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酒井幸菜「In her, F major」@LIFT

2009.10.13(10:09)

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 キム・ギドク「うつせみ」を見た。資料室で見ていたら心臓がとまった。写真の目に白色の紙が貼ってあって女性が驚くシーンがあるけれど、その写真を映したまま男性にしゃべらせるのはゴダールだと思った。ゴダールを好きなのでうれしい。ラストの体重計のシーンはパラジャーノフを思いだした。パラジャーノフを好きなのでうれしい。こういう方向にキム・ギドクが動いていくのはいいことだと思う。 

   ◇◇◇

 書きたいことと言いたいことが一致しないのはどうしてだろう。書きたいことが絶対で言いたいことが相対だからだろうか。わたしは絶対よりも相対を愛したいと思うのに。

   ◇◇◇

 早稲田松竹でタルコフスキー「ストーカー」を見た。とてもおもしろいのでうれしかった。タルコフスキーの映画を見れば映画に関する考えかたはだいぶ変わると思う。「映画にたいする考えかた」というのは「タルコフスキーはそういう映像を撮るけれど、なんでほかの監督はそういう映像を撮らないの?」ということだ。「映画にたいする考えかた」というのはこのヴァリエーションでしかないかもしれない。
 この映画のなかでヤマアラシは本当に自分が手にいれたいと思ったものを手にいれたとき、絶望し、首を吊った。本当には欲しくないものを手にいれたとき、ひとは幸福になれるのだと思った。本当には欲しくないものを手にいれようと思うときだけ、そのひとはきれいになれる。醜くなろうとして醜くなったわたしは美しいと言われる資格がない、と言ったひとがいた。醜くなろうとして醜くなろうとしたその行為は醜いことかもしれないけれど、醜いことを知ることで、そのひとはじゅうぶんに美しくなれる。

   ◇◇◇

 喫茶店で「ヘッベル短篇集」を読んだ。「理髪師チッターライン」、「アンナ」、「牝牛」がとてもおもしろい。

 宵のことで、理髪師チッターラインは、自分の食卓についていた。卓上には明るいランプがともって、この細長い貧相な男の顔を照らしていた。男は、娘のアガーテの運んで来た夕食を、ほとんど気にとめていないのである。娘は食卓につくと、父親を物思いから呼びさまそうとして、錫のさじをかちゃかちゃいわせた。
 
 近代小説であるためか、ヘッベルが劇作家であるためかわからないけれど、客観的に描写に満ち、これだけの文章で読んでいるひとを小説の内側へぐいとひきこむすごい力がある。チッターラインの外見、様相、心情、それが実際の動作にともなって現実として立ち現われている。小説の冒頭としてとても優れていると思う。
「牝牛」はわずか10ページの短篇だけれど、10ページのあいだに出てきた人物が全員死ぬ。父親が室内で金を見つめてにやにやしている。ちょっと目を離すと、息子が遊びでお金に火をつけて燃やしてしまう。父親はいきりたって息子を殴る。息子は壁に頭をぶつけて死んでしまう。父親は自殺する。そこへ母親と使用人と牝牛が帰ってくる。使用人は梯子から落ちて首の骨を折って死ぬ。母親は息子の死体を見て気絶する。やがて蝋燭の火がまわり、家全体が焼ける。母親も牝牛も焼けて死ぬ。
 ひとが出てきて死ぬだけだ。ひとは死ぬから死ぬ。近代においてそれらは客観性により保証できた。でも、現代においてわたしたちは「ひとは死ぬから死ぬ」という全体をしょいこんでからしか何かを書けなくなった。「ひとは死ぬから死ぬ」から死ぬようになった。ひとつ多い。たぶん贅肉だ。
 安川奈緒は9.11について、「9.11という日付のもとで死んだ人間が統一され悼まれるのは不埒なことだ。人間は違う場所、違う場所でばらばらに死ぬべきだ」(適当)と言った。現代の文学では、そう指摘されなければならないほど勝手に死ぬのは難しい。でもそれはずっと難しかったのかもしれない。
「薔薇は薔薇であり、薔薇であり、薔薇である」とガートルード・スタインは言った。薔薇は薔薇であるけれど、人間は言葉を獲得した瞬間に薔薇を切りさいた。薔薇は薔薇であるけれど、薔薇と人間の関係は「人間は薔薇を切りさく」ということでしか示しえない。

