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車・パンを焼く・その他の話題

2009.10.13(17:06)

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)ボヴァリー夫人 (新潮文庫)
(1997/05)
フローベール

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 イマムラさんは会うたびにおもしろいことを言ってくるのでおもしろい。
「どこからどう見てもメタではないように見える」映画はなんだろう、と考えていたらホン・サンス「女は男の未来だ」もそうかもしれない。「どこがおもしろい」と言いがたい作品があって、つまり、それが「メタではない」という証明かもしれない。
 メタというのは現代的な概念で、たとえば量子力学や現代数学、情報工学はメタ的な概念がなければなりたたないものだと思う。誰かが「あらゆる小説はメタフィクションだ」と言った。たとえばどこからどう見てもメタではないように見えるカフカの小説でさえ、それを読めば「そうそう小説ってこういうものだ!」と思えるので、それは小説についての小説、つまりメタ小説になってしまう。
 近代文学の始まりは一般にセルバンテス「ドン・キホーテ」と呼ばれているけれど、「ドン・キホーテ」は騎士道物語に憧れて自分を騎士だと思いこんでしまった男の話だ(らしい)。その後文学の発展の歴史の主軸はイギリスにうつるけれど、その時期の代表作「トリストラム・シャンディ」はあからさまなメタフィクションだ。フランスにおいても、写実主義の確立者フローベールが書いた「ボヴァリー夫人」は不倫小説を読みすぎて不倫しちゃった女性の話なので、これもあからさまなメタフィクションにも見えてしまう。「千夜一夜物語」は「殺されたくないからおもしろい話を延々としようぜ」という物語だったような気がする(ちがうかもしれない)。メタだ。
 ドストエフスキーなどを見ればわかるけれど、近代小説は読者への呼びかけをときどき行う。それは現代のメタフィクションと何がちがうんだろうか。文学の文法は変わり、現代では読者への呼びかけを行わない。タルコフスキー「ストーカー」では最後、ストーカーの奥さんが急に視聴者に向かって語りかけ、諏訪敦彦監督「2/デュオ」では主人公のふたりは突然インタビューに答えはじめる。内包されていたメタを表にさらけだし、また押しこもうとしたり、それを故意に出そうとしたり、現代では余計な作業が多い。前回の記事でわたしは現代では「ひとは死ぬから死ぬ」から死ぬと言った。それは確かに贅肉かもしれない。「死ぬから死ぬ」から死ぬ時代は悲しい時代かもしれない。けれど、贅肉を美味しく焼くのを、現代のひとはたまにはがんばっているんだろうと思う。

   ◇◇◇

「日々をおもしろおかしく綴る散文ブログなんて書いてもどこへも行けない。」と言ったひとがいて、わたしはわたしを日々をおもしろおかしく綴ることによってどこかへ行こうとしている人間だと思っているので、あれはどういうことだと訊いた。「日常自体がおもしろくそれを綴るブログがあって、日常がどうであるかに関わらずそれをおもしろく書くブログがある」(適当)と言った。「日常をおもしろくすればいい」とわたしはそのあと言ったわけだけれど、そんなことは究極なので、それがいちばん難しい。わたしを日常をおもしろくすることをとっくにあきらめかけていて、それはけれど日常がおもしろいと錯覚することをあきらめているわけではないと思う。「こわいな」とわたしが思うのは、かりに日常が本当におもしろくなったとして、それを測ったり実感したりする方法はあるんだろうかと思えることだ。日常がおもしろいとしても、それを実感する方法はあるんだろうかと思う。「日常のおもしろさ」と「わたしが感じる日常のおもしろさ」には、こういう言いかたが許されるならば、いっさいの関係がない。関係がないから、錯覚でもいいから、わたしはあらためてそれを「何か」によって結びあわせる。たとえば「時間」もそれのひとつだと思う。1年くらい経てば1年前の日常がおもしろかったかどうかだいたいわかる。わかるけれど、1年前のわたしはわたしではないので、そういうことにそんなにたいした価値はない。「時間」ではなく「文章」を使えばいい。文章はそれを果たす。ただ、根源的に文章を求めようとしないひと、あるいはそういう方向に行こうと望まないひとが何をどうしたらいいのか、それはわたしにはだいこんのようにさっぱりわからないのだけれど。

