スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

BATIK「花は流れて時は固まる」@にしすがも創造舎

2009.11.17(12:31)

花影 (講談社文芸文庫)花影 (講談社文芸文庫)
(2006/05/11)
大岡 昇平

商品詳細を見る

拾った子みたいなものだから、お墓に入れてくれない方が、うれしいな。無縁仏にして、東京のどっかのお寺へころがしておいてくれる方が、うれしいな。
                                ――大岡昇平/花影


 月曜日は朝から電車に乗り、ユーロスペースまで行ってヴィターリー・カネフスキー「動くな、死ね、甦れ!」と「ひとりで生きる」を見てきた。
「動くな~」はひとが動く動く。これでもかというくらいに動く。しゃべるしゃべる。これでもかというくらいにみんなしゃべる。ので、ほとんどノイズのかたまりみたいな映画になっているけれど、それが不愉快にならず、見ていてすごく楽しい。特に、ラスト、女の子のお母さんが発狂して、全裸で箒にまたがって走りまわるシーンはフィリップ・ガレルみたいですごかった。このシーンだけでも見ておいて損はないと思った。このシーン、監督の声みたいなものが入って(発狂した)彼女を映しつづけろと言うのだけれど、カメラはそれを追いかけず、子供たちの顔をアップで映しつづけてしまう。その悲哀! その意味のわからなさ!
「動くな~」がすでにおもしろいのだけれど、その続きの「ひとりで生きる」はもっとおもしろい。見ないと絶対わからない類のすごさなので、もどかしい気持ちでいっぱいだ。たとえば、主人公の男の子が家に帰ってきて、母親に「ごはんはない?」と訊くシーン。母親は病気で寝ていて返事をしない。いきなり扉が開いて、男が数人入ってきて、ベッドの上の母親をぼこぼこに殴る。そのあいだ、男の子はまったく反応しないし、カメラにも映されない。何も言わない。殴られおわったあと、母親はゆっくりベッドにもどって、また毛布にくるまる。男の子はベッドのすぐわきに座ったまま何も言わず、シーンは終わってしまう。悪夢のような現実感を、温度の低いままに撮りつづける技術というものがある。わたしの知っているかぎり、それを歴史上初めてやったのがカフカだと思う。その脈がここまできちんと伝わっているのなら、とてもうれしいと思う。もしかしたら、この監督はフィクションと現実との境目をほとんど消すようにものごとを見ているのかもしれない。普通の映画監督がかりに何か現実を映して編集することによって映画をつくろうとしているのならば、カネフスキーは何かを編集して映画をつくることによってそれを現実にしようとしているように見える。ちがう。たぶんぜんぜんちがう。この世界に(残念ながら)現実しかないのならば、カネフスキーは現実を撮ることによって現実をつくった。でもほかのほとんどの映画監督は現実を撮ることによってそれをフィクションにしてしまう。その編集のやりかた、カメラワーク、演技のさせかた、そのすべてが現実に耐えられるような強度を持てないからだ。フィクションは現実のできそこないにすぎないと思う。すべてのフィクションは失敗作だと思う。まったく本編と関係ない(としか思えない)のに、突然挿入される子供が気狂いの男をいじめるシーンも現実だった。ラスト近く、火を放たれた鼠が燃えながら地面を走るシーンはとても美しかった。それから、小屋のまわりを裸で犬のように走りまわっているふたりの男。そのすべてが立体的で、それらの奇異を奇異だと見えないものと同じ温度で映すことができることは、やさしさだと思う。平等な視線だ。ものごとをやさしく、けれど力強く見つめることができるひとは、好きだ。わたしは本当はこういうことをやりたい。そういうことのなかでしか現実を構成することができず、そういうことのなかでしかものが言えないとしたら、わたしはこういうことがやりたい。
 カネフスキーの映画にいちばん近いのは、わたしが知っているなかではブレッソン「たぶん悪魔が」、次がテンギス・アブラゼ「懺悔」、そのあとがスコリモフスキ、あとはゴダールとかアンゲロプロスとかパラジャーノフとかガレルとかを適当にあげておけばいいと思う。ブレッソン「たぶん悪魔が」はいくらなんでも意味がわからなすぎたので眠ったけれど、「ひとりで生きる」は基本がサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(!)なのでとても見やすいし、おもしろい。三部作のラスト「ぼくら、20世紀の子供たち」(ドキュメンタリー!)も、ぜったい、見る!
 ユーロスペースは今後「バグダット・カフェ」や「ジャック・ロジエ特集」と垂涎もののプログラムで、どんどん行きたい。空気の読める映画館ぶらぼ。あとBunkamuraでやっている「パリ・オペラ座のすべて」がワイズマンの監督作品だとようやく気づいたので(だからユーロスペースで特集してたのか…)、超見にいきたい。でも、連日満員みたい。がんばる。

