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となりのカフカくん

2009.11.19(06:53)

カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)
(1978/07)
ジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリ

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 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
                          ――太宰治/葉


   ◇◇◇

 日本橋ヨヲコ「G線上ヘブンズドア」を何年かぶりで読みかえしているけれど、とってもおもしろい。意外に熱血漫画だと思う。「プロは、才能とか、画力とか、もうそういう次元にはいねえ」なんて、すごくかっこうよくて、熱い。
 けれど、たとえば、こういう漫画を読んでいて思うのは、作中の漫画を読めないことの意味だ。鉄男がかつて描いた漫画は読むことはできないし、読むことができないからこそ、それは伝説になることができる。「1Q84」の「空気さなぎ」と同じ問題で、わたしたちがかりに「空気さなぎ」を読むことができたならば「なんだこんなの!」と言うことができるけれど、読むことができないから、言えない。作品は、読まれてしまったら終わってしまう。伝説や天才とは、わたしたちがふれえないもの場所のことだと思う。
 話はずれるけれど、加藤典洋が村上春樹について、高橋源一郎と比較して「1973年のピンボール」が転換期だったと言っていた。あの作品ではっきり春樹は「物語」のほうにシフトし、一方、高橋源一郎は「言葉」のほうに残りつづけた。「1Q84」の「空気さなぎ」を天吾たちは「文章はひどいけれどこの物語には圧倒的な何かがある」というようなことを言って褒めている。問題は、あたしが文章がひどい小説をたとえどんなによい物語としてでも認めるかということで、少なくともあたしは認めないようにしてきた。そういう方向に自分をもってきた。「1Q84」でいちばんはじめにひっかかった場所はそこかもしれない。もちろん、村上春樹は意識的に物語を用いて世界の構造とコミットメントしようとする稀有な作家だと思うし、もうそれをまちがっていると言うつもりもないけれど、「空気さなぎ」が読めない作品である以上、あたしときみはそれを警戒する必要があると思う。

   ◇◇◇

「一発屋芸人」を最近、よくテレビで見る。ムーディ勝山とか長州小力とかだけれど、彼らを見ていて思うのは、つまり、お客さんはそれがおもしろいから笑うんじゃなくて、それがおもしろいというこを知っているから笑っているのかもしれない、ということだった。テレビでよく見て知っているひとが何か芸をするのがおもしろいのであって、芸自体はおもしろくもなんともないのかもしれない。その芸がおもしろいかどうかはお客さんが笑うかどうかとは関係ない、というのは言いすぎだし、だいたいテレビでよく見て知られるようになったのは彼らの力なのだからそこを否定することはできないけれど、ある程度以上の受けというのは、おもしろさとはもうあんまり関係ないように見える。だから人気がなくなったひとが新しい芸をやって受けないのは、それがただ新しいからだけなんだと思う。新しい芸だから、お客さんは笑っていいのかどうかわからないだけなんじゃないかと思う。だから、芸人はお客さんに「これからわたしがする芸は、声をあげて笑っていい芸ですよ」と教えてあげればいい。芸人の仕事というのはお客さんにそう教えてあげることだと思う。
 ムーディ勝山は最初からつまらなかった。「仕事をすべて流されるようになった」と言うときだけ、彼はおもしろくなった。でも、そういうおもしろさではテレビにはでられないみたいだ。
 あと、「一発屋芸人ブーム」というものがあるとするならば、それはメタ構造だ。だからなんだというわけではないけれど。

   ◇◇◇

 日本で現代本当に重要な小説家というのは、村上春樹、高橋源一郎、舞城王太郎、中原昌也しかいないんじゃないか、と思った。

   ◇◇◇

 われわれは、想像的でも象徴的でもないカフカの政治学しか信じない。われわれは、構造でも妄想でもないカフカのひとつの機械またはいくつかの機械しか信じない。われわれは、解釈も意味産出もしないカフカの実験作用しか信じない。信じられるのは、カフカの経験の報告だけである。

