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友川カズキ主演映画「花々の過失」公開記念ライブ@STAR PINE'S CAFE

2009.12.13(15:43)

美と共同体と東大闘争 (角川文庫)美と共同体と東大闘争 (角川文庫)
(2000/07)
三島 由紀夫東大全共闘

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 一つの物質的な対象性というものがあって、たまたまそれが人間の肉体をとっているからといって、それを特権視する必要はないと。実際に市街戦をやればわかるけれども、石だとかゲバ棒だとかそういうものがなければ、やっぱりどうにも闘いにならない。そういったところにも、ぼくたちがいわば人間対人間の関係だけで考えている限り、どうしても展がりをつかむことができない自然というものがあると思う。だもんで、これを何か闘争至上主義的に考えていたならば、いつまでたっても自然に達せずに、つまり生産行為に達せずに、結局は政治的な極左主義のディメンジョンで終わってしまう。そうでなくて、われわれは実際に自然全体を支配したい。
              ――「美と共同体と東大闘争」より


 ほとんど眠らずにシネマヴェーラに行きゴダール「男性・女性」と「アワーミュージック」を見た。「ゴダールだから眠くなるに決まっていて、うとうとしながら見ていればいいよねっ」と思いながら行ったのだけれど、何故だか、目がさえてさえて、まったく眠ることができなかった。
「男性・女性」は、ぜったいただのエンターテインメント映画だと思う。おもしろいと思う。ものすごく、おもしろいと思う。それにしても、シャンタル・ゴヤとほんの少しだけでてくるブリジット・バルドーがほんとうにかわいい。びっくりしたのが、パリの市内の街並みは40年経ってもぜんぜん変わっていないということだった。地下鉄の構内までもそのままだ。
「アワーミュージック」はもう何回も見ているのだけれど、初めて映画館で見て、実は、びっくりした。ぜんぜん、ちがう。まず音がちがった。こんなタイトルなのにうっかりぜんぜん注目していなかったけれど、これは音楽の映画だった。少なくとも音が最後の「天国編」に「やさしさ」をあたえていると思った。ゴダールの音楽の使いかたは独特で、いちばん盛りあがるところで急に停止してしまう。その気持ちわるさと音のたんじゅんなきれいさがあいまって、ぐでんぐでんに酔っぱらってしまう。さらに、この映画ではゴダールは映像を執拗に美しく撮っていると思う。「煉獄編」の最後、ゴダールがいじっている花はあたしが見たなかでいちばんきれいな花の映像だと思う。そこでなされる会話はつまり「オルガが射殺されました。バッグから本をとりだそうとしたところで、狙撃兵に撃たれました」というものだけれど、その事実と事実への無関心性があいまって、花の映像がいっそう美しく見える。花が事実の語りを美しく彩るのか、事実の語りが花を美しく彩るのか。くさい! あたしがくさいんだけれど、ゴダールがいまくさい! 
「事実」に関してだけれど、おそらく多くのひとは「事実」が「現実」だと思っているんだと思う。事実は現実ではない。もっと言えば、事実を書いたとしても、それが現実になるわけではないということだと思う。「事実」とは「伝聞」だ。そして、「伝聞」が現実になるかならないかは、そのあとの問題にすぎない。「アワーミュージック」のなかで語られることだけれど、たとえばホメロスは一般的に言えば歴史上最高の詩人ということになる。でも、彼は盲目だった。いかに戦争のことを書いても、彼は何も見ていなかったし、聞いたことを書いただけだ。それでも、彼は書くことができた。問題は「事実」や「伝聞」なんてものをもらったときに、それをどう現実化していくことだと思う。
 オルガが狙撃兵に撃たれたのも事実だけれど、それは、少なくともゴダールにとっての現実ではなかったと思う。この映画ではオルガの起こした事件の詳細はほとんど語られないし、オルガがテロを起こした背景もわからない。歴史的なこともわからない。パレスチナ問題にしろ、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にしろ、あるいは日本の政治についても、「知識がないからわからない」と言うけれど、あたしは、「知識がついてもけっきょくはわからない」と思っている(だから知識がいらない、と言いたいわけじゃない)。「アワーミュージック」の舞台はサラエヴォだけれど、サラエヴォが何が起きたのかあたしは知らない。知らないし、そして「歴史的に」「正しく」そこで何が起きていたのか知っていても、けっきょく、何もわからないんだと思う。だから、「何かをわかること」や「何かをわかったと思うこと」と「何かについて知ること」はぜんぜんちがうことだ。ぜんぜんちがう。三島由紀夫と東大全共闘の公開討論を収録した「美と共同体と東大闘争」を昨日電車のなかでもくもくと読んだ。真っ先に思ったことは「全共闘のひとたちは自分たちが何をしているのかほんとうのところはわかっていなかったんじゃないだろうかな」ということだった。だって、言っていることがまったく理解できない。闘争というひどく実際的な行為の背景にこの手の言葉が(たぶん)大真面目にあった、という事実にあたしはとてもびっくりした。「自分たちがやっていることがわからない」ということについて、たんじゅんにばかだと言うことはできないと思う。あたしはほぼすべてのひとが自分の行動についての絶対的な認識を持つことはできないと思っているし、できなくていいと思っている。問題は「わからないという状況下のなかでどう考え、行動していくか」ということでしかない。この手の方法についてあたしは(やる気がないので)積極的な考えは持たない。考えたいひとが考えればいい。ただ、「わからない」というのは「わかる」ということよりもほんのすこしましだ、ということは思う。「わかる」というのは論理的な問題にすぎないと思う。論理というのはひとつの正義だし、正義はいつもほかの正義とぶつかってしまう。「わかる」という思考がまったくの自己正当化にならないためにどうしたらいいのか、あたしにはわからないままだ。保坂和志の言動を見ると「反権力はひとつの権力にすぎない」ということを思う。保坂和志の論理というのは非論理なんだけど、「非論理が何故有効か」ということをある程度説明できてしまうように見えるし、彼はそれを積極的に説明しているように思う。問題はたぶん「ある程度説明できてしまう」というところだし、もっと深い問題は「ある程度説明できてしまうもの」ではないとほとんどどこにも「届かない」ということだと思う。
 ゴダールの説明は論理性を欠いているように見える。「アワーミュージック」のなかで、ゴダールは学生にたいしての映画の講義をした。ラファエロなどの立派な絵でなく、粗野で稚拙な絵をマリア様だと言った女の子の話。エルシノア城を「ハムレットが住んでいたという事実だけで立派だ」と言った物理学者の話。そして「フィクションのユダヤ人とドキュメンタリーのパレスチナ人」。「地獄編」では戦争、闘争の映像のモンタージュがえんえんと流れる。それは実際の映像もあれば、映画の映像もある。だけれど、少なくともあたしには「実際の映像」と「映画の映像」をはっきり区別することはできない。ブレッソン「罪の天使たち」のワンシーンが流れればあたしはそれを見たばかりなので「あ、罪の天使たちだ」とわかるけれど、それ以外はほとんど全部あやしい。映像とはそういうものだ。ただたんじゅんに見たときそれが実際の映像なのか映画の映像なのかわからないのならば、フィクションとドキュメンタリーは一般に言われている虚構と現実という区分けで考えるべきではないと思う。あたしは書いたものが現実だと思っている。書いたときに立ちあらわれるものが現実だと思っている。ゴダールを好きなのは、彼が一貫してあたしたちに「ものを見せる」ということにこだわっているからだ。
「美と共同体と東大闘争」(角川文庫)にこういう文章が書いてある。

