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痛かったあの日にきみと見た空の喪失点を覚えています

2009.10.15(15:53)

紙ピアノ紙ピアノ
(2006/01)
伊津野 重美岡田 敦

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 好きではないひとをどうやって好きになったり、きらいになったりすればいいのか、わからなかった。好きではないひとを好きになったり、きらいになったりしたかった。でもわたしはもうそういうのを、やめてしまおうかと思った。めんどうだったし、ばかみたいだと思った。何年か前、子供たちが次々と家族を殺し、自分の家に火を放っていた。テレビのひとはそれを見て「彼らには想像力が欠如している」と言った。でもわたしは「わたしにはひとを殺すほどの想像力もないんだ」と思った。それが屑であっても、わたしがそれを好きならばそれを好きになろうと思った。好きなものを好きだと思えるだけの想像力が欲しいと思った。
 伊津野重美さんの「紙ピアノ」はそういうことをあらためて思いださせてくれる本だった。わたしは、それがどんなに客観的に醜くても、それを好きならば好きだと言いたいと思った。それが屑なら屑でいいと思った。屑なら屑として愛そうと思った。けれど伊津野さんの歌は屑ではいけないと思った。このひとの歌はわたしとは関係ないところで「とてもいいもの」であってほしいと思った。文字がせつなさと血にまみれている。だけれど、せつなさと血にまみれたその地点から、外界を愛そうとする確かな力があると思った。彼女の歌を読むと、かりそめでいいから、この世界の比較的汚い場所に行きたいと思ってしまう。その場所にいればこの世界のあらゆるものがはかなく、美しく見えるんじゃないかと思わず想像してしまうそんな場所に行き、いたいと思ってしまう。でも、その場所を埋める土はいつでも燃えていて、そこに来るひとの足をたやすく焼いてしまう。そこはたぶん足を失ってしまったひとが立つ場所だ。わたしは足を失う覚悟がないのでそこには行かない。行きたいと思うけれど、わたしはもう行くことをそれほど欲しない。足を失っても誰よりも美しいひとがいる。わたしを足を失えないけれど、足を失うかわりに、本を買い何かを読むことができる。それは、ずるくて、とてもうれしいことだと思った。

 痛かったあの日にきみと見た空の喪失点を覚えています

   ◇◇◇

 三角みづ紀さんは「現実はこんなに過酷で残酷なのに、ぼくたちはなんでこんなに幸福なのだろう」と言った。そういえば、伊津野さんを知ったのは三角さんが以前に彼女を紹介していたからだった。三角さんは「わたしが文章を書く前に重美さんの短歌を読んでいたら文章なんて書けなくなっていただろう」と言った。そして「文章を書くひとやステージに立つひとはみんな重美さんにふれてくじけなければいけない」と言った。

   ◇◇◇

 古屋兎丸「ハピネス」を読んだ。この漫画の女の子は、女の子のかたちをして、女の子のしゃべりかたをして、女の子のふりをしているけれど、女の子じゃないと思う。人間か人間ではないかを選べと言われたら、人間ではないと思う。記号は女の子のふりができる。複雑なものを完璧なシンプルな物質つまり記号へと変換していくその過程に、すかすかのせつなさを見る。あまりおもしろい漫画ではないけれど、そんなにきらいではないと思った。
 山川直人「口笛小曲集」は逆に人間しか出てこない。人間だけを描くとき、そのまわりのありふれたものがぴかぴかと輝きだす。




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