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飴屋法水「4.48 サイコシス」@あうるすぽっと

2009.11.21(13:48)

 4時48分、絶望がやってきて、おまえは首を吊る。
                              ――サラ・ケイン


 TNが「H.I.Sに相談しに行こうぜ」と言うから「えー」と言って、相談しにいった。3時半に駅で待ちあわせだったのだけれど、駅まで20分かかるのだけれど、わたしが家をでたのは3時20分だった。3時30分にTNから電話かかってきて、「俺まだ家なんだけど」と言われた。「早く来いよ」と言った。意味がわからなかった。相談する内容をまったく決めずに言ったのでまるでぐだぐだだった。とりあえず、当日朝は高速バスで空港まで行くことが決まったので、よしとした。
 TNとさよならをして、そのまま電車に乗って池袋まで「4.48サイコシス」(演出:飴屋法水、原作:サラ・ケイン)を見にいった。サラ・ケインについては谷賢一が書いたこのページに処女作「Blasted」のあらすじが載っている。楽しいので読もう。「4.48 サイコシス」はサラ・ケインの遺作で、あらすじはなく、全編つぶやきのような台詞とよくわからない文章で埋めつくされている戯曲らしく、彼女はこれを書いたあとに自殺した。
 とても楽しみにして行ったのだけれど、後半の一時間くらいは「そういうことじゃないだろう」、「おしり痛い。足痛い」とずっと思っていた。こういう演劇を見ると、「これは詩じゃないか!」と言いだすひとがいるに決まっている。もちろんわたしだ。詩と演劇は等価ではない、というのが今のところの認識だけれど、少なくとも、詩と演劇が等価になっているように見えるものというのは見ていおいたほうがいいと思う。パラジャーノフ「ざくろの色」を見たことは、やっぱり映画や詩(や小説)を考える上でひとつの大きな土台になった。「4.48 サイコシス」も、見ないで見たいと思っているよりも、見てがっかりするほうがましなので、見ておいてよかったと思う。舞台装置の圧倒的な美しさがあった。舞台が観客席になり、わたしたちは舞台裏から観客席を見るかたちになっていた。冒頭、キリストみたいなひとが天井から吊るされ、よくわからない台詞が飛びかい、背後ではドラム(?)がぼーんぼーんと鳴りつづけ、その迫力に鳥肌がたった。でも、そこがいちばんおもしろかった。あとはあまりおもしろくなかった。長いと思った。たぶん、原作の戯曲にかなり忠実につくっているのだと思うけれど、長い。台詞も冒頭に比べてぜんぜん届いてこない。カタルシスもない。どうしてこういうことになってしまうのか、よくわからなかった。こういう作品にたいして、どういう反応をしたらいいのか、よくわからなくなっている。ひとが真横に並んで、数字を延々とつぶやいているだけのシーンを見て、わたしは本当にそれをおもしろいと思うんだろうか。その裏に隠された心的な対称性を見なければいけないんだろか。内的なものと外的なもの、他者と自分との関係性について考えなくちゃいけないんだろうか。芸術とはそういうことだったんだろうか。もちろん、そういうことだろう。芸術とはそういうことだ。それを包括した上で芸術は成りたつと、わたしは思っている。サラのつぶやきはおもしろい。でもおもしろいものをおもしろいと感じるのかはわからない。わたしにはよくわからなかった。だからわたしは「そういうことではない」と思った。ラストはよかった。でも、よいシーンがおもしろいとは限らない。
 わたしはこれなら「serial experiments lain」のほうがおもしろいと思った。サラ・ケインは「lain」を見ていないんだろうか。
 サラ・ケインというひとはとても気になるので、次は普通にあらすじがある戯曲が見たいと思った。




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