全共闘C 何だよ、フーテンとは。バカヤロー!
全共闘E フーテンだって言ったじゃないか。
     (会場 自分で言ったじゃないか!)
全共闘C 自分で言った? 俺が言うのとてめえが言うのと別だろう。
全共闘E どうして別だよ。言葉を拒否するのかよ。
全共闘C 違うよ。
全共闘E 何だよ、じゃあ。何でおれが言うのと君が言うのと違うの、それを説明しろ。
全共闘C 俺の言ったことがわからないで、なんでおまえそんなことを言う権利がある。
     (会場 そんなくだらないことを見に来たんじゃないよ!)
全共闘C・F それはあとでやろう。


 これを読んであたしが思ったのは「ここだけ読んだら戯曲と見分けがつかない」ということだった。そしてあたしは見たままを信じようとがんばっているので、かりにこの部分を戯曲だと感じてしまったのなら、あたしは「全共闘たちはつまり討論ではなく芝居をしていたんだな」と思う。ものごとというのは意外にたんじゅんだけれど、そのたんじゅんさはわりにふくざつだ。時代性もあると思う。この議論は1969年に行われたもので、あたしはこの16年後に生まれた。そのあたしがいまこれを読んだとき、「なんだこれ、戯曲じゃん」と思ったなら、おそらく、当時を再現すればそれは「芝居」になるということじゃないんだろうか。ホメロスは盲目だった。ホメロスは伝聞で詩を書いたということらしいけれど、じゃあ、ホメロスが書いたのはほんとうに詩だったんだろうか。そして、ゴダールの撮った「アワーミュージック」という映像は、いったい何だったんだろうか。

