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勅使川原三郎「鏡と音楽」@新国立劇場

2009.09.26(23:42)

 新国立劇場で、勅使川原三郎「鏡と音楽」を見る。問いと答えという関係以前にきれいなものはあるんだなあと思っていっぱい、泣きそうになった。問う以前から美しくて、どう答えようとも変わらず美しい。それは揺るぎない確固とした美しさであって、ときどき、そういうものに憧れる。
 勅使川原三郎の前作を見たとき、わたしは「タルコフスキーがカメラに映した美しさの要素が舞台で再現されている!」ととてもびっくりした。タルコフスキーの「鏡」という映画にたいして、わたしは「あの映画を見るとこころのなかに十字架が建築される」と言ったと思う。それは「十字架」ではなく「王国」と言いかえてもいいと思う。芸術は歴史と接続されたときにだけそのかたちを保てる。だから、わたしたちが芸術を見るということは、わたしたちの腹のなかで「シムシティ」をやっているということだと思う。ほんとにすぐれた芸術だけが、わたしたちの王国を活性化させ、街並みを美しくする。その作業はやみつきになり、とても楽しい。
 映画とは光のことだ。わたしたちは映画を見ているんじゃなくてスクリーンに映っている光を見ているだけなのに、わたしたちはいつもどこかがぷっつんしているから、たやすく「今日は映画を見たよ!」と言ってしまう。肝心なのは、スクリーンに投影された光が同時に観客席にいるわたしたちの顔と姿を映しだすことだ。わたしたちは光を見ていると同時に光に見られている。映画の深奥に人間のこころを見るとき、わたしたちはこころをさらけだしてしまう。「映画とはわたしたちの音楽だ」とゴダールは言った。ウロボロスのように相互に動くベクトルがぱくりとおたがいのしっぽに咬みつくとき、そこにできた空洞にわたしたちの音楽が降りそそぐ。ゴダール、タルコフスキー、安川奈緒、そして勅使川原三郎などを見てわたしが考えているのはこういうことだけれど、世界に有効かどうかはわからない。役に立たないことにはちがいないけれど。
 闇と光の関係は沈黙と言葉(存在)に似ている。わたしたちは言葉を使わなければ沈黙できない矛盾したなかにいるけれど、闇も光を使わなければ表現できない。「鏡と音楽」では光がすごくきれいだったけれど、同時に闇もやっぱりすごくきれいだった。でも、あまりそういうことを言ってもしようがないと思う。
 わたしは女の子が好きだから女の子が見たいと思うけれど、勅使川原三郎は、わたしの知るかぎり日本でいちばん美しいおっさんだ。おっさんが闇に包まれた光のなかでばっさばっさ踊る、それだけでおっさんはほんとうにほんとうにきれいになれる。たぶんそれがダンスなんだと思う。勅使川原三郎だけじゃなくて、踊っているひとりひとりのひと、舞台全体が、とてもきれいで、とてもきれいだから、わたしはいっぱい鳥肌がたって、いっぱい呆然とした。ブラヴォーと誰かがさけんでいた。ブラヴォーとわたしは思った。わたしはすごいものを見ていると思った。生きてきたなかで、もっとも美しいものを見ていると思った。わたしはダンスなんてぜんぜん見ないけれど、もしこれ以上きれいなものがあるとしたら、それはとてもたいへんなことになるのかもしれないと思った。この劇場にいない、ほかのひとたちはいったい何をしているんだろうと思った。ストローをくりくりまわしたり、パンをちぎって道にまいたり、手をつないだりしていたのかもしれない。でも、ストローはいつでもまわせるし、パンはちぎらなくても食べられるし、手は、劇場でもつなぐことができる。その劇場でとんでもないことが起こっているのに、ほかのひとは何をのんびりしているんだろうと思った。たぶんわたしが劇場に入ったあと、核が降ってきて世界は滅びちゃったんだろう。わたしが見ていた1時間30分のあいだに、世界はとどこおりなく再生されちゃったんだろう。そういう気がした。それはとても正しい気がした。そういう舞台だった。だいすきだった。だいすきのだいすきだった。




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