スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。





スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]

フランス旅行 その3

2009.12.02(02:59)

 6日目

 パリ最終日。ホテルに3時45分に集合だったので、朝からルーヴル美術館に行った。
 ルーヴル美術館はある意味ですごいところだった。3階建てでそれはもうひろくて、まじめに見ようと思ったら数日はかかるところで、それなのに、見るべき作品はほとんどないように思った。それは、まず第一にわたしが彫刻作品すべてに興味を抱けないからで、第二に、すべての中世絵画がまったく同じ絵にしか見えないということだと思った。いい絵はわたしにとって3つくらいしかなく、ほかは全部どうでもいいと思った。ルーヴルの所蔵している絵をすべて並べると、その長さは27キロメートルになるらしい。それはいったい何を意味しているんだろうか。ルーヴルはその形態からして、美術品との接しかたにもう一度向きあわなくてはいけない場所だった。それはとても価値のあることだけれど、それ以上の価値はなかった。
 数ある宗教絵画はわたしには全部同じに見えた。だから、それは全部どうでもいい絵だった。わたしは絵のことをよく知らないし、絵の見方はもっとよく知らない。それらの一般に偉大とされている作品について、どう接していいのかまるでわからなかった。ダヴィンチの「モナリザ」は意外にいい絵だったと思うけれど、とても離れたところからしか見ることができなかった。とても離れたところからしか見ることができないということは、たいしたものを見ることができないということだった。普通のガラスケースの上に防弾ガラスがあって、何人も警備員がうろうろしていた。みんなはぱしゃぱしゃとモナリザの写真を撮っていた。「ミロのヴィーナス」も見たけれど、「ふいーん」としか思わなかった。それ以上何を思えばいいのかよくわからなかった。「サモトラケのニケ」についても同じだった。わたしは「ふいーん」と思いながら「サマトラケのニケ」のまわりをぐるぐるまわっていた。だからそれはつまり「サマトラケのニケ」ではなかった。かりにそこに「すごい柱」みたいなものがあったとしても、わたしは「ふいーん」と言いながらまわっただろう。それが「サマトラケのニケ」である必要性がないのならそれは「サマトラケのニケ」ではなく、「サマトラケのニケ」という名前がついているだけの何かだった。そして「サマトラケのニケ」のまわりをまわるわたしもわたしである必要はなく、つまりわたしは犬でもよかった。「サマトラケのニケ」のまわりは犬でもまわれる。わたしたちは「サマトラケのニケ」のまわりをまわるときだけ「サマトラケのニケ」を無効化するし、わたしたちをも無効化する。わたしたちは犬だ。でも、それはたぶん本当ではない。「サマトラケのニケ」のまわりをまわるときだけわたしたちが犬になるのではなく、「サマトラケのニケ」のまわりをまわるときだけわたしたちはわたしたちが犬だということに気づくのだと思う。わたしは普段から犬だ。よくわからないのだけれど、「サマトラケのニケ」のまわりをまわる以上のことをわたしは何かしているんだろうか。ひとは好きなひとや大事なひとやたいせつなもののまわりをぐるぐるとまわっているだけの犬じゃないんだろうか。そして、わたしたちは「好きなひとや大事なひとやたいせつなもの」を「サマトラケのニケ」だと思いこんでいるんじゃないだろうか。でも、それはたぶん「サマトラケのニケ」じゃない。それに気づくことは難しい。気づいたあと、どうするかはもっと難しい。かりにきみが「サマトラケのニケ」だったらわたしたちは「サマトラケのニケ」を愛するべきだけれど、「サマトラケのニケ」が「サマトラケのニケ」ではなかったとき、わたしたちはきみをどうやって愛したらいいんだろう。きみの本当の名前だって知ることができないのに。
 イマムラさんという頭のおかしいひとに「おまえは自然さを獲得するために演技という手段をとっているのか」と言われたことがある。「セブンイレブンのプライベートブランドのビールがおいしい」とも。美術館にはオーディオガイドというものがあった。数年前からわたしはピュアなものを求めていた。それはゴダールや高橋源一郎が言ったことだった。「きみたちはただものを見ることすらできない」と彼らは言った。ゴダールは「きみたちは映画を見るとき、字幕を読んで画面に誰が映って何をしているかを確かめているだけだ。それは映画を見ることではない」と言った。高橋源一郎は「それは小説という名前がついていて小説として売られているだけで、中身をよく見れば小説ではないことはわかる」と言った。それは言葉の問題だった。それには小説という名前がついているだけで、本当は小説ではなかった。作家に必要なのは言葉に頼ることではなく、ものを見ることだ。ただものを見ることがいちばん難しい。そう思った。それがわたしにとっての「自然さ」だった。だから、そういう訓練をした。美術館に行ってもオーディオガイドは絶対に借りなかった。オーディオガイドを借りて絵を見ているひとを見ながら「それは絵の説明を聴くために絵の前に立ちどまっているだけで、絵を見ているわけじゃないんだろう。