   ◇◇◇

 イマムラさんと合流して、早稲田のLIFTまで酒井幸菜「In her, F major」を見にいく。最高だった。「酒井幸菜のドキ☆ドキ生着替え」コーナーがあったからだけでなく、酒井幸菜は最高だった。酒井幸菜は、最高だった。バケツをかぶって登場してくるオープニング、ハサミをしゃきーんとした瞬間、そしてアジアンテイストの音楽にあわせて座ったまま踊ったとき、「見たことのないものを見ている」と思えた。見たことのないものを見るのはとてもうれしいし、好きだし、楽しいと思った。彼女はたとえば身体を計測されるのを誰かに許してしまう。たとえすぐに拭きとってしまうとしても、口紅を誰かに塗られるのを許してしまう。たとえ一瞬の光のなかでしか見えないとしても、暗闇のなかで踊ることを許してしまう。そして悲劇や悲しみや自己嫌悪からでなく、彼女は自分の衣装をずたずたに引きさくことができた。この一点でだけですらたぶんできるひとは少ないと思うので、酒井幸菜をとても好きだと思った。「自転車に乗ってなんたら」の歌のとき、酒井幸菜はいつになくるんたったに踊っていたけれど、それが殺人的なかわいさだったために直視できなかった。直視したらにったらにったらしてしまって気持ちわるいから退場させられてしまうにちがいなくそれはまずいから、直視できず、足もとを見ていた。殺人的なかわいさだった。あまりにかわいすぎるときひとはそれを直視できないのだと思った。3回も言って気持ちわるいけれど、殺人的なかわいさだった。

   ◇◇◇

 イマムラさんと焼肉を食べる。だいたい半分くらい食べたところでお腹いっぱいになり、「お腹いっぱいになったなあ」と思っていたら「お腹いっぱいになっちゃった…」とイマムラさんが言った。「演劇や映画においておもしろいものは究極のところメタしかないんじゃないのか」と言われたので、「映画はそうでもないと思います」とわたしは言った。その例としてアサイヤス「クリーン」を挙げた。でもべつに何も考えず、最近見た映画で普通にいちばんおもしろい映画なので挙げただけだ。「クリーン」はおもしろい。「普通におもしろい」というのはとてもとても、すごいことだ。
 今後のことを考えるか、考えないかというものが問題だと思った。わたしは今後のことを考えない。でも、「今後のことを考える」というその行為自体が難しいのだと思う。あることについて悩んだり、焦ったりするのは、たぶん、自分が考えたくないことを考えているということだと思う。わたしは自分が考えたいことしか考えない。問題は、自分が考えたいことしか考えないということばかりしたその20年後、わたしという人間がいったいどういうふうになっているかということだけれど、ろくなことにはならないと思う。でも、わたしは今はまだ20年後のわたしではない。
 文学自体は救いではない。かりにわたしがとてもおもしろい小説を書いたとしても、それはわたしがとてもおもしろい小説を書いたという意味しかない。そこにたいして価値はない。ここしばらくのわたしは、そこに積極的に価値を見出そうとしていない。問題は、わたしがとてもおもしろい小説を書いたときにとてもおもしろい小説を書いたわたしがこの世界に発露するということだと思う。価値はそのあとに生まれる。そのあとを問題にする。発露されたわたしは日常の光を浴び、輝くか、吸血鬼のように灰になるか。わたしにとって文学と日常は上昇する(あるいは下降し、斜めに向かう)螺旋だ。価値があるのはベクトルだとすれば、おそらく作品のおもしろさはスカラーでしかない。スカラーにはどこにも行かない。その場にとどまり、他人に見られ、測られるだけだ。作品に向かうベクトルと鑑賞者へ向かうベクトルのふたつがある。そのベクトルが中間地帯で円となり、その中心に音楽が降りそそぐ。わたしが今やりたいと思っているのはそういうことだと思う。
 ゴダールは創作について感化と表現という言葉を使った(「ゴダール映画史」)。小説は表現だけれど、ブログは感化だ。ショーペンハウエルを信じるならば、現代においてブログは考えたことを書くべき場所ではなく、考えたことを考えるべき場所だと思う。わたしはそういう場所ならそういう場所として愛せる。

   ◇◇◇

「読者のことを考えてものを書く」と誰かが言うとき、「それは読者に『おまえらは馬鹿なんだから俺はしかたなくおまえらのレベルにあわせて書いてるんだよ』と言うことと何がちがうんだろう」と思う。「読者のことを考えてものを書く」というのは、そんなにだいそれて言うべきことじゃないかもしれない。考えるべきなのは「読者のことをどう考える」ということだと思う。「読者のことを考えてものを書く」と言うときの「読者」とは誰だろう。そこに顔はついているんだろうか。俺は「読者のことを考えて書かれた作品」よりも「(わたしのぜんぜん知らない)Aさんのことを考えて書いた作品」のほうがまだ読みたいと思う。俺は俺の知らない誰かのためにはたぶん何も書かないけれど、俺は俺の知っている誰かのことならときどきは考えてみるかもしれない。ゴダールは一週間で数人しか観客が入らなかったとき、初めて観客について考えることができたと言った。そして大勢の人間に語りかけることができるのは独裁者だけだと言った。




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