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雨が降っていても、みんなが悲しむわけではない

2009.10.17(20:20)

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 学園祭をやっていて、とてもうるさかった。わたしは暗い資料室でひとりでゴダール「彼女について私が知っている二、三の事柄」を見ていた。初めに見たときはぜんぜんさっぱりわからなかったので「えーぜんぜんさっぱりわからないよー」と思っていた。二年ぶりくらいで見直したら、とてもおもしろかったので「とてもおもしろかったよー」と思った。

   ◇◇◇

 ドキュメンタリーとメタフィクションを含んだフィクションはいったい何がちがうんだろう。少なくともこの映画を見たときは何もちがいがわからなかった。ならば、たぶんそれは同じなんだろうと思った。

   ◇◇◇

 映画を見て、ドキュメンタリーかフィクションかわからなければ、ドキュメンタリーやフィクションは映画とは関係がないのだと思う。ひとは関係がないものに名前をつける。親が産まれた子供に名前をつけるのは、その子供が親とは関係ないからだ。命名とは関係の宣言にすぎない。

   ◇◇◇

 短歌の一首一首にタイトルがついていないのが、わたしにはどうしても理解できなかった。それはたぶん、短歌が作者と正しく関係しているからだ。沈黙するためにはわたしたちはしゃべらなくてはいけない。小説において、タイトルがないことを示すためにはわたしたちは「無題」と言わなければいけない。そのために多くのものが死んだ。エミリー・ディキンスンは詩にタイトルをつけなかった。

   ◇◇◇

 有名なコーヒーのシーンがあった。そしてそのあとジュリエットは「私は世界で、世界は私だと思った」と漏らした。泣いた。

   ◇◇◇

 そしてゴダールはやさしい。「16時45分、ジュリエットと木の葉、どちらを語るべきだろう」。ゴダールは両方を語ることができなかった。だから「ジュリエットと木の葉、両方が戦いでいた」と言った。16時45分を語ろうとするのはやさしさだ。わたしたちはたくさんの16時45分を語ろうとしてきて、やめてきた。そうやって捨て去ってきた結果の堆積がほとんどの映画だった。だから、映画とは塵のかたまりだ。

   ◇◇◇

「雨が降っていても、みんなが悲しむわけではない」

   ◇◇◇

 彼女は「わたしの股と股とのあいだに性器がついている」という言葉をしゃべることができなかった。

   ◇◇◇

「意味づける」というのはその対象を再構成することだ。薔薇はひきさかれる。わたしたちはかんちがいしている。それは薔薇が美しいのではなく、「薔薇がひきさかれること」が美しいというだけのことだ。そして「対象を再構成すること」は映画の世界では「編集」と呼ばれている。

   ◇◇◇

「わたしは生きていたし、死んでいた」と書くことができるのが詩で、できないのが小説だ。そしてもちろんそれは嘘だ。

   ◇◇◇

 わたしはおうちへ帰る。

   ◇◇◇

 子供は娼婦である母親にこう訊いた。
「言葉って何?」
 母親はこう答えた。
「それは、人間が住むお家なのよ」




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【2009/10/18 01:31】 | # | [edit]
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