   ◇◇◇

 喫茶店で本をえんえんと読んで、それから西巣鴨まで行ってBATIK(黒田育世)「花は流れて時は固まる」を見た。
 まさかの(ロリ?)エログロホラーで、好みははずれるのだけれど、それでも、とてもおもしろかった。わたしはこれは「エヴァ旧劇場版」だと思った。そして、「女の子の身体ってぐろいんだな」と思った。途中、ストリップショーのパロディみたいな下品なことが行われていたし、舞台の色、そして水の存在の華やかさと裏腹に、使われている音楽はレトロ感覚がつきまとっている。最初、女の子が側転や飛びこみ前転など、(たぶん全部)小学校の体育の時間に習う運動をやっているのだけれど、その反転として、後半にはどんどんダンスが肉感的になっている。筋肉を誇示するような男性的なふりつけが入っていて、水を口にふくんではびしゃびしゃ吐きだすし、ついには鎖を口にくわえてぶるんぶるん振りだしてしまう。床を踏みつける足の力強さ、それから手拍子。手拍子を聴くと、わたしの脳みそはピストルズの「Holidays In The Sun」やクイーン「We Will Rock You」などを思いだしてしまうたんじゅんな構造をしているので、ますます男性的だと思った。少女的なものと男性的・肉感的なものが同居していて、それがすごくグロテスクなものになっていたと思う。誤解を怖れないで言うと、わたしは舞台の上で踊っているひとが全員畸形に見えた。それくらい、すごいことになっているように見えた。
 グロテスクさの裏側には耽美なものがあった。花びらを口にくわえこんで、「うおおお」と絶叫している女の子を見たら悲しくなった。「ねえ、ねえ!」と声を発するけれど、その呼びかけにこたえてあげられず、自分で自分の首を絞め、水のなかでのたうちまわっている女の子たちがいた。何故その呼びかけにこたえられないんだろうか。それは「ジャンルがコンテンポラリーダンスだから」というだけのものでしかないかもしれないけれど、その答えはすこし悲しい。「コンテンポラリーだから『ねえ、ねえ!』という呼びかけにこたえられない」のか、「『ねえ、ねえ!』という呼びかけにこたえられないという前提において別個の表現を模索するのがコンテンポラリー」なのか、その区別は難しい。後者になるための強度はどこから得るのか、たぶん、みんなそれがわからなくて苦しんで、嫉妬している。わたしは、「このダンスには台詞があってもいいんじゃないのかな」と途中で思っていた。そのダンスは痛みの放出に見えた。3メートルくらいの梯子をのぼり、そこから落下する。落ちても、落ちても、まだのぼり、そして落ちる。黒田育世(だと思われるひと)がまんなかで踊り、痛みを放出しきったように仰向けで倒れて終わった。痛みを放出すればそれは希望だろうか。それは救いだろうか。それはわからないけれど、そしてわたしはひとの痛みのかけらもわからないにんげんだけれど、見ていると、ひとの痛みの少しくらいはわかるようになるんじゃないかな、と思えるような、いいダンスだった。関係ないけれど、舞台のミニチュアを頭からかぶったひとがひとりいた。最後深く礼をするとそれが落ちるらしく、すごく控えめに礼をしていた動作が、超かわいかった。

   ◇◇◇

 BATIKやカネフスキーみたいなとびきりよいものにふれると、うっかり就職する気がなくなるので怖い。「何を思いあがっているんだ?」と言われてもいいけれど、こんないい映画やダンスを見にいかないで会社に行っているひとたちはいったい何なのかと思う。そういう世界構造も。これはただの働きたくないだめにんげんの愚痴だけれど。革命が起きて働かなくていいようにならないかな。




コメント
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/734-ef981f79
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。