   ◇◇◇

 イマムラさんに「意外にお金持ってるよね。本当にお金を持っていないやつのふるまいではない」と言われた。本当にお金を持ってるひとがお財布に全財産を入れて持ちあるくはずがないのだけれど、すごく、いいことを言った。
 研究室で毎月ひとり500円徴収していて、それでお菓子を買ったりコーヒー飲み放題だったりするのだけれど、ずっと滞納していた。さっき2月ぶんまでまとめて払った。3500円が羽をひろげて飛んでいってしまい、もう後悔している。ばか。今さら返してくれとは言えない。さっきからIくんの背中をずっと見つめているけれど、彼は気づかないし、もちろん返してくれない。未熟くんもお金がないみたいで、コストパフォーマンスのいい小麦粉を食べようと言った。車でパンが焼けるらしいよと教えてもらった。




コメント
お湯でふやかせば
増えるよ!ぷっくり。

「けっこうアレ、
 おなかふくれるんすよ~」

って、にこにこしてた
三尾くんは、ほどなくして
行方知れずになってしまいました。

むずかしい事は、わからないけど
一生かけても、すこしづつ分かりたいな。
しかし確かに
だいこんは、さっぱりしてますよね。

日常のおもしろさ、って
楽しさ、しあわせ、とはまた別ですか?
酒井幸菜さんを見て、最高だったなら
それで、いいじゃんか!と思いました。
見当はずれな意見でしたら、グレッチでぶってください。
【2009/10/13 18:01】 | 鈴木陽一レモン #mQop/nM. | [edit]
友達は、
「小麦粉をたくさんの水でとけばすごく量が増えるよ」
と言うので、僕は、
「いや、それ小麦粉が増えたんじゃなくて、水だから」
と言いました。

みんなベビースターや小麦粉を食べていると思いこみながら、
水を飲んでいるのです。錯覚、しなければ。

> 日常のおもしろさ、って
> 楽しさ、しあわせ、とはまた別ですか?

いや、ぜんぜん知らないのですけれど、
楽しさとかしあわせを含んだ総体といった感じでとっておけば、
遠からずではないでしょうか。

> 酒井幸菜さんを見て、最高だったなら
> それで、いいじゃんか!と思いました。

僕はまったくほんとうにそれでいいと思っているのですけれど、
つまり僕じゃないひとはそれではいけないと思っているということだと思います。
僕は僕じゃないひとではないので、わからないのですけれど。
「それで、いいじゃんか!」というのは、たとえば向上心否定のにおいがぷんぷんします。
僕は向上心なんてかけらもなく、
ゆえに「人生において何かを成そう」とかそういうことを思わないにんげんなのですけれど、
僕じゃないひとは僕ではないので、
それだけだと「う~ん」となるのだと思います。
ぶたないけどグレッチを買うお金をください。
【2009/10/13 18:29】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
正確には「ドン・キホーテ」第2部が近代文学の先駆けだと思います。第2部では「自分は完全に正気だと信じているので狂っているドン・キホーテをいじめまくる狂った人」と「狂っているという理由でいじめられることで自分が狂っていることを自覚し、静かに正気に戻る(つまり、狂う)ドン・キホーテ」しか出てきてない気がします。
有名な「風車への突進」は第1部の最初の方にあるエピソードです。
私の頭の中では「ドン・キホーテ」がナンバー1の小説です。で、2位が「源氏物語」で3位が「雨月物語」です。
【2009/10/24 16:51】 | 上田洋一 #- | [edit]
ありがとうございます。
やっぱり、「ドン・キホーテ」くらい読まなくちゃと思いました。
あと、狂っているひとばっかり出てきて楽しいな!と思いました。
頭おかしいひとは好きです。

源氏物語は一生読まない予感です。雨月物語も…
【2009/10/26 17:07】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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