 これは詩に見える。ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ「カフカ」を初めて読んでいるけれど、何が書いてあるのかまったくわからない。でも、わたしは批評家になりたいわけではない。なので、ぎりぎりわかるような気がする場所だけをぬきとり、自分の頭のなかで楽しく転がすことが、楽しい。

 作家とは作家としての人間なのではなく、政治的人間であり、それは機械としての人間であり、実験的人間である。

 機械のなかに入ること、機械から出ること、機械のなかに存在すること、機械に沿っていくこと、機械に近づくこと――それらがさらに機械の部分になっている。それらは、あらゆる解釈に左右されない、欲求の諸状態である。

 問題は自由になることではなく、ひとつの出口または入口、あるいはひとつの側面・廊下・隣接するものなどを見つけることである。


 カフカの小説の構造は全体が見えないことだと思っていた。保坂和志もこれは指摘していた。葉のとなりには葉しかない。カフカは作者だけれど、カフカは作品全体の構造を把握しているとはどうしても思えなかった。だから、「城」や「審判」において作品の設定となるようなことがらは地の文ではなく、登場人物の台詞として語られている(はずだと思うけれど読みかえしてないので知らない)。カフカが何をしているのかと言えば、それは、目の前で起こったことを報告しているだけだ。それが報告であれば、それが現実だった。どんなに荒唐無稽なものが起こっていたとしても、報告さえしてしまえば、それが現実だった。つまり、カフカはCGを使わないで映画を撮っていただけだった。わたしも映画を撮りたいと思う。カフカの構造は村上春樹、柴崎友香にすっかり受けつがれているように見える。わたしはふたりがだいすきなので、カフカもだいすきだ。みんなだいすきだ。

   ◇◇◇

 目の前で何か起こったら、たぶん、それは現実だろう。それをカメラで撮って、どこかで映せば、もうそれは「映画」などと呼ばれて、フィクションとして扱われてしまう。つまり、どこかで現実からフィクションになる瞬間があったはずだけれど、その瞬間がどこなのか、わたしは知りたい。そしてかりにホームビデオを撮りそれを10年後に見たとしても、見たひとは「これはフィクションだ。こんなひとは本当にいなかった」と言わないだろう。それはどうしてだろう。つまり、映画として撮られた映像とホームビデオとして撮られた映像に本質的な差異はないはずなのに、どうして一方を現実と呼んで、一方をフィクションと呼ぶんだろう。

  ◇◇◇

 そして彼女には文章を書く必然性があった。でも、わたしにはなかった。それが絶望だ。それでもわたしは書くし、書くならば、それは絶望ではなかった。きみを好きでいること、きみを好きなふりをしつづけること、それがわたしの持てる唯一のプライドだった。




コメント
ここぞとばかりにコメントさせていただきますね!
ぼく、実はルーツが「お笑い」ていうかコントなので!

> 芸人はお客さんに「これからわたしがする芸は、声をあげて笑っていい芸ですよ」と教えてあげればいい。芸人の仕事というのはお客さんにそう教えてあげること

さすがに分かる人には、なんでも分かっちゃうんですね!
完全に、そうです。それは手品師のタネの部分なんで、ほんとは見破られちゃダメなことですけれど、芸人の「芸」とは、おもしろいことを言ったりしたり、の事じゃなくって、笑っていいよって伝える技術の事です。

だから、すごい天才的な発想を持っていても売れなくてイマイチ受けない芸人がいたりします。その人は「芸」が足りなかったり、舞台に立つのにむいてなかったりします。構成作家になると、成功したりします。
逆に、一個も面白い発想が思い浮かばないようなセンスゼロ人間でも、芸人として人気が出たりします。それは「芸」があるか、舞台に立つべき「愛されキャラ」だから。

究極、笑いなんて、しっかりした法則や教科書があるんで、人より努力して技術を得れば、面白いことなんて新たに考えなくても、過去の教科書から模範解答を引用すれば、確実に受けるのです!
ていっても、その技術ってのも奥深くて、簡単には手に入らないですけども。

たとえば、自分の隣で知らない人がオナラをしたら不快なだけだけど、友達なら笑えるかも知れない。
知っているか、愛されているか、は笑いに大いに関わってきます。
新人芸人は自己紹介ギャグを覚えてもらうことに必死。あぁ、あのギャグの人!と覚えてもらったら、だいぶ楽になります。などなど。
【2009/11/19 10:07】 | 鈴木陽一レモン #mQop/nM. | [edit]
> > 芸人はお客さんに「これからわたしがする芸は、声をあげて笑っていい芸ですよ」と教えてあげればいい。芸人の仕事というのはお客さんにそう教えてあげること

> さすがに分かる人には、なんでも分かっちゃうんですね!

