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庭劇団ペニノ「太陽と下着の見える町」@にしすがも創造舎

2009.12.11(02:05)

文学なんかこわくない (朝日文庫)文学なんかこわくない (朝日文庫)
(2001/05)
高橋 源一郎

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「ぼくは政治を信じません。政治的な言葉も信じません。哲学者としてのマルクスには汲めども尽きぬ魅力を感じるし、政治原理を論じる時のレーニンもぼくは好きです。けれども、彼らが一度、現実の政治に降りてそこで話しはじめる時、ぼくは不安を感じます。現実が彼らを『誤り』へ導いていくように思えるからです。だからといって、彼らの『正しい』理論だけを信じても彼らは喜ばないでしょう。理論や観念や言葉が現実になる時の落差を知りながら、つまり、彼らは『誤り得る』ことを前提にしながら行動していたのではないかと思うからです。だから、ぼくは政治的な活動というものが無意味だから、政治というものがそもそもどうしようもなく間違ってしまうものだから、避けるべきだという考えには与しません。もし、いつまでも『正しく』ありたいなら、ぼくたちは結局なにもせずに終わるしかないからです」
 ―中略―
「ねえ、きみ。そんなに政治というものがややこしく、信じられないものなら、きみは政治よりもずっと文学に惹かれているのだから、どうして文学に留まろうとしないのだろう」
「それはたぶん」タカハシさんはこういった。
「文学もまた政治と同じではないかと思うからです。それが言葉でできている以上、文学もまた正確になにかを表現することはできない。ぼくが文学を好きなのは、実は正確ではないから、なにかを表現しようとして結局表現することができないから、つまり『誤り得る』からのような気がします。文学に留まろうと、政治に進もうと、いやぼくたちが言葉を持つ限り、言葉を用いる限り、『誤る』ことが必然なら、問題はどのように『誤る』かだけではないでしょうか」
                  ――高橋源一郎/文学なんかこわくない


 寝不足の身体をがたがたと揺らしながら、がたんがたんと電車に乗って、アテネ・フランセでロベール・ブレッソン「罪の天使たち」を見た。とりたてて感想はないけれど、子猫をめぐる言いあらそいと、罪の告白の時間にいちいち「動物をさわりました」と言うアンナのある種の異常さがとてもよかった。「ベルセルク」で見た、身体の前面を地面におしつけるやつ(頂礼?)って本当にあるんだ、と思ってびっくりした。最初の夜のシーンもすてきでどきどきした。

    ◇◇◇

 そのあと、庭劇団ペニノ「太陽と下着の見える町」(タニノクロウ 演出)を見た。舞台装置はラース・フォン・トリアー監督「ドッグヴィル」を思いだした。登場人物が「わたしは~」と語りはじめる手法はチェルフィッチュ「フリータイム」、そして藤枝静男「田紳有楽」を思いだした。テレビ、あるいはラジオのチャンネルをあわせるみたいなザッピングの手法をとりいれて、断片を本編(のようなもの)に混ぜあわせて語る手法はわりと新鮮だったし、舞台装置もいかされていたと思う。パンチラを前面に押しだして、何気なく会話をしているなかでむだに風が起こってスカートがぴらぴらとむだにめくれているやりかたはとてもおもしろいと思う。でも、それ以上のものは何もないように見えた。
 明確なストーリーはなく、もちろんそんなものはあってもなくてもいいのだけれど、「わたしは~」と登場人物にその登場人物の説明をさせるのなら、もっとおもしろいことを語らせたほうがいいと思った。語ること語ること、すべてが月並みで、「なぜそんなつまらないことをいちいち言わなくちゃいけないの? つまらないことは言ってもいいけれど、つまらないことはつまらない言いかたで言っちゃいけないよ」と思っていた。もし、ものごとを語るなら、ものごとの語りかたから始めなくてはいけないと思う。たとえば、彼らがあそこで「わたしは~」と語りはじめたことは彼らの「語り」によって語られるのではなく、彼らの「演技」によって語られるべきだ、ということまでふくめて、考えなくてはいけないと思う。チェルフィッチュ「フリータイム」はそれをやって、成功させているように見えた。もっとはっきり言えば、「太陽と下着の見える町」という演劇のなかでは「役者に日本語をしゃべらせる」ということにまるで無関心に見えた。あたしは、誰かがいて何かをしゃべっているかぎり、誰が何をしゃべるかだけでなく、誰がどうしゃべるかまできちんと気を使う必要があると思う。「太陽と下着の見える町」には構成がある。構成だけがあった。構成だけしかなかった。飴屋法水「4.48 サイコシス」では逆にあたえられたテキストを誰が「どうしゃべるか」を舞台すべてを巻きこんでぶつけていた。「どうしゃべるか」しかない。「どうしゃべるか」だけがあった。どっちがいいのか知らない。それが「演劇」となるかどうかも、知らない。
 諏訪敦彦監督「2/デュオ」という映画を見たとき、あたしは日本語をしゃべる日本人のことを考えて、それについてずっと以前に書いた。日本人が日本語をしゃべるということはこういうことだと思った。もとの記事はもうブログからは削除してあるけれど、手もとには残っているので、引用する。