ひとは説明を聴くために絵を見るべきじゃなく、絵を見るために絵を見るべきだ。そして説明を聴いただけで絵を見た気になり、その絵についてわかった気になることだけはしたくない」といやしいことをずっと考えていたし、今でも考えつづけている。TNによると、「モナリザ」はかつては薄いヴェールをかぶっていて、それは妊婦が着るものだったらしい。つまり、あの微笑みは赤ちゃんが生まれたことあるいは妊娠したことへの微笑みだとか。でもわたしは、その知識は絵とはいっさい関係ないと思った。その手の知識よりも「モナリザってあんまりかわいくないよね」とひとこと言えるようになりたいと思った。「モナリザを見て教師になろうと思った」とか「モナリザを見て月に行きたくなって、今宇宙飛行士の訓練をしています」とか、なんでもいいけれど「そういうこと」が言いたいと思った。本当に難しいのはそういうことを心から言うことで、できるならばわたしはそう言いたかった。でもたぶん、ルーヴル美術館はそういうことを言う場所ではなかった。みんなは「誰かの描いたもの」を見ているんじゃなくて、「誰が何を描いたか」を見ているように見えた。そして美術館は「誰が何を描いたか」を展示しているだけで「誰かが描いたもの」を展示できているようには見えなかった。それはおそらくルーヴルの問題ではなく、わたしとほかのすべての美術館を含めた総合的な問題にはちがいないけれど、わたしにはそう見えた。でも、かりにそうだとしたら、美術館は絵を飾ることができないし、客は絵を見ることもできない。美術館と客だけがいて、そこには「モナリザ」はなく、ダヴィンチもいない。「モナリザ」という絵はあるけれど、「モナリザ」という存在は存在できない。絵を見るということは、絵をその場に発生させることだ(それは小説も映画も変わらない。小説を読むということは小説をその場に発生させることだ。それができないのなら、小説がわるいか、読者がわるいか、その両方がわるいかのどれかだ。でも、そのどれでも、読者も作家も本当にはわるくはない。それはそういうことが起きただけだ。かんたんに言えば「相性がわるい」ということだけれど、「相性がわるい」という言葉は下品な言葉なので、使わない)。それは訓練しだいでできるようになると思う。ルーヴルでわたしがひとつの絵も発生させることができなかったのは、わたしが彫刻の見方を知らないからだったし、絵の見方を知らないからだった。「モナリザ」より松井冬子「世界中の子と友達になれる」のほうがはるかによかった。だからわたしは「世界中の子と友達になれる」のほうが「モナリザ」よりもはるかに価値があると言いたい。言う。でも、本当にそれを言うのはひどく難しい。何かを完璧に行うのはできない。何かを完璧に行うというのは「死ぬ」ということだ。だから、比較的完璧さを装って生きていくしかない。それが正しいことがどうかはわからない。わたしは傲慢だけれど、かりにきみが傲慢だったとしてもきみを好きならわたしはきみが好きだと思う。傲慢さは誰にとっての傲慢さなんだろうか。「世界中の子と友達になれる」と思っているひとが多すぎると思う。「他人のことなんて理解できないよ」と言うのはひどくかんたんだから、口先でそういいながら「世界中の子と友達になれる」と思っている。ばかだと思う。どうすればいいのかわからないのなら、それはどうすればいいのかわからないということだし、わたしはどうすればいいのかわからないことをどうすればいいのかわかるようになりたいとは特に思っていないから、そのままの状態で死んでもいい。傲慢ならずっと傲慢なままだろう。たぶん、わたしは他人の問題と自分の問題をとりちがえている。「多くのひとは自分がヘミングウェイではないのにヘミングウェイだと思いこんでいる」と書いたことがある。でも、わたしはけっきょくヘミングウェイではないのにまだまだわたしをヘミングウェイだと思っている。傲慢さとはそういうことだ。誰かのことを考えるのはその誰かを許さないということだ。やさしさは誰かがわけのわからないことを言ったときに「きみの言っていることはちっともわけがわからないけれど、何かいいね!」と言って笑ってあげることだし、それによって相手を笑わせてあげることだ。わたしにはそれがうまくできないんだけれど。
 ルーヴルでTNとはぐれて、わたしは「もうあいつとは会えないな」と10分で思った(それぐらいルーヴルはひろい)。ルーヴルはつまりぜんぜんちっともまったくおもしろくなかったので、すぐに飽きて、1時間くらい出口でTNを待ったけれど、まったく来ないので、あきらめてでていった。「あいつも子供じゃないんだから、だいじょうぶだろう」と思った。時間があまっていたので、かつて芸術家たちが集った街として有名なモンパルナスをぶらぶらとひとりで散歩をした。特に思うことなかったけれど、モンパルナスの墓地に行って、サルトルさんとボーヴォワールさんがいっしょに眠るお墓ををじっと見つめていた。それからボードレールさんのお墓を探したけれど、どうしても見つからなくて、あきらめた。記念碑だけ眺めて、帰ってきた。
 ホテルに帰ったらTNはいなかった。TNは時間ぎりぎりに帰ってきて、ルーヴルや近くの駅でわたしを待っていたと言った。「なんていいやつなんだ」と思った。「ごめん」と言った。
 バスで飛行場まで行って、パリにさよならをした。


