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ぶれていく好き

2009.10.09(12:54)

鈴木いづみプレミアム・コレクション鈴木いづみプレミアム・コレクション
(2006/04)
鈴木 いづみ

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 あっけなく履修届けが受理されたので、にこにこ。また狂ったようにダンスのチケットを予約してしまった。11月下旬から12月頭にかけてあたしはダンス・ダンス・ダンスだ。ばかだ。たぶん頭がおかしくなっているのだと思う。でも、たぶん、あたしは今この瞬間が「あたしが人生でダンスを好きに思う時期のピーク」だと思う。たぶんこれからの人生でこれ以上ダンスを好きになることはないような気がする。どう計算してもお金がたりなくて「うへへへ」という状況なのだけれど、そういうピークの時期にお金のことなんてぶちぶち考えていたくないので、好きにチケットを予約しちゃうんだ。ばか。あたしばかだ。ばかでいい。世のなかにあんなきれいなものがあって、それを見られるチャンスを失うことを考えるならば、「お金がない…どうしよう…」と思う不安や親に「ごめん。今月お金ないから2万円貸して」と言うときの罪悪感なんてたいしたものではないと信じたい(あたしの貯金はほんとに常時0円です)。きれいなものが意外に多いこの世界がわるい。世界なんて滅んでしまえと思う。だいすき。
 あともういっこ「あたしが人生で韓国映画を好きに思う時期のピーク」も今だと思う。「これだ」と思う韓国映画はどれを見ても全部おもしろいので韓国映画がこわい。
 何かを好きになる時期というのはすごくこわい。詩、小説、映画、音楽、いろいろなものをいろいろな時期に好きになってそしてその好きの基準が少しずつぶれていくけれど、たぶん入りたての頃がこわい。Pink FloydやRadioheadを聴きはじめたときもCDをたくさん買ったし、ゴダールを見はじめた頃もゴダールやタルコフスキーやパラジャーノフのDVDをたくさん買ったし、三角さん関連のものもあたしは気がついたら全部買っている。詩も、小説も、音楽も、映画も、演劇も、ダンスも、絵画も、全部好きでいたい。そのなかで特定の何かを好きになったときも、けれどそのほかの何かもそれ以前と同じように好きでありつづけるという状態があると思う。最近、あたしにしてはめずらしく小説を書くということがわりあい楽しく、それはもうたくさん書いていて、だから逆に詩はぜんぜん書いていないのだけれど、また詩もいつか書くと思う。
 そんなふうな連続とした好きというものがあって、それはそれでとても楽しく、気持ちがいい。でも、あたしはこういったことをまちがっているとなんとなく思う。それは幸せのありかたではないと思う。思うのだけれど、たぶんまちがっているのだけれど、そういうことはとても楽しくて、楽しいから、ついやっちゃう。ばかだなと思う。そういうことではないのだけれどと思う。まちがっているものをちゃんと好きになりたい。きたなくまちがっているんじゃなく、美しくまちがっているものをちゃんと好きになりたい。それができるとき、あたしはとても気持ちよくなれると思う。

