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黒沢美香&ダンサーズ「膝の火」@こまばアゴラ劇場

2009.12.06(00:25)

美しい夏 (岩波文庫)美しい夏 (岩波文庫)
(2006/10)
パヴェーゼ

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意味を成さなければ成さないほど圧倒されてここを抜きにダンスを語れない。初めてのようにまだ憧れて結局はこれをしなければ前に進めない。巧い下手を問う次元ではなく立ちはだかる今に直面する異常さ。踏み明く身体の貴さに私はひれ伏さずにはおれないのです。こんなことはなにかの役にたつのか。まじめさ真剣さだけのことなのか。到達もせず、革命も起きない。こんな豊かなことがある。
        ――黒沢美香「『起きたことはもとにもどせない』の挨拶」より 


 朝からぶいぶい電車に乗って、東京都現代美術館に行き、「レベッカ・ホルン展」を見てきた。感想はあまりないけれど、空間を大胆に使って、天井から吊られたピアノがいきなりぽろんぽろん鳴ったりして、わりあい、楽しかった。ときどき動く現代アートが意外に楽しいことを再発見して、にこにこ。たがいに銃を向けあった合わせ鏡の作品が、意外につぼ。ずきゅん。ずきゅん。「鯨の腑の光」にうっとりした。レベッカ・ホルンの映画もいくつか見た。「バスターの寝室」と「ラ・フェルディナンダ」を見た。「ラ・フェルディナンダ」はバレリーナがすてき。「バスターの寝室」はコメディだった。このひとの映画は室内がおかしい。ひろい部屋なのにほぼものがなく、登場人物はそれを平然と受けいれ、ふるまっていた。
 常設展「戦後日本美術を見直す」がすばらしかった。時間がなくてじっくり見られなかったのが残念だけれど、鶴岡政男「重い手」なんて最高だ。日本画は暗い。鬱々している。すてきだ。

   ◇◇◇

 アゴラ劇場まで行って黒沢美香&ダンサーズ「膝の火」を見た。これは、「体育の授業」に見えた。男のひとが先生で、あとは生徒だという認識だった。そして「究極のストレッチ」に見えた。でも、体育の授業は学校でやればいいし、究極のストレッチは本番前にやればいい。あたしにはよくわからないのだけれど、このダンスには本番がないように見えた。本番とは、ダンサーと観客(あたし)双方を共通として出現するような場だ。あたしにそのダンスを楽しむ心構えや見方がない、あるいは、あたし程度を楽しませることができないようなダンスしかつくれないのなら、そこには本番は永遠に出現しないだろうと思った。「ミニマルダンス計画」と書いてあるから、あれが「ミニマル」だったのかもしれない。あたしには何ひとつわからなかった。ダンスとはいったい何がおもしろいんだろうと思った。
 黒沢美香の言葉はほとんどの言葉よりもかっこういいし、99%くらいまではうんうんと賛同した。でも、もしかしたら革命くらいは起こすべきだったのかもしれない、と今はあらためて思う。豊かさはあなたの内部にあるだろう。けれど、あなたの豊かさとあたしのなかの豊かさ(貧しさ)をあなたはどうつなげればいいのだろう。あるいは、あたしはどうつなげればいいのだろうか。

   ◇◇◇

 パヴェーゼ「美しい夏」を読んだ。すっかすかだ。描写もない、説明もない、内実もほとんどない、ようにしか見えない。でも、もしかしたらそれは見かけだけかもしれない。あたしがそう読めてしまうのは、たぶんパヴェーゼが大事なところをすっとばして書いてしまうからだ。あるいはもしかしたら、大事なところしか書いてないからかもしれない。でも、これを読めば少しは世界のことがわかってくるのかもしれない。たとえば、「ものはあるよりもないほうが美しい」ということ、そして、

「あたしは、何の役にも立たないの?」とジーニアが言った。
 するとグィードは彼女を腕に抱きよせた。「きみは、夏じゃないんだ。絵を描くのがどういうことかきみは知らないんだ。ぼくはきみを愛さなければいけないだろう、賢くなるためには。しかし、そうすればぼくは、時を失うだろう。きみは知らなければいけないよ、男は自分を理解してくれる友だちをもっているときにだけ、仕事をするんだ」


 この世界の悲しみの一部を「あたしが夏ではないということ」が背負っているということも。




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