Hahaha、褒めてもいいことはひとつもありません。僕が調子に乗ることぐらいです。つまり、わるいことだけが起こるということです。

「笑っていいよと教えてあげること」は、ほとんどの場合重要なことだと思っていました。「笑う」というのとはちがうのですけれど、たとえば漫画でもそうで、「SLAM DUNK」で流川がどんなにすごいプレイをしても、その漫画のなかで相手選手や観客が「すげえ…!」という表情や仕草をしないと、すごいかどうかはわからないです。ならば、本当にしなければいけないのは、相手選手や観客にどう反応させるか、ということになると思います。

お笑いについては、LIVEだとかはべつかもしれませんけれど、テレビだとお笑い芸人とテレビ番組のディレクタが乖離している点で、難しいですね。島田紳助が言ったことにはひな壇の芸人はみんなでつっこまなくちゃいけない、感心しなくちゃいけない、というような番組(あるいはテレビ的なもの全般についての)の法則、構成みたいなものが働いて、それが芸のおもしろさとかよりも一段高いところにあって、番組がおもしろければ、究極的には芸人はつまらなくてもいい(つまらないという役割が番組としておもしろいというように働けば、いい)。もちろん、極論なんですけれども。


>たとえば、自分の隣で知らない人がオナラをしたら不快なだけだけど、友達なら笑えるかも知れない。知っているか、愛されているか、は笑いに大いに関わってきます。

これはもう、本当にそうだと思います。映画を見るために映画監督のことを知っている必要はない。ないですけれど、でも、どうだろう。ミュージシャンがLIVEでたいしたことを言ってないのにお客さん笑うのは、みんなそのミュージシャンが大好きだからですよね(むろん、おおいに笑うべきです)。小説とか映画よりも、愛されているか、知られているかは、お笑いはシビアに測られているように感じるので、お笑いは厳しいジャンルですねっ!

ぜんぜん関係ないですけれど、テレビ業界は「その番組が誰のプロデュース、ディレクションの作品なのか」ということをもっとひろめたほうがいいと思います。僕はいやなにんげんで、作家主義なので。
テレビ番組のディレクターの名前なんて僕はひとりも知らないです。これは異常なことです。「いいとも」はタモリの番組だって知っているのに、ディレクターの名前は知らないんですから。
【2009/11/21 13:00】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
横道に反れたうえに掘り下げたこと書いたから反応うすくても仕方ないかと思っていたのに、またまた興味深いコメントが返ってくるぅ~☆

などと喜ぶと、わるいことだけが起こるのですよね。
なるべく冷静で、そっけない態度をとりたいけどツンデレって難しいんですね

> 漫画でもそうで、「SLAM DUNK」で流川がどんなにすごいプレイをしても

これは、漫画の教科書に載ってますね!
対戦相手のリアクションに、観客やコーチとか第三者の反応が加わることでリアリティが増す効果があるとの事!読者の気持ちの代弁者的役割。