「僕は基本的に洋画ばっかり見て日本の映画はあまり見ないのだけれど、でもそれでもたまには見るし、おもしろい映画がいっぱいあることは知っている。僕が見た数少ない邦画遍歴のなかであえて言わせてもらうと、諏訪敦彦監督ほど見ていて息苦しくなってしまう映画を撮る人は知らない。本当にこの人の映画は暗すぎるし、見ているとやっぱりとても欝になってしまうし、他人に薦めることはぜんぜんしないのだけれど、それでもこの映画以上におもしろい映画をあんまり知らない。
 そこに日常としてのリアリティを感じとりたいと思うのならば、それはやはり洋画よりは邦画のほうが優れていると僕は思う。何故なら洋画は海外の情景をうつしているのにたいして邦画は日本の情景をうつしているからだ。邦画の役者たちの姿は日本人だし、日本語をしゃべり、日本的なしぐさをして僕を魅せてくれる。でも、僕はときどきよくわからなくなってしまうのけれど、だいたいの邦画は、役者が日本人でありながら日本人ではないし、日本語をしゃべっていながら日本語をしゃべっていないし、日本人でありながら日本的なしぐさをしていない。だいたいの邦画はとてもおおきな無価値な波に呑まれ、かんたんに日本であることや日本人であることを放棄してしまう。だいたいの邦画はそれが邦画であることを忘れている。」

 ただし、「太陽と下着の見える町」を見れば、パンティの歴史がよくわかる。戦後ではまだパンティを見られることによる羞恥心はなかった。パンティを見られることの羞恥心というのは、たとえば、西洋の映画において、女優がスカートのなかを見られて恥ずかしがっていたことなどによって生まれたものだ、というのもよくわかった。それはとても楽しかった。とても。そして、ラストもよかった。ああいう話にあたしはとても弱いので、「やられた!」と思った。
(一時「けなすのはやめよう」と思った。つまり、「たいしておもしろくないものを見てもねちねち言うのはやめて、ふんふ~んと知らないふりをしていよう」とほんとに思っていたのだけれど、最近また少し言いはじめている。よくない兆候かもしれない。毎日、どうしようかと思っている。あたしは基本的に「何かを言うことは何かを言わないことよりもほんのすこしましなことかもしれない」というスタンスを持ちたいと思っている。スタンス。だけれどそれは、くだらない言葉だ。あたしにはプライドがない。守るものもない。文章を書く上での指針すらない。身はいつでもひるがえすし、大好きなひとが言うことが大好きなだけだ。けれどあたしは、いつもわからないままだ。いつもわからないだけだ。それは全部間違いに見える。そしてそれが全部間違いならば、それは全部正解ということだ。選択をするのは馬鹿のすることだ。だけれどするし、何も知りもしないものにたいして「それはつまり~」と言う。あたしは、)

   ◇◇◇

 高橋源一郎「文学なんかこわくない」をひさしぶりに読みかえした。「この本はもしかしたら日本で出版されている本のなかでいちばんおもしろいのでは?」と思った。
 昨日、車のなかで菊池成孔×UA「Over the rainbow」を聴いていて、「音楽のなかで音が鳴ったときに、『この音はこの楽器の音だな。そしてこの音はこの楽器をこういうふうに鳴らしているんだな』ということがいくらかわかるひととわからないひとでは、音楽の聴こえかたがまるでちがうはずだ」とふいに思った。あたしは音楽に関心がないし、超絶音痴だし、音が聴きわけられない。ギターと言ったらギターだし、ドラムと言ったらドラムだし、ピアノと言ったらピアノだ。ベースの音はいつも聴こえない。鳴っててもたいがい気づかない。おそろしいことに、ギターにはいっぱい種類があるらしいけれど、ちんぷんかんぷん。ヴァイオリンとチェロのちがいはたぶん一生わからないし、サックスとトランペットの何がちがうのかもたぶん一生わからない。シンセサイザーが何なのかよく考えればあたしは知らない。つまり、音楽が「わかっている」ひとにとって楽器は20個、30個も存在しているのに、音楽が「わかっていない」ひとにとって楽器は5個とか6個しか存在していないことになる。30個の楽器を使った音楽と5個の楽器を使った音楽はちがうはずなのだから、たとえ外面的には同じ音だとしても、「5個の楽器から成りたつ音楽世界」の住人のあたしの内面と「30個の楽器から成りたつ音楽世界」の住人の誰かの内面ではちがうふうに響くように思ってしまう。音楽はどこで鳴るのか。あたしは音楽はひとの内側で鳴るものだと思っている。そして、それは小説も同じだ。何か紙でできていて、文字が書かれていて、何かストーリーみたいなものがあっても、それが小説なわけではないと思う。小説はすでにあるものではなくて、ある瞬間に発生するものだと思う。何かを読んだときに、読んでいるひとのなかで何かの運動、あるいは現象が生じる。それを小説だと思う。正確に言えば、思おうとしてきた。小説には非存在的にしか存在できない、きわめて曖昧なものだ。小説は概念であって、現象であって、そして感情のことを言うんだと思う。あたしの愛と他者の愛を比べることが不可能なように、あたしの小説と他者の小説を比べることもできない。何故なら、小説はほんとうは非存在な存在だからだ。たぶん、あたしは非存在的なものを愛するふりをしながら存在を愛しているんだろう。そして、あたしは非存在的なものを愛するふりをすることによってのみ、存在を愛することができるんだろう。

