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ゴダールは「ヱヴァ:破」は見ないのかな?

2009.10.19(18:43)

いま、殺りにゆきます2いま、殺りにゆきます2
(2007/09/11)
平山夢明

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(2009/12/19)
不明

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ブログ=日常記述をはじめると、
日常をメタ的に見るようになる。
記述するネタを探しながら過ごすようになるのだ。


 イマムラさんにからんでばかりでもうからみたくないのだけれど、からむ。特にこの感覚はよくわかってしまう。あたしは「そういうやりかたはだめだ!」ということを思ってきたつもりだった。
 綿矢りさ「蹴りたい背中」で、ハツと絹代いちおうなかよく遊ぶ。でも、夜、にな川の部屋での絹代の一言によって、絹代の居場所はハツのとなりではないことをハツは痛感してしまう。この気持ちはとてもよくわかる。自分と仲の良い友達は自分以外と仲良くしないでほしい。幼稚な願望はあたしのなかにねづよくあって、けっきょくのところ、世界でいちばん悲しいのは稚拙な欲望からくるものだと少しだけ思った。ハツの気持ちもわかるけれど、絹代の気持ちもわかってしまう。たとえば絹代はブログをやっていない。あたしはブログをやっている。絹代がハツではない場所として規定した場所は、あたしがブログとして規定した場所に関係として少しだけ似ているかもしれない。たとえば映画を見るならばあたしはそれをどうブログに書くか自動的に考えてしまっている。それはあたしにはとても醜いことだと思えるから、「書くことへの欲求」とか言ったり、「何かについて書くことは何かについて書かないことよりもほんの少しだけましなことだ」とか言ったりして、ごまかしている。書くことを前提として映画を見るとき、もうあたしは純粋にそれを見ることができなくなってしまう。だからあたしは純粋を捨てようと思った。映画や小説を見るときに「それを純粋に見よう!」なんてばかげたことだと思った。

   ◇◇◇

 5回くらい書いているかもしれないけれど、文章を書くということは自分が思ってもいないことを書けるということだと思う。ひとつ前の記事であたしは「彼女について私が知っている二、三の事柄」について書いた。それは映画を見ているときに考えたこともあれば、文章を書くとき勢いで書いたところもあった。「命名とは関係の宣言にすぎない。」や「16時45分を語ろうとするのはやさしさだ。あたしたちはたくさんの16時45分を語ろうとしてきて、やめてきた。そうやって捨て去ってきた結果の堆積がほとんどの映画だった。だから、映画とは塵のかたまりだ。」や「そして「対象を再構成すること」は映画の世界では「編集」と呼ばれている。」は後者だ。それらは「映画を見る」という行為から生まれたものではなく、「映画を見たあと文章を書く」という行為から生まれたものだった。

