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月に行くのは金曜日がいい。

2009.11.13(09:46)

フラガールスタンダード・エディション [DVD]フラガールスタンダード・エディション [DVD]
(2007/03/16)
松雪泰子豊川悦司

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この道を歩んで行った人たちは、ねえ酒姫、
もうあの誇らしい地のふところに臥したよ。
酒をのんで、おれの言うことをききたまえ――
 あのひとたちの言ったことはただの風だよ。
                  ――オマル・ハイヤーム 


   ◇◇◇

 16時間眠ってしまったので死にたくなった。16時間眠ったときにしか死にたいと思わないわたしは幸せだった。
「今そこにあるもの」を前提にしてしか価値が測れないのだとしたら、価値はすごく貧しいものかもしれない。たとえば、講談社がつくりあげてきた出版の歴史というものがかりにあったとして、わたしたちは講談社がなしてきたことを評価することはできるけれども、講談社が存在しなかったという前提で起こりえた過去を評価することは難しい。講談社がかりになかったとしたら、文学はもっとよいものになっていたかもしれない。「荒地」や「歴程」がなかったときに現代詩はもっとべつのものになっていたかもしれない。価値は、現在あるものを見て測られるだけのものだと思う。
 フローベール「ボヴァリー夫人」、ボードレール「悪の華」、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」も、出た当時は「けしからーん!」と言われて怒られた。インターネットも「あんなものにはまるとろくなことがないよ」と言われる。30年経ったらもうそんなことは誰も言わなくなるかもしれないけれど、「言わないほうがいい」、「言ったほうがいい」という価値はすでに測れないものになっている。フローベールが存在しなかったら文学はもっと良いものになっていただろうか。でも、もちろんこんな問いに意味はないはずだ。「エジソンが白熱電球をつくらなくてもほかの誰かがつくった」というのはたぶん正しいはずだし、フローベールが「ボヴァリー夫人」を書かなくても誰かが「ボヴァリー夫人」的なものを書いたはずだと思う。もちろん、悲しいのはわたしがフローベールじゃないということだけれど。
 ヴァーチャルとリアルという二元論でものを語るやりかたはもう古くなっているはずだ。「目の前のひとが死んでいくことにリアリティを感じない」と言って悩んでいるひとは、映画のなかやマンガのなかにしかいないんじゃないのかと思った。インターネットをやることも、本を読むことも、映画を見ることも、すべて現実的な行為だ。それはヴァーチャルではないと思う。わたしが何か思ったとき、わたしが何か思ったことはリアルだった。ヴァーチャルではない。「口に出したときそれが現実になる」と思うのなら、それは言葉を舐めすぎている。「目の前でひとが死んだとき、リアリティを感じられなかった。遠いことのように思った」というのは現実をリアルに感じられない現象ではないと思う。それがそのひとの現実なんだと思う。そこでヴァーチャルとリアルとの対立をだす必要はない。そんなものは、テレビのひとに任せておけばいい。テレビのひとはそういうことを言うだけだ。彼らはそう言うことが社会をとらえる方法のリアルだと思っているのかもしれない。でもわたしにはそれは関係なかった。ひとが死んだときに悲しく感じられないのがわたしにとって現実ならば、その現実に立って始めればいい。ヴァーチャルとリアルの対立なんてものは、ヴァーチャルにすぎないんだから。

   ◇◇◇
 
 喫煙者が隅に追いやられている。原因はたぶん地球温暖化だ。

   ◇◇◇

「歴史」というのは西洋の歴史という意味あいしか持っていなかった。「西洋の歴史」というのは「時間の経過とともに社会はよくなる」という思想のことだった。それを西洋の歴史において初めて否定したのがクロード・レヴィ=ストロースだった。「時間が経てば社会がよくなるなんてことが正しいなんて誰が言ったんだい」ということを彼は示した。共産主義者たちはかつて「この社会が成熟すれば、ひとは働かなくても暮らしていけるようになる」と本気で思っていた。
 というもろもろのことはうそかもしれないけれど(どこで読んだのかすら覚えていない)、ときどき、ほんとうにときどき、わたしたちはわたしたちの頭のわるさを思い知るべきじゃないだろうか。「頭がわるいこと」は「傲慢なこと」じゃないんだろうか。

   ◇◇◇

「数学」と「文学」はその本質においては同じことをしているはずだ。数学は数式で世界を記述し、小説は散文で世界を記述している。数式で世界を記述する方法が見つかったことでひとは月に行った。だったら、散文で世界を記述することでわたしたちは月程度なら行けるはずだ。

   ◇◇◇

「フラガール」を資料室で見ていたらいきなり後輩が入ってきた。超感動にひたりきっていたのであぶなかった。「このひと何やってんだろ」と思われたことうけあいだけれど、わたしくじけない。へんな映画を見ている最中ではなくてよかった。
 蒼井優の映画ではないところがよかったと思う。蒼井優の映画ではない映画のなかで蒼井優はかわいくなれるし、しずちゃんも画面のなかで映えることができる。松雪泰子もそうだし豊川悦司もそうだ。豊川悦司がかっこうよすぎる。もちろん、たとえばアサイヤス「クリーン」はマギー・チャンの映画でマギー・チャンはそのなかで映えすぎていてたまらないので、どっちでもおもしろい映画は撮れるということだけれど。
 ダンスを撮るということは難しいのだと思った。この場合の難しいというのは、「きちんと衣装をつけて舞台の上で踊る蒼井優」よりも「普通の服で誰もいない稽古場でひとりで踊る蒼井優」のほうがかわいいという、わたしの目に映ったたったひとつの冴えない真実のことだ。「グムエル」でペ・ドゥナのジャージ姿を見たあとのことでもあるけれど、蒼井優のジャージ姿もすごくかわいい。2本連続でかわいいジャージ姿の女の子を見てしまってわたしは明日あたりに死ぬんじゃないだろうか。きっとほんとうにかわいい女の子はジャージが似合うんだろう。あらゆるかわいい女の子はジャージを着て街を歩けばいい。そろそろ街には雪が降るだろう。




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