   ◇◇◇

「鈴木いづみ プレミアム・コレクション」を読んでいるけれど、あたしが好きなものとはだいぶちがう。書いてあることはわかる。でも、あたしはその書きかたには感化されない。「契約」はおもしろかったけれど、書きかたはケータイ小説と同じだと思う。「会話」と「稚拙な心内語」だけが続きそれにストーリーがからんでいる。でもそれで小説を構成するのは難しい。吉行淳之介か誰か(たぶん吉行淳之介じゃない)が「小説において記号を使うべきじゃない」とかなんとか言っていた。読点句点を極力減らすだけでなく、括弧までも徹底的に減らした。べつにあたしは吉行淳之介じゃないのでそんなことをする必要もないけれど、そういう話を覚えておくとちょっとうれしい。小説において、基本的に会話は多くさせるべきじゃないとあたしも思っている。書いている本人が思っている以上に、会話というのはつまらない要素だと思う。あたしは自分と関係ないひとがする会話はだいたいきらいだから、だまっていてほしいとよく思う。会話をさせるならちゃんとおもしろい会話をするべきだと思う。おもしろい会話というのはでも難しいから、おもしろい会話についてちゃんと考えなくちゃいけないと思う。ダンスが好きな時期だからダンスにからめて言うけれど、ダンスは会話がひとつもなくてもあんなにおもしろいのだから、小説もたまにはちょっと踊ってみたほうがいいと思う。
 高橋源一郎が解説で「70年代に現代を先取りしている」と微妙なことを言っている。たとえば、ビートルズを聴いて「今聴いても良い!」と言うのはただのノスタルジーで作品への評価じゃないと思う。「時代を先取りしている!」とか「今聴いてもすごい!」とか、そういう言葉をあまり信用していないようにしている。あたしが思う作品のおもしろさは「今目の前のことを描写し、何かが起こっているのはわかるけれど何が起こっているのか本当のところはわかっていない」という点だと基本的に思う。作家は目の前のことを書くべきだと思う。仮にそこに未来が描かれていたしても、それは「目の前に含まれた未来」にすぎない。けっきょく、作家は目の前のことしか書けないのだと思う。それでいいと思う。作家が目の前のことしか書けないのなら、あたしはその作家にたいして、たとえその作家が死んでいたとても、「きみはあたしの目の前にいるよ」と言いたい。それがけっきょく感傷にすぎないとしても、今はそう言いたい。
「形式」と「内容」を考えたとき、あたしはだいいちに「形式」を問題にしていたいと思う。「書かれた内容」よりも「書かれかた」を問題にしたいと思う。「意味」よりも「存在」を問題にしたいと思う。これはあたしが今のところ大事にしていきたいことだ。絶対的なものなんてありえないと思っている。あたしがAという内容を好きで、Bという内容をきらいだとする。でも、かりにBという内容をとてもきれいな文章で書いているひとがいたらあたしはBも含めてそれを好きになりたい。真実だとか、真理だとか、その手のものはそこらへんにいっぱい落ちていると思う。ビジネス書や自己啓発本にもそういうのはたくさん書いてある。でもあたしがそれらを信じようとしないのは「ただ書きかたがあたしにとって気に食わない!」というそれだけの理由だと思う。あたしが好きなひとがあたしが好きではないことを言っても、あたしが好きなひとがそれを言うなら、平気でその言葉を信じたいと思う。

   ◇◇◇

 このあいだ部屋を掃除していたら神羅カンパニーの社員証が出てきた。だいぶ痛い。あたしがすでに世界を牛耳る企業の社員だとばれたら内定はとりけされるのだろうか。だいぶ怖い。




コメント
たぶんあたしが好きなひとはあたしが好きなことを言うひとなんだなとも思う。
【2009/10/09 12:58】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
小説において過度な会話は無用だと思います。「源氏物語」なんかほとんど「気持ちの流れ」と和歌の贈答だけでできてますもんね。会話は増やすと小説全体がマツクイ虫にやられてスカスカになるんじゃあないでしょうか?そんな気がします。
【2009/10/10 22:10】 | 上田洋一 #- | [edit]
今プルースト読んでいるんですけれど、あれって今のところ散歩しているだけなんでね。散歩してごにょごにょ感慨を言っているだけで、でもそれが小説なんだって思います。
僕は小説は描写があればいいと思っています。会話というのは「描写としての会話」という意味あいでしかなくて、ケータイ小説やライトノベルや描写をする必要がないから、ずたずた改行していくんだと思います。「描写としての会話」は映画を見ればよくわかると思います。会話は音の一部で、映像の一部です。そういうふうに考えたら初心者は描写しやすかろう、と最近僕がつらつらつらつら考えていること、です。
【2009/10/11 15:39】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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