   ◇◇◇

 日曜日は新宿へ行った。ルイ・マル「地下鉄のザジ」を見るために新宿武蔵野館に行った。ザジがかわいかった。ザジがかわいかった。ザジがすごくかわいかった。「眠れないじゃないの」と言うときもいいし、「ゲイって何?」と言うときもいいし、通りすがりの子供からパンを盗んでぱくぱく食べてしまうところもかわいい。早まわしのシーンがあって、そこがすごくよくできていて、ぜんぶかわいい。バスでドイツ女がガブリエルをさらっていくシーンがあって、そこで早まわしになったザジが両手を挙げて慌ててバスを追いかける仕草をした。そういう、マンガ的なリアリティのない動作もザジがやれば冗談抜きでかわいくなるという究極のかわいさを実践していた。みんなザジを見るために新宿へ殺到すべきだと思った。
 予告編で「パンドラの匣」がやっていた。太宰治の作品として「パンドラの匣」がおもしろいかと言うと、そんなにおもしろいわけではないのだけれど、川上未映子が尋常じゃないかわいさだったので激しく見にいきたいと思った。監督は「パビリオン山椒魚」の冨永昌敬(あたしは「亀虫」と「シャーリー・テンプル・ジャポン」しか見ていないけれどどちらもおもしろかった)、音楽は菊池成孔だ。行きたい。
 喫茶店で延々と本を読んだあと、YNと待ちあわせて新宿角川シネマで「ヱヴァ:破」を見た。2回目だけどもちろん感動した。前も書いたけれど、「エヴァが走っているだけで鳥肌が立つ」という現象はとてもすごいことだと思う。使徒がほんとうにかっこういい。特にゼルエル戦ではATフィールドの張りかた・張られかたがあまりにもかっこうよくて、それだけで泣いちゃう。「前見たときよりも見やすくなってなかった?」とYNに言われて、なんだかよくわからないけれど、あたしもそう思った。前回見たときは冒頭のエヴァ五号機と使徒との戦闘で何をやっているのかさっぱりわからなかった。でも、今回は何をやっているのかわかった。2回目なのかマリのキャラクターにそんなに違和感を覚えなかったのもうれしかった。「綾波を返せ」とシンジくんがぶちきれ、「僕はどうなってもいい」んだと言ったとき、リツコはそれをとめた。でもミサトは「行きなさい」と言った。「誰かのためじゃなく、あなたのために」。「破」では「自分のためではなく他人のために何かをやる」ということがひとつのテーマのようなものとして流れている。シンジくんが綾波に味噌汁をあげたり、お弁当をつくったり、その逆としての綾波のお食事計画があったりした。シンジくんは「綾波のため」と言うけれど、ミサトは「あなたのためだ」と言った。他人のためと自分のためが手をつないでぐるぐるまわって輪になっていて、少しうれしい。
 ところで、ゴダールは「ヱヴァ:破」は見ないのかな? 
 あるいは村上春樹は見ないのかな?
 舞城王太郎や本谷有希子はもちろん見ていると思うけれど。
「エヴァ旧劇場版」は文学的だと言われてきた気がする。文学的だということは文学じゃないということだと思う。文学はつまり作品そのものには発生しない。「旧劇場版」から「新劇場版」への変化は、90年代から00年代にかけての文学のひとつの流れ(ディタッチメント・難解からコミットメント・希望)を象徴しているようにあたしには思えた。だからかりに文学が発生するとしたら、それは作品と作品のあいだを流れるもの、つまりベクトルのようなもののなかにしかありえないんじゃないかと思った。
 そのあと、YNとお酒を飲む。「内定式で椅子取りゲーム的なことをやった」と言ったら、「椅子は女の子だったとかそういうオチなの?」と言われたので「そういうおもしろい話ではない」と言った。これからの人生計画について話すと、ふたりの結論は「幼稚園から大学生を無限ループする」ということであっさり落ちついた。お酒が進む。
 大宮で、冗談抜きで帰りの電車が1時間30分くらいとまり、ずっと電車のなかで本を読んでいた。橋本治『「わからない」という方法』を読みおわってしまった。「橋本治の本はひょっとしたら日本人は全員読んだほうがいいんじゃないのだろうか?」と思った。特にサラリーマンは読んだほうがいいと思う。「全員読んだほうがいい」と思える本を書けるのはあたしが知っているかぎり橋本治だけだ。あたしは今プルーストを読んでいるけれど、プルーストが必要なわけじゃないと思う。今1巻の350ページほどだけれど、飽きた。あとは「ねえねえあたしプルーストぜんぶ読んだよっ」と言うために読んでいるだけだと思う。あたしはプルーストを必要だから読んでいるだけでなく、プルーストが必要なひとになるために、プルーストを読んでいるだけだ。
 あたしは女の子みたいな文章を書かないと日常を愛することができないと一時期本気で思って、女の子みたいな文章を書いてきたし、書いている。日本の歴史上で初めてそれをやったのは紀貫之(「男もすなる日記というものを」で始まる「土佐日記」)らしい。平安時代には男性は漢文を書いていたから、その時代の言文一致体の文章を書いていたのは女性だけだった。紀貫之は女の子の言葉を使うことによって自分の言いたいことを書けるようになった。自分の言いたいことを書けるとはどういうことかというと、日常を愛するということだと思う。人間は1000年かけても同じようなことをやっているのかと思うと、ばかみたいで、愛らしいと思った。

   ◇◇◇

 今日はお昼におきてごはんを食べ、日記を書いて、平山夢明「いま、殺りにゆきます2」を読んで、太宰治「トカトントン」を読んで寝て、起きたらこの時間だった。さいあくのすごしかただと思う。これからスイーツを食べてアルバイトをしにいこうと思った。平山夢明は日本でいちばんおもしろい作家ではないかと思った。




コメント
桜井にからんでる時間なんてないんだけどからむ。


イマムラです。ハロー。

「記述するネタを探しながら過ごす」ことは、やっぱり、意味あることなんだっていうのが俺の結論です。ただし前提がある。こう記述しよう、という編集方針がなければそれは矮小な自家撞着。卑猥な自家発電。

こういう考え方は桜井と、逆をいくのかもしれん。俺は演技が好きなんだと思う。自然は嫌いな気がする。たまたま持って生まれた属性に従属するなんて糞だと思う。自然をかなぐり捨てて演技する、「こうあろう」という意志の力が俺は好きだ。

じゃあ桜井はなんだ?自然さを獲得するために演技という手段をとっているのが桜井か?おかしな人間だ。俺と逆だな。しかも真逆ですらないな。ねじれているな。われわれは倒錯している。

それでいいのだよね。俺は攻めで桜井は首吊りで。われわれは逆だけど、広い意味では同じ道化だ。それでいいんだね。

それではおやすみ。セブンイレブンのプライベートブランドのビール(的な飲料)は本当に美味しくって、俺は今日も泥のように眠ってしまいそうだ。むにゃむにゃ。
【2009/10/20 02:42】 | イマムラリョウ #GCA3nAmE | [edit]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
【2009/10/20 11:13】 | # | [edit]
という言葉に特に意味はないです。

あーなんかようやくわかってきた気がします。
演技をするというのは、努力をするということなのだと思うのですよ。
で、僕は努力なんていっさいしないのです。
デザインなるものを持とうとしないから、
自分にとって気持ちのいいことしか、
基本的にはしないのだと思います。

>じゃあ桜井はなんだ?
>自然さを獲得するために演技という手段をとっているのが桜井か?

そのとおりだと思います。
自然さなんて本当は存在しないわけです。ないから、演技をするのだと思います。
演技というものをして結果的に自分を騙し「これが自然だ」と思えたなら、
そこに初めて発生するのが自然さだと思います。
演技でいいんだと思うんです。演技以外にはなんにもないのですから。
「なにもしない」という演技をするひとだっているかもしれません。

セブンイレブン以外のすべてのコンビニをつぶしてそこにセブンイレブンを建てたら日本はいい国になるのではないかと思ってます。
【2009/10/20 16:18】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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