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その時間差のなかできみはいつまでも指を折りつづけていた。

2009.11.11(07:00)

「現代詩手帖特集版 高橋源一郎」を読んでいたら、つまりわたしが小説や詩をろくに書けないのはわたしの小説や詩には言葉しかないからだと思った。詩や小説は言葉だけでできているものだけれど、言葉だけでは詩も小説も書けなかった。高橋源一郎の本を読むのはひどくつらい。
 映画の本質について考えたことがあった。たぶん、人生で三回くらい。映画の本質とはつまり「わたしは映画のいったい何をおもしろく感じるんだろう」ということだけれど、それは、わたしの内部では「小説や詩のいったい何をおもしろく感じるんだろう」という疑問と同じだった。わたしは映画を見るふりをして詩を読んでいるだけだった。でも、それは詩を読んでいるふりをして映画を見ているだけでもあった。そして、わたしにはゴダールは映画を撮るふりをして詩を書いているようにしか見えなかったし、高橋源一郎は小説を書くふりをして映画を撮っているようにしか見えなかった。わたしはわたしのふりをして生きているようにしか見えなかった。わたしには何にもないということだった。ふりをしているふりがあるだけだった。それは氷のように冷たく、ふれるだけでたやすく砕けちった。でもその残滓はきらきらしていて美しかったし、樹のようなにおいがした。月は一昨日よりは明るかった。
 才能に関して言うことほど価値のないことはないと思った。きみが天才だったとしても、それはわたしには関係なかった。どうでもよかった。ただ、それでも天才はいた。ランボーはヴェルレーヌとお友達だったから天才だったし、ヴェルレーヌはランボーとお友達だったから天才だった。リルケは薔薇の棘に刺されて死んだから天才だった。ディキンスンはひきこもりだから天才だったし、ライアン・ラーキンはホームレスだったから天才だった。立原道造は病床にふせっていた頃お友達に「五月の風をゼリーにして持ってきてくれ」と言った。だから天才だった。太宰は心中をしたから天才だった。才能というのはそういうものでしかなかった。
 この世界で悲しいことはたったひとつだった。わたしがきみのことを好きなときに、きみがわたしにとって特別ではないことだった。でもそれは世界の常態だった。世界はいつも裏切りつづけながら祝福を続けていた。わたしがきみを好きなときにきみがわたしを好きだとしても、それは救いではなかった。わたしの好きときみの好きはどこまでもずれあい、平行に伸びていった。おたがいを好きだったから、それはいつまでも混じりあうことはなかった。ひとは内臓をぶちまけて死んだ。鉄砲が握られていなかった。「わたしたちは誤解しあえる程度に理解しあえればじゅうぶんだ」とヴァレリーは言い、「理解とは誤解の総体のことだ」と村上春樹は言った。きみとわたしのこころを一致させることは決して理解ではなかった。誤解しあうことが理解だった。でもきみはそのことをわかろうとはしなかったし、わたしもわかろうとしなかった。それをわかろうとしないことを理解だと言っていた。脳味噌は、ついていただろうか。「教科書の顔をリアルに面白くすることばかりに夢中で君とぼくがちがうって気づいていない」とともちゃん9さいは書いた。きみは教科書の顔だった。だからわたしはきみの顔をおもしろくしようとした。わたしにはきみがいったい何なのかわからなかった。わたしはきみをおもしろくすることばかりに夢中で、きみのことをいっかいだって考えたことがなかった。そして、わたしは信じたことを書いたことがなかった。わたしは書いたことを信じようとした。わたしはそれを醜いことだと思った。けれどそうではないのかもしれない。何かを書く程度のことでそれを信じられるのなら、わたしは何かを書きつづけるべきなのかもしれない。何かを書くということは何かを引用することだった。作品とは引用の総体だった。きみはわたしの引用だったし、わたしはいつもきみの引用だった。世界は現実の引用だった。デリダは「あらゆるテキストは誤読される」と言い、那珂太郎は「ひとが引用することができるのはそのテキストを誤読するからだ」と言った。ゴダールは「軽蔑」においてフリッツ・ラングを引用したし、「アワーミュージック」においてゴダールを引用した。ゴダールがゴダールを引用することによってゴダールというテキストはゴダール自身にとっても観客にとっても確実に誤読されることになった。もちろん、それは最良の態度だった。わたしはゴダールを正しく理解しようとするのではなく、正しく誤解するべきだった。それが映画の本質だった。映写機はスクリーンに光を投げかけ、その光はわたしたちの顔を照らしていた。問題は、そこにいくらかの時間差があることだった。スクリーンの光がわたしたちの顔に照射されわたしたちの顔面を映像が走るとき、すでに映像は次の瞬間に切りかわっていた。だから、わたしたちは本当には何も見ていないのだった。わたしは絶望的な過去も明るい未来もたやすく愛せてしまうけれど、現在だけは愛せなかった。現在だけがわたしにとって手をふれることができないものだった。現在とは決して手をふれることのできない映画だった。その時間差を埋めるもの、光速を超えることができるものは、言葉だけだった。でもわたしは言葉をうまく使えなかった。だからわたしは死につづけていた。現在に生きることのできない人間は過去において死に、未来において死に、その総体としての死を現在に生きているだけだった。だけれど、わたしは一生言葉をうまく使えはしないだろう。言葉をうまく使えたとき、きみは死ぬべきだ。死にたくないのなら、言葉なんか使えないままでいい。ならばわたしは時間差を愛するべきだった。スクリーンと顔面の時間差を。ゴダールが示した音楽を。誤解を。わたしは愛するべきだった。その時間差のなかできみはいつまでも指を折りつづけていた。わたしが死んだならばあなたの詩の腕前は上達するのかな。きみはそう言ったけれど、わたしは何も言わなかった。きみが死んだところで、わたしに何かひとつでもたいしたものが書けるわけがなかった。それでもきみはいつまでもそのような存在としていつづけるだろう。指から骨がつきでていた。第二関節から二本の指が生えているようだった。きみの骨は飴のようだったし、きみの指の皮はそれを包む紙屑みたいだった。




コメント
こんにちは。

なにかコメントを書きたいのに言葉が見つかりません(あー)

―と書いてから一時間経っても何も浮かばないのでコメントとかやめようかと思ったけどそれではいつもと一緒なので足跡だけでも残しておきます。

よくここに来ています。ときどきわらいます。ときどき(難しいことだけど)共感しています。そういう場所があるのはうれしいです。

たぶんこれからも来るのでいつかコメントを書き込めたらといいと思います。

はじめまして。
【2009/11/13 00:36】 | のち #SFo5/nok | [edit]
こんにちは。

「あー」とか「うー」とか「いー」とか「ロン!」とか「おはよう」とかそういうことを書けばいいのだと、思いますよ。でも、スパムにまちがえられると大変なので、本当には、書かないほうがいいのかもしれません。でも、よくわからないことです。
足跡をありがとうございます。ぺたぺた。すてきな靴ですね。ありがとうございます。
そして、はじめまして。
【2009/11/13 09:30】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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