笑いのLIVEとTVの違いについても、ありがとうございます。
こんな理解ある視聴者ばかりだったら、TVの未来も明るいのに。

> テレビ業界は「その番組が誰のプロデュース、ディレクションの作品なのか」ということをもっとひろめたほうがいいと思います

ってのも、大事なこと言いますね!桜井さんは、まともな事しか言いませんね。
映画や演劇を見る人の感覚では、役者だけが有名で監督や演出家の名が表に出ない。なんて、不思議な状況ですよね。
TVでは、ドラマくらいは脚本家が重視されたりしますけど、プロデューサーやディレクターが誰かというのは、一般的には無視されてますね。でも業界内では無視されてるハズないと思うので、これは多分、必要ないというか娯楽として楽しんでもらうために、裏側を極力隠して、あえて敷居を低くしているのだと思います。
笑いの世界でも、内部ではモチロン、ディレクターが誰か、作家は誰か、みんな気にしてTV見てるし、話題に出ます。
音楽でも、プロデューサーによって音の感じが変わるように、TV番組でも、じっくり見てると「あの番組と演出が似てる!(パクりじゃなくて)」とか分かるものですよ!たとえばテロップの出し方とか、ナレーションの挿入に個性が出やすいです。
そんな風に見ていくとTVも、違った見方が出来ますけど、娯楽として楽しむ分には、やっぱり必要ないかなとも思います。
【2009/11/21 21:19】 | 鈴木陽一レモン #mQop/nM. | [edit]
テレビについて。テレビについて、のりのりに。

僕は実家にいてテレビがついている時間しかテレビを見ないし、小さい頃もゲームばっかりやっていて、テレビをあんまり見ていなかったろくでもないにんげんなんですが、テレビについて。
だいたい、テレビには「大多数のひとに向けて発信するメディア」という前提があるから、とてもややこしいことになっているんだと思います。「ゴダール信者め!」と罵られてもいいんですけれど、ゴダールは「映画をつくるにはお金はかからない」と言っているんです。つまり、俳優をカメラの前に立たせることにお金がかかるだけで、映画づくりにお金がかかるわけではない、と言っているんです。
テレビ番組はお金がかかるという前提でつくられているように見えます。でも、たぶんそうじゃないんだと思います。演劇なんかは一日多くて数百人、という単位のお客を集めて(一応)なりたっているジャンルですよね。三角さんのLIVEなんて10人ぐらいしかお客さんいないですもん。
テレビでわからないのは、何故毎週同じ曜日、同じ時間に同じ番組をつくらなければいけないか、ということです(僕はジャンプとかの週刊誌も、毎週同じ作家が連載するのはやめたほうがいいと勝手に思ってるんですけれど)。「バラエティ番組の質の低下」ということで、某新聞で誰か知らないひとが対談していたんですけれど、「昔、ドリフなんかは数日稽古してものすごくつくりこんだコントを毎週していた。もう今の番組ではそういうふうなことはやらない」と言って怒ってました。世代の違いはあると思うんですけれど、「そういうことじゃないよ」と僕は思います。ドリフ的なものを無視していいわけではないです。でも、考えなくてはいけないのは、「大多数のひとに向けて発信するメディア」というものが21世紀になってなかばなりたたなくなってきているという事実だと思います。それはもう本来ならすでにそういうふうになっているのに(出版不況ってたぶんそういうことだと思うんですけれど)、これからどんどん加速していくのに、言っていることはドリフ。毎週同じ時間に同じ番組を流すこと、それを視聴者が見るということはもう崩壊を始めているのだから、テレビのほうでもそれを崩壊させていかなければいけないのに、ドリフ。ドリフをテレビで公開する必然性がどこにあるんでしょう。月一でしっかり完成されたおもしろいものをそこらの劇場でやって、それをデータとしてネットで流せばテレビ番組にする必要性はないんじゃないですか。などなど。そういう流れにある現代のなかで、ゴダールたちがかつて掲げた作家主義、つまり「この番組はディレクターの作品だ!」という発言がもう一回意味を持ってくるのではないかな、と都合のいいことを考えています。
ほんとうの話、みんながテレビを見ないのはテレビのスイッチをつけるのがめんどうくさいからのはずです。PS3やXBOXをやらないひとに「なんでやらないの?」と言うと、「電源いれるのがめんどうくさい」と返ってきます。そういう状況のなかでどうするか、ということですね。それを僕以外のひとががんばって考えればいいと思います。
僕はもうたぶんテレビは買わないですけれど、おもしろい番組ができればいいとはたんじゅんに思います。上に書いたようなことも、テレビのひとが考えていないわけもないはず、なので。いい番組がテレビ以外の場所で見られるのなら、ぜひ、見たいとも思います。がんばれ、てれびのひと!
【2009/11/22 22:54】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
のりのりのテレビ論、ありがとうございます。

