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とんまな雨蛙の娘

2009.12.04(07:18)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)
(1997/09)
村上 春樹

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 女性の敵と呼ばれた男が、女権拡張論者の首魁である、有名な夫人から挑戦状を突き付けられた。彼は暫らく考えて後、次のように手紙を送った。「私は女という概念に属する範囲で、すべての女たちを誹謗している。ところで貴女――及び貴女の同志たち――は、女という概念に属しますか? 再考して下さい。この点でわかってもらえば、お互の意見が一変するようになるかも知れない。」 
             ――萩原朔太郎「虚妄の正義」より



 市橋というひとが女のひとを殺したらしい。彼は「ひとの痛みはわからないよね」と言ったらしい。正直なひとだなあ、とあたしは思った。でも、かんちがいしてはいけないと思う。ひとの痛みがわからないから彼はひとを殺したんじゃなくて、ひとを殺したひとが「ひとの痛みはわからない」と言っただけのことだ。内実は知らないし、さして興味はないけれど、外側から観測できることはそれだけならば、それがわたしにとっての現実なのだと思う。
「そのひとが好きかどうかよくわからない」と言ったことがあった。あたしはそのひとではないので、そのひとの痛みはわからない。「恋愛しよう」とひとは言う。だけれど、かりにそう言われてあたしが「恋愛」を抱いたとしても、ひとが言った恋愛はちがうかもしれない。そしてそれは、ぜったいにちがう。大事なひとが死んだときあたしはなんとなくそれを悲しむかもしれないけれど、その悲しみは、ほかのひとの言う悲しみとはちがうかもしれない。あたしがそれを「悲しみ」と呼んで、ほかのひともたまたまそれを「悲しみ」と呼んでいるだけかもしれない。つまり、あたしはほかのひととくらべていつでも悲しんではないだろう。ほかのひとの感情だけが、いつでもほんものの感情だ。
 そういう誤解が生じてしまうのは、言葉を使うことによってわたしたちがコミュニケートできているという幻想を抱いているからだと思う。「問題は届くはずのない言葉が届いてしまっていることだ」とあたしは以前に書いた。届くはずのない言葉が届いてしまっているから、「大事なひとが死んだら悲しいね」と破廉恥なことを平気で口にだせるくらい、あたしたちは愚かになれた。言葉なんてなければいいのに。言葉があるから誤解が存在すると思う。でも、ならば「誤解こそが愛だ」と言うこともできると思う。
 今年に入ってたぶん20回くらいは言っていることだけれど、言葉は届かない。あたしはきみを理解できないし、きみはあたしを理解できない。きみとあたしはいっさいの関係がない。それでも、それはちっとも悲しいことではないし、不幸なことではない。ちっとも。

   ◇◇◇

 村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」のなかで、笠原メイは主人公にこう語りかけた。

 あなたは自分を空っぽにして、失われたクミコさんを一生懸命救おうとした。そしてあなたはたぶんクミコさんを救うことができた。そうね? そしてあなたはその過程でいろんな人たちを救った。でもあなたは自分自身を救うことはできなかった。そしてほかの誰も、あなたを救うことはできなかった。