   ◇◇◇

 というわけで吉祥寺まで行き、イマムラさんと合流してSTAR PINE'S CAFEまで友川カズキのLIVEに行った。イマムラさんはあの場にいたなかでもっとも友川カズキについて知らないひとに決まっていたけれど、イマムラさんは友川カズキを知らないひとという役割を見事に演じきり、あたしのとなりでカレーを食べながら眠っていた。あたしはカレーを食べながら寝ているひとを初めて見た。彼は冬なのにハーフパンツで「寒い…」と言っていた。
 友川カズキさんはトークがおもしろすぎてこまった。「世界中に不幸の雨が降ればいいと思っております」とか「10月だけで日本では3000人ほど自殺しています。次はみなさんの番です。私はみなさんに自殺をお薦めします」とか「西村賢太の文庫本の解説を書きました。でも、彼には一生会いたくありません」とか言ってた。歌に関しては「生きてるって言ってみろ」みたいなものをべつにすれば、ドラム、ピアノ、チェロの入ったはでなもののほうがやっぱり好きだと思う。「ピストル」(全部絶叫すごい)、あとなんか知らない曲、そして最後の派手なアレンジの「坊や」あたりが死ぬほどかっこうよかった。友川カズキさんももちろん激しくかっこうよくて(首をふりまくって歌うので、まねをすると鞭うちになるらしい)、でも、それだけじゃなくて石塚さんのドラムも激しくがしんがしんとたたかれていてかっこうよく、今度生まれかわるときはドラムになりたいと思った。それにしても、60歳になってもあんなにかっこういいんだから、にんげんてすごいなあと思った。「夢か幻かという感じだった」。LIVEが終わったあと、イマムラさんがそう言った。なんのメタファでもない。
 そのあと、すこしだけ飲んだ。だいたい全部覚えていないけれど、ついったの話と、東浩紀の話と、ゲームの話と、出版・流通関係の話、なんてしたっけかな。いろいろ思うことはあったけれど、もうゴダールについて書きすぎたので、めんどうくさくて書かない。
 でも、ふたつだけ。あたしがイマムラさんに「イマムラさんにサイレント映画は必要ない」と言ったのはイマムラさんの問題ではなく、あたしの問題だった。サイレント映画はあたしも五つ、六つくらいしか見ていないのでぜんぜん知らないのだけれど、サイレント映画を見ていて「ぬーん」と思うのは、そこから抽出できる要素がモノクロの美しさ、台詞基本的に必要としないための演技性等々ばかりで、つまりそんなものに関心を持って見ているひとはいったい何なのかということだった。たとえばそれについて「サイレント時代の役者たちだけが本当に本質的な意味での演技をしていた」とか、「サイレントの役者たちは台詞が聞こえないという前提での演技をしていた。そしてそれは舞台上の演技とも、トーキーとの演技とも根源的な性質がちがうものだ」とか、「ゴダールは『サイレントからトーキーになって変わったことは、三つの映像が二つに減ったということだけのことです』と言っていたけれど、あれはつまり…」とか、いろいろ言うことはある。あるはずだけれど、たぶん、それは、「実作者」や「抽出しようとしないひと」にとってはおそらくとっても楽しいことだけれど、それ以外のひとにどう作用するんだろうと思う。たぶん、そういう意味での強度は文学、映画、音楽の順で強くなっていくものだと思う。
 それとあたしは「『1Q84』が売れても何にもならなかった」と言った。イマムラさんは「『1Q84』は売れてどうにかなる本じゃないでしょ」と言った。あたしもそうだと思う。思うけれど、あたしが思ったのは、たぶん、本の流通ということに関する根源的な疑問だった。つまり、何かかりに社会的・政治的・生活的でありかつ実際的なものすごい本があって、その本がかりに1億3000万部売れたとする。かりにそういうことになっても、けっきょく、日本は国は何にも変わらないんじゃないかなということを最近思っている。なんとなくだけれど。「流通」が何をもたらすのかについては知らない。そもそも、「変わること」、「革命すること」とはいったい何なんだろう。二葉亭四迷が言文一致体の小説を書いた。萩原朔太郎が口語自由詩を書いた。それははっきりとした「変化」だったかもしれない。その変化は何だったんだろう。それは外面的な変化としては極小世界の小さなできごとだろう。そして、たとえばそのスケールが1000万倍になったとして、いったい何か意味があるんだろうか。あたしは以前「日本では一日に何千万人のひとが同じテレビ番組を見ている。それでもイスラエルはパレスチナ人を殺すし、介護をしているひとは介護をされているひとの首を絞めて殺す」と書いた。とてもすごいことが行われているはずなのに、たかがひとつの殺人をとめることができない。ひとつの殺人のとなりにもうひとつの殺人がある。そしてその殺人同士は必ずしも関係できていない。
 ひとり殺せば殺人、数百万人殺せば英雄、全滅させれば天使だ。
 そういう言葉がある。それは、ひとはたったひとりと関係するときにしかまともにふるまうことができないという意味だと思う。




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