撮っているように見える。ほんとうにすごいのは、聴覚障害者の映画なのに、わたしが聴覚障害者にぜんぜんなんの感想も抱かなかったことだと思う。まったく。ドキュメンタリーのくせにこんなものはほんとうになんの役にもたたない。でもわたしはほとんどの映画よりも好き。大好き。

   ◇◇◇

「ろっぽんぎ」まで移動して、新国立美術館で酒井幸菜の新作ダンス「スピカ」を見る。酒井幸菜と中村未来のふたりで踊る。意外にひとが多いのでびっくりした。わたしは、最初のほう「やばいこれつまんない…えー…ユッキーナそういう方向行くの…そういう方向だったら俺見ないよ…俺…きらいんなっちゃうよ…どうしよう…どうしよう…やばい…胃が痛くなってきた」と思っていたのだけれど、中村未来が一時退場して、酒井幸菜がソロで踊りはじめたところからとってもおもしろかったのでひとあんしんした。
 酒井幸菜は去年横浜で見た。リングドームという小さな野外会場のなか、半径1メートルほどの範囲で、土の上で、わけのわからないすてきな楽曲にまぎれて真っ白な服で踊る酒井幸菜はとてもきれいだった。夜だった。月がでていた。わたしはそれを見て「ダンス見なくちゃ!」と強く思った。幽霊が土のなかからにょきにょき生えてきたみたいですてきだった。好きだと思った。
 その印象が強すぎるので、酒井幸菜はるんるんに踊るひとではないと思っていた。今日の酒井幸菜はずいぶんるんたったに踊っていたのでびっくりした。横浜以降、年末にべつのひとの振りつけで踊る酒井幸菜を見ただけだったので、もしかしたらずっとるんたったに踊っていたのかもしれない。
 考えてみればダンスは人生で5回くらいしか見たことないので、いまだに何をどう見ればいいのかさっぱりわからない。意味のないとしか思えない動きのなかにときどき意味そのものの動作がはいるけれど、あれはどう受けとめたらいいんだろう。音楽が消えたときぺったんぺったんお餅をつくような音だけさせて踊るのだけれど、そのとき音楽はどうしちゃったんだろう。音楽がなくても踊れるのならばどうしてみんな音楽をかけるんだろう。そして音楽がなくて踊るときと音楽があるときの踊りはたいていの場合音楽があるほうがぞくぞくするけれど、それはダンサー・観客双方の身体が音楽によって揺り動かされるからだとたんじゅんに考えていいんだろうか。それとも、音楽がないときから音楽があるときへと移るその落差にうっとりするからなんだろうか。構成はむずかしいんだろうと思う。5回くらい見たなかで、公演時間によるけれどどのパフォーマンスもそんなにちがいないように見えた。小説や映画に比べ、たぶん舞台上のパフォーマンスはずっと構成が限定されてしまうんだと思う。横浜で見た酒井幸菜のソロはたんじゅんに「静」から「動」で、はじめの頃はあんまりにも動かないものだから「このひとは凍っているのかなあ」と思っていた。たんじゅんな構成でいいような気もするし、複雑な構成でもいいように思う。でもそれは時間による。ふたりで30分ならその構成でいいのかもしれない。
 ダンスはなかなかゆかいで、なかなかくせものだ。いっぱい見よう。ダンスが見たい。でもわたしは誰を見たらいいのかぜんぜん知らない。こまる。演劇もそうだ。たぶん、実際に劇場へ足へ運んでどっさりもらえるちらしから適当に見繕って行けばいいのだと思う。レトロさの湯加減。ちゃんと好きになろう。わたしも、あなたも、ちゃんと。
 踊っているひとの顔はなんであんなにこわいんだろう。正確に言えば、踊っているなかとまって、ライトに照らされている顔がこわい。こわいからすき。すきです。
 松本陽子/野口里佳の「光」の展示も見た。松本陽子の絵はたいへんにきれいだけれど、たとえば30枚の絵が3枚になればわたしはもっとほうっとなれたと思う。このひとの絵を見て「つまり細部がうんぬん」ということではなくて、もっとちがうことが言えるようになりたいと思う。
 野口里佳の写真はヴァリエーションもあり、いちまいいちまいがしっかりしていて、とても好きだと思った。ショベルカーなんてわたしのだいきらいな乗り物だけれど、このひとが撮るとすごくきれいになる。ショベルカーが海の水をかいている写真、すてき。色がきれい。暗い部屋の写真もよかった。「マブラ」はすごいきれい。

   ◇◇◇

 15秒くらい立ち読みしただけだけれど、講談社文芸文庫の「尾崎放哉随筆集」の散文がとてもすごいことになっているように見えた。おまえ、忘れずに買うといいよ。




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