 たぶん、斎藤美奈子だったと思うけれど(ちがうかも)、彼女は村上春樹の小説にたいして「いろんな女の子がやってきて、主人公に何かを話をして、さっていく小説だ」と言った。その通りだと思う。問題は、そこで彼女たちが救われていくという悲劇だと思う。主人公が救いたかったのはクミコだけれど、彼はけっきょく彼女を「たぶん」というかたちでしか救えなかったし、救ったのは、クミコ以外のひとたちだった。そして誰を救っても自分だけは救えなかった。救えなかったけれど、彼は戦うことができた。戦うことができたということは、たぶん、メッセージが届くということだった。
 あたしはこれを読んで、七尾旅人「9.11 FANTASIA」を思いだした。七尾旅人はその作品のなかで、9.11テロの前後50年の歴史を歌と言葉で語った。でも、七尾旅人の語りを聞いているひとは誰もいなかった。聞いているひとが誰もいないという状況のなかで、「それでもわたしはここにいる」というメッセージをだした。「わたし」とはつまり、笠原メイのことだったんだと思う。笠原メイは月光の下で主人公のことを思い裸になることができた。月光に照らされたひとつひとつ自分の身体のかたちを確認し、ぼろぼろと、届かない主人公のことを思って涙を流すことができた。かんじんなのは、裸になることに何の理由も何の意味もないことだ。何の意味もなく、何の理由もなく、なのに、それは主人公に向いてしまう。その本来はないはずの方向だけが笠原メイの強さだし、笠原メイの美しさだと思う。笠原メイはホールデン・コールフィールドだと思う。だけれど、ホールデンになることは難しい。笠原メイはたぶん最初からホールデンではなかったんだと思う。主人公がいたから、彼女はホールデンになれたんだと思う。それは、相補完の関係だと思う。笠原メイを救おうとはせずに彼女を救った主人公と、月光の下で裸になることで主人公を救った笠原メイ。「ノルウェイの森」においてワタナベくんと緑はどちらもホールデンになりそこねたのだと思う。ふたりの関係が対等だったのがいけないのかもしれない。「ノルウェイの森」で失敗したことを、「ねじまき鳥クロニクル」では少しだけ成功させている。ワタナベくんが電話をしたとき、緑は電話にでてしまった。そして絶望がやってきた。笠原メイの手紙は、けれど、主人公には届かなかった。「届かないメッセージ」だけが「届くメッセージ」だと思う。だとしたら、あたしたちはとても悲しい状況にいるのだけれど、もう一度言いたいのは、悲しい状況のなかにいることは決して悲しいことではない。あたしは状況ではない。あたしは、状況ではない。

   ◇◇◇

 笠原メイはこう書いた。主人公はこの手紙を読むことができなかったんだから、かわりにあたしが読むべきだ。そしてきみが。

 なにかが起こると、それが社会的なことであっても個人的なことであっても、人はよく「つまりそれは、あれがこうだから、そうなったんだ」というような口にして、多くのばあいみんなも「ああそうか、なるほど」となっとくしてしまうわけだけれど、でも私にはそれがもうひとつよくわからないのです。「あれがこうだ」「だからそうなった」というのは、ちょうど電子レンジに「茶碗むしのもと」を入れてスイッチを押して、チンと鳴ってふたをあけたら茶碗むしができていたのというのと同じで、ぜんぜんなんの説明にもなってないんじゃないかしら。つまりそのスイッチとチンのあいだに実際になにが起こっているのか、ふたを閉めちゃったらまったくわからないんだものね。「茶碗むしのもと」はみんなの知らないあいだに暗闇の中で一回マカロニ・グラタンに変身して、それからまたくるっと茶碗むしに戻っているかもしれないじゃない。私たちは「茶碗むしのもと」を電子レンジに入れてチンしたから当然結果的に茶碗むしができたって思っている。だけどそれはただのスイソクに過ぎないと思う私は思う。私はむしろ、「茶碗むし」を入れてチンしてふたを開けたらたまにマカロニ・グラタンが出てくる、なんていう方がほっとしちゃうのね。
 
 でも私は想像するのだけれど、私の雨蛙みたいな両親は、もし「茶碗むしのもと」を入れてチンしてマカロニ・グラタンが出てきたとしても、たぶん「自分はきっとまちがえてマカロニ・グラタンのもとを入れたんだな」と自分に言いきかせたりするんじゃないかな。あるいはマカロニ・グラタンを手に取って、「いやいや、これは一見マカロニ・グラタンに見えるけれど実は茶碗むしだ」と一生けんめい言いきかせたりするかもしれない。そしてそういう人は私がもし「茶碗むしのもとを入れてチンして、それがマカロニ・グラタンに変わることもたまにはあるのよね」と親切に説明してあげてもぜったいに信じないだろうし、逆にかんかんに怒ったりもするんだと思う。ねじまき鳥さんはそういうのってわかりますか?


   ◇◇◇

 笠原メイはフィービーや緑などあらゆるかわいい女の子のかわいさを越えてかわいい気がする。ほんとにかわいい。ほんとにかわいい。かわいい。かわいすぎる。「女の子が世界を救う」とあたしは以前書いた。けれど、主人公が対等な関係にあったクミコではなく、非対等な関係の笠原メイにしかコミットできなかったわけを考えれば、その言葉はとても正しいんじゃないかと思う。




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