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詩的革命

2009.12.14(20:26)

 基礎科学と応用科学というものがある。基礎科学というものが物事の本質を科学するものにたいして、応用科学は基礎科学を使ってどう現実に役立てるかを科学している(という理解でだいたいあっているはずだけれど、わたしはよく知らない)。「宇宙の法則がうんぬん」ということに関して「それがいったい何の役にたつのか?」という質問は一般的に言って的がずれている。分野がちがうからだ。字面からして、基礎の難しい場合が応用か、と思うかもしれないけれど、たぶんちがう。基礎物理学の難しい版が応用物理学だというわけではないし、どちらがすぐれていて、どちらが劣っているか、というものではない。
 という話はどうでもいいのだけれど、つまり、「言葉」を基礎科学と位置づけて「行為」を応用科学と位置づければ、ずいぶんいろんなものごとがはっきりするんじゃないかということをさっき思った。
 ゴダール「アワーミュージック」は「言葉」と「行為」の映画だと思っている。それは、「言葉」と「暴力」という問題とたぶんほとんど等しい。法治国家は暴力を認めている社会だと思う。国家は国民を拉致・監禁・死刑することによって秩序を保っている。そして国家にその暴力を保証しているのは、法律という「言葉」だ。そういう状況下にあるなかで、どうわたしたちは言葉と向きあっていくんだろうか。
 ということはめんどうくさいのでとくに考えはしない。わたしが思うのは、ひとはどうしたらふたり以上のひとに同時に話しかけることができるんだということだ。そして、どうしたらひとりのひとに話しかけることができるのかということだ。

   ◇◇◇

「美と共同体と東大闘争」を読んでいていちばん衝撃を受けたのが、全共闘のひとのあらゆる言葉が「暴力・行為への肯定のための言葉」のように見えてしまうことだ。彼らは文学・思想・哲学にとても詳しい。

 しかし行為に於いては、むしろ「弁証法の不快」、この事が問題にされねばならぬ。歴史とは時間の人間の共生などではないからだ。歴史と場所と人間なのだ。恐るべきことだが事実である。しかも人類がいるいないにもかかわらず、同じ場所とは二度とない。裸の人間と裸の場所の厳しいぶつかりあいの中からロゴスが生れた。そのすさまじい闘いが人類の存在だ。あったのではなくそのbattleの苦しみから逃れるための最初の文明だ。破防法即ち最初の虚構。当然現実とは出会いの連続である。休みなき出会い。出会いとは場所と人間との直面する瞬間に訪れる空間であり、その空間の現前化が芸術であるのだから、それは曲ではないし、文明ではない。文化する事でなく、芸術も又出会いとの闘争による獲得でなければならぬ。断じて虚構ではない。弓矢でマンモスを射とめるように、言葉で事物を射とめなければなるまい。暗いのは文明であって人間ではなく、まぶしいのは太陽ではなくピラミッドであり、ラスコーの野獣であり、マジェランの船どもだ。時間無き歴史は空間となって渦まき我々に事物の沈黙をもってせまる。無時性の砂漠。意識の天動説。既に我々には場所と人間の裸の対面の戦争のさなかでwhatは許されない。瞬間。howの一事。whatと叫ぶ者は文明に埋没し、果され得ぬ革命のイマージュだけを抱いて労働に従事せねばならんだろう。政治が必要なのはこの種の人間達だけである。

 後半になればなるにつれ、意味がわからなくなってくる文章だと思う。これはまだずいぶんまともな時点で書きやめてしまっているけれど、あとのほうはもっとすごい。何かの比喩のような詩的な名詞の羅列が続き、もうじゅうぶんにわけがわからないのに、さらにわけがわからなくなっていく。この文章は詩を模倣しているように見える。だけれど、奇妙なのは、後半、詩を模倣すればするほど「文章がへた」になっていくように見えてしまう点だと思う。どうしてへたに見えてしまうんだろう。たぶん、それは、詩を模倣しながら詩と対極の位置に行こうとしているからだと思う。
 詩は、たぶん、ちがうのかもしれないけれどたぶん、もっとも暴力を背景としない言葉だ。暴力は言語を背景とする。そしてそれと同じように、言語も暴力を背景としてしまう。わたしは基本的に行為が苦手だ。言葉も苦手なのだけれど、行為はもっともっと、ずっと苦手だ。行為は好きじゃない。だけれどせっかく好きになるのならば、詩としての言語を背景とした行為を好きになりたい。
 革命を起こすのなら、詩を背景にしてほしい。詩を背景にしないと起こせないのなら、起きなくても、わたしはかまわない。




コメント
暴力を完全に否定したら「百億の昼と千億の夜」や「マトリックス」の培養槽社会になるような気がします。いや、別に暴力革命万歳!という意味じゃありませんけど。
言葉は「理屈」で、詩は「感情」ではないでしょうか。「理屈」を背景にした言葉は「最大多数」の幸福を導き出せても、「目の前で困っている人」に臨機応変な手助けを行うのは不得意だと思います。それをやるのは「感情」の仕事でしょう。
・・・と偉そうなことを書いてみました!
【2009/12/18 17:18】 | 上田洋一 #- | [edit]
> 暴力を完全に否定したら「百億の昼と千億の夜」や「マトリックス」の培養槽社会になるような気がします。いや、別に暴力革命万歳!という意味じゃありませんけど。

誰かは僕に「ぜんぜんなんもわかっちゃいなくせにえらそうなことを書いているひとなんばーわんだ!」とか言ってくれればいいのにと思うのですけれど、それはともかく、上の文は「百億~」と「マトリックス」に関しての知識がないため、何も言えません。
いつものことですけれども、暴力の定義がないのもいけません。あと、僕は暴力を完全に否定するつもりはないです。

> 言葉は「理屈」で、詩は「感情」ではないでしょうか。

この部分に僕は同意するような同意しないような、という感じなのですけれども、

>「理屈」を背景にした言葉は「最大多数」の幸福を導き出せても、「目の前で困っている人」に臨機応変な手助けを行うのは不得意だと思います。それをやるのは「感情」の仕事でしょう。

ここは僕もそう思っていますよ。
感情がたりないひとはどうすればいいんだ、とも思いますけれど。
【2009/12/19 10:01】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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