至るところで「TVの崩壊」は叫ばれてるのですが、その原因は様々ですね。
一番の要因はネット、携帯、ゲーム等、娯楽メディアが多様化した事と思われますが、弱気なTVマン達が早々に白旗をあげて、ゴールデンタイムの番組を30代以上の中年からお年寄り向けにシフトチェンジしたのは自殺行為に思えます。
またHD録画によりCMが飛ばされてしまうと見るや、番組内での企業タイアップが増えて1時間まるごとCMみたいな企画を放送したり。それらは対処療法的ですね。病状は悪化していきます。
民放TVの前提「大多数のひとに向けて発信するメディア」とはCMを流しスポンサーから広告収入を得るため、視聴率を上げてCM価値を上げる目的がありますが、
視聴者よりスポンサーを大事にするあまり、視聴者を無視した番組作りでTV離れが進めば、結果CMの価値も下がってスポンサーも逃げる。

退屈なTVに興味はないです。刺激がほしいです。もっと攻め込んだ番組作りをしてほしいというか、そうでないと衰退の一途ですよね!
「ドリフ」というのは、その対談の知らない人がどういう想いで語ったか分からないですが、僕なら「気合が入った番組」という意味で受け取ります。現代に、当時のドリフまんまの事をやっても仕方ないというか、むしろ古くて新鮮かもですけども、そういう模倣を薦めるのではなくて、当時のドリフくらいに作りこんでいてハプニングもあって刺激的なTVが見たい!今のTVはヌルい!と怒ったのではないかと。知らない人なので、知らないのですけれど。

ディレクターの個性、主張がクッキリ出やすいのは、やはり深夜番組です。すごい勢いで減っていってますけど、まだ少し生き残っていると思います。あとはNHKが、稀に大当たり番組を出します。民放では不可能な採算度外視の取材が出来るというか、派手な演出が必要ないので余計な経費のかかっていない、地味な良作が生まれる土壌なのだと思われます。

う~ん。桜井さんは、てれびを見ない人なのに
なぜここで、こんな話をしているんだろう。ごめんなさい。
このTV中毒者め!と罵られてもいいのですが、僕も最近あまり見てません。。
【2009/11/23 10:51】 | 鈴木陽一レモン #mQop/nM. | [edit]
>番組内での企業タイアップが増えて1時間まるごとCMみたいな企画を放送したり。それらは対処療法的ですね。病状は悪化していきます。

最近、つぶやきシローがTwitterにいてフォローしているんですけれど、
キャンペーン中らしくて、彼のつぶやきのあとに全部キャンペーン広告が入るんですね。
問題はですね、つぶやきは彼の「作品」なのに、そこに広告が入ることにたいする美意識をどうするか、ということだと思うんです。
テレビも総合的なメディアだし実質的に無料で放送されているので、
それはもう広告が入るんですけれど、それはつまり、「テレビ番組」が「ピュアな作品」として保たれていない、ということだと思うんです。
こういうのはばかみたいな話だと思うし、べつに作品がピュアでなければいけないというわけでもなく、たんに僕が「広告嫌い」だからぶーぶー言っているだけなんですけれど。
スペシャルなクイズ番組では「○○チーム」(○○のなかには番組名が入る)とわけて、ほかの番組の出演者でチームを組んで番組をさせるってすごいですよね。テレビがテレビの宣伝を作品としているなんて。すごい。でも、それは高等技術だと思うんです。ひどく、難しい。

テレビって誰が見ているか、謎ですね。
マンガくらい読んだほうがほうがいいように、
テレビくらい見たほうがいいと思うのですけれど、
あいにく、僕のまわりにはテレビを見ているひとがひとりもいません。
ほんとにひとりもいません。友達がいない、という理由だけではなくて。たぶん。
【2009/12/03 06:47】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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