 7日目

 飛行機のなかでずっと眠っていた。韓国のインチョンで異文化交流をした。民族服を着た韓国のひとにTNが「写真をいっしょに撮りませんか」と言って断られていた。ほかのひととはいっしょに写真を撮っていたのに。海と陸をすいすいと走って、飛行機は無事日本についた。飛行機はすごいと思った。あとパリもすごいと思った。
 パリにはかわいい女の子(6歳前後)がとてもたくさんいた。プランタンのエスカレータでかわいい女の子に見とれすぎて、降りるのを忘れて、つまさきをぶっつけた。オルセー美術館には金髪で、白と黒の服を着て、しましまの靴下を履いた女の子がいた。「ヘルシング」でコマの後ろにうっかりいそうな女の子だった。その子がいちばんかわいかったと思う。いったいどうしたらかわいい女の子をトランクに詰めて持ってかえることができるんだろうと思った。そうすることができたらとても楽しいのにと思った。手をひいて「僕はきみのお父さんだよ!」と言ってそのままつれてかえることができればよかった。僕にはいつも勇気がたりない。だからいつも世界は救われない。たぶんあの女の子が世界の根っこを支えていた。




コメント
フランスに行かれたんですね!!旅行記とっても面白く読ませていただきました^^
内容が盛りだくさんで、たった数日の旅程とは思えない豪華さですね。
最近、コクトーとかフランスの小説をつづけて読んでいるので、情景が目に浮かぶようです。現代のパリは、幻想的というよりごちゃごちゃしているのかしら。
美術館めぐりが大好きなので、オルセーやルーブルに行かれた桜井さんがうらやましいです//
ロートレックは、すばらしくおしゃれですよね!大好きです。今、bunkamuraでロートレック展をやっているので、先日見に行きましたよ。よいまとめかたでした。

モナリザとの比較で、松井冬子さんの作品が登場して、桜井さんの関心の広さに驚きました。わたしは、松井さんの作品を見ると痛くて涙が出ます。なぜかDV被害者支援をしているときのことが思い出されて。

あと、モネとマネは作風がぜんぜんちがうからすぐ分かりますよ。
時差ボケはなおりましたか??ゆっくり旅の疲れをとってくださいね。
【2009/12/04 20:09】 | みか #J8sWLEBQ | [edit]
「ピュア」というと、若木民喜・作「神のみぞ知るセカイ」(小学館)第1巻で主人公のギャルゲーマーが言うには「ツンキャラはピュアネス守る鎧だねアイアンヴァージン」だそうです。
「ものを見る」のは難しいですよねえ。わたしはボーッと「日曜美術館」を「ながめているだけ」です。
【2009/12/04 20:34】 | 上田洋一 #- | [edit]
ただいま! です。
ごぶさた! です。

どうも読んでいただいて、ありがとうございます。
パリは、もちろん昔と比べたらごちゃごちゃしているかもしれませんけれど、しっかり街の概観を守っているので、とってもきれないな街だと思いましたよ! 建物も、高さが統一されているんですね。夜は特に街の照明も統一されているのか、橙色の光でどこかもかしこもぼうっと光っていて、まさしく、幻想的でうっとりしていました。

Bunkamuraのロートレック展、僕も行ってきました。そのとき見たときは「ぬーん…」としか思わなかったんですけれど、パリで見たときは、なんだかすてきに見えました。あの黒猫だけが描かれている有名な絵が、すばらしくおしゃれです。

松井冬子という単語がでてきたら「知ったかぶりしてるな…」とぜひ思ってください。さいきん、横浜美術館の常設展で彼女の絵を見て衝撃を受けまして、それ以来松井冬子松井冬子です。あのひとの絵は、ほんとうに、すごいと思います。今、成山画廊というところで彼女の下図展をやっているし、森美術館には新作が展示されている(はず)です。どちらも、すごく行きたいので、がんばって、行きます。

> あと、モネとマネは作風がぜんぜんちがうからすぐ分かりますよ。

今調べました。「ベルト・モリゾの肖像」を描いたひとがマネですね!
モネはオルセーに「日傘を差す女」があって、とってもよかったです。

ありがとうございます。
日々不規則な生活を続けているので、時差ぼけなんてへっちゃらです。
それでは。
【2009/12/06 00:40】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
つまり、ツンのなかに至高のピュアネスが隠されているということですね。
ツンデレというものに興味がないのでけれど(最初のツンの時点で首を吊ってしまうのでデレまで到達できないであろうという圧倒的な予感から)、デレは何を守る鎧なのかが気になります。
【2009/12/08 03:52】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
トラックバックURL:
http://kizuki39.blog99.fc2.com/tb.php/741-c76232c5
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。