   ◇◇◇

 渋谷シネマヴェーラで12月12日から「ヌーヴェルヴァーグの50年」ということで、ヌーヴェルヴァーグ特集が始まる。ぜんぶ、見たい! 12月12日(土)は友川カズキのLiveだけれど、その日は朝までバイトだけれど、ゴダール「男性・女性」、「アワーミュージック」は両方とも傑作だから、見にいきたいんだ。「アワーミュージック」はあたしが見ていちばんびっくりした映画かもしれない。びっくりしすぎて、初めて見た日の次の日も見たし、次の次の日も見たし、次の次の次の日も見た。「なんだこれは?」と思った。「この映画にはあたしが思うもっとも大事なものが実は描かれているんじゃないかな」と思った。スクリーンで見たことはないので、ぜったい、行きたい。




コメント
「5個の楽器から成りたつ音楽世界」の住人と
「30個の楽器から成りたつ音楽世界」の住人について

僕は、それほど音楽に詳しい人間ではないけれど、それでも多分
「15個の楽器から成り立つ音楽世界」くらいに住んでいて
「この音からは、80'sを感じるね!」などと調子にのっていると
嫁からは「そんな聴き方で、音楽たのしめてるの?」て言われます。

いくつの楽器を知っているか、よりも
「楽器って、なあに?おしゃれの為に持ってるの?手ぶらでも唄えるよ フフ~♪」
ていう方が、たのしいかもしれませんね。

でもでも!
Charaのニューアルバムを聴いて
Charaの叩くドラムが分かる僕は、うれしい。

きっとそれは音楽知識じゃなくって、僕がCharaを好きだからです。
違いが分からない内は、まだそんなに好きじゃないのかも知れない。
ほんとうは誰も、誰にも似ていない。
Charaのドラムには特徴がある。あれ、ヘタなのかな。
いや!ヘタとかじゃなくって、かわいい。
Charaのドラム、かわいいよ。
【2009/12/11 11:35】 | 鈴木陽一レモン #EBUSheBA | [edit]
はっはっはっ。同じことをジャンルを変えて書いているだけですよ。ぬぬーん。

> いくつの楽器を知っているか、よりも
> 「楽器って、なあに?おしゃれの為に持ってるの?手ぶらでも唄えるよ フフ~♪」
> ていう方が、たのしいかもしれませんね。

もちろん、それはそうなんですよね。
小説でも、ずっと小説を読んでいれば「あ、このひとのこれは村上春樹からの影響だな!」とか「これはブコウスキーだよねっ!」とかわかるようになってくるわけです。そして、わかるようになったあと、もう僕たちはその小説を「わからなかったとき」のように読めはしないんです。何かを得たとき、何かを得なかったということを失うということだと思います。保坂和志というひとは「小説のテクニックというのは書いてれば自然に身についてしまうのだから、身につけないようにするほうがいいのだ」というようなことを言っていたし、萩原朔太郎という変態は「文明は決して進歩しない。柱のようにそれぞれの時代にそれぞれの文明が立っているだけで、進化があるのではなく、変化があるだけだ」と言っていました。

> きっとそれは音楽知識じゃなくって、僕がCharaを好きだからです。

知識というのは言語化するための媒介としてしか存在できないんじゃないか、ということかもしれませんね。つまり、音がわかってたり80年代の音楽をわかっていたりするば、「この音からは80'sを感じるね!」ということを「言える」わけです。でもそれはそれが「言える」というだけの問題で、「言える」という以前の純粋に聞くという段階ではたいしたちがいはないかもしれません。

Charaかわいい。
【2009/12/14 15:41】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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