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からっぽ

2009.12.19(12:31)

大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)
(2009/02)
高橋 源一郎

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 16時間眠りました。あと4時間眠れば、なまけものに近づく。なまけものはあまりに動かなすぎるせいで、身体に苔が生えるらしい。なまけものかわいい。あたしの身体に苔が生えてきたら、こっそり教えてほしい。
 へんな時間に眠ったり起きたりすると、あらゆることがわからなくなる。食事の回数も(多すぎるのか、少なすぎるのか)、いつお風呂に入るのがいいのか(多すぎるのか、少なすぎるのか)、そして今日、あたしは何時に眠ればいいんだろう。
 おでんが美味しい。買ってきておなべのなかに入れておくだけでできあがるなんて、なんて頼もしい料理だろう。ひとり暮らしを始めるときにたいていの男の子ははりきって料理を始め、たいてい、ハンバーグをつくる。ずっと前、YNと「どうして自分でつくるハンバーグってあんなにまずいんだろう」という話をしたことがある。「ハンバーグって、こねるときに味をつけなくちゃいけないらしいよ」と彼は言った。「そうなんだ」とあたしは言った。だからあたしのつくるあらゆる食べものには味がないのかとあたしは思った。料理をするときに「味つけ」をしなくちゃいけないなんて、知らなかったよ。放っておいてもできる食べものしか、あたしはひとりでは食べない。

   ◇◇◇

 高橋源一郎「大人にはわからない日本文学史」がおうちに届いたので、ぱらぱらめくっていたら、気分がわるくなった。
 そこで、「ハレグゥ」9巻10巻を読んだ。完結してしまった。おもしろかった。グプタがかわいい。グゥがかわいい。
 カラスヤサトシ「カラスヤサトシのでかけモン」と「萌道」を読んだ。
「でかけモン」はカラスヤサトシが行っても何もおもしろくなさそうな街にあえて行くというお話。カラスヤサトシの漫画は基本的にそうだけれど、行っても何もおもしろくなさそうな場所に行き、描いても何もおもしろくなさそうなことを描くという驚異的な漫画だった。そういうことをやればどうなるかというと、もちろんまったくちっともぜんぜんおもしろくない漫画ができあがるに決まっている。でも、その圧倒的なつまらなさがものすごくて、結果的にそこそこおもしろい。いちばんびっくりしたのが、あたしの地元の町におもいきり来ていること。どこで何をやっているのかほとんどわかって、(つまらないけれども)おもしろかった。
「萌道」はいちおう、メイド喫茶など基本的におもしろいところに行ってくれるので、「でかけモン」よりはだいぶおもしろかった。でもカラスヤサトシはスポットよりこのひとのほうがおもしろい。「俺のおしゃれセンスをそのまま信用するのならば、俺は忍者の格好をして街を歩く。何故なら、世界一かっこういいからだ」とかさもあたりまえのように書かれている。カラスヤサトシほんとうにかっこういい。
 高橋源一郎「大人にはわからない文学史」をぱらぱらめくっていて衝撃を受けたのは、綿矢りさをべったんべったんに褒めていることだった。あたしが今「このひとは天才なんじゃないだろうか」と思っているのは、綿矢りさととある女子高生のひとだけで、それはひとつには「若い」ということが挙げられて、もうひとつ「いったい何から影響を受けてそういうことになっているのかちっともわからない」ということも挙げられると思う。天才ということにそれはど興味がないし、意味はないと思っている。あたしは三角みづ紀さんも安川奈緒さんも天才だとはちっとも思わないし、村上春樹も高橋源一郎も天才だとは思わない。太宰治も、サリンジャーも、萩原朔太郎も、天才だとは思えない。ランボー、尾形亀之助、小島信夫あたりは天才かもしれないと思うけれど、もう死んでいるひとにそんなことを言ってもしようがないし、おっさんに興味はない。
 けっきょくのところ、あたしが綿矢りさを好きなのは、綿矢りさを好きになることによって何かをわかろうとしているだけじゃないのかな、と思った。綿矢りさを天才として扱うことは、綿矢りさを特別な場所におき、その行為によって「わたし」というものを変形させようとしているだけじゃないんだろうかなとも思った。それは、そうかもしれない。でも、あたしは今それにたいする手立てを見つけられないでいる。
 綿矢りさが書いた文章でもっとも衝撃を受けたところは「蹴りたい背中」でハツがにな川から顔につばをひっかけられ、ハツが目をつぶり、にな川が指でその上からぐいっとつばをぬぐうシーン、それと、「You can keep it.」でボールが飛んできて女の子の頭にあたるシーンだと思う。彼女の文章には肉体があって、肉がついている。どんなシーンも全部いやらしい。それは「性」をテーマにしているとか、性描写があるとか、そういう問題ではないはずなのに、とことんいやらしいと思う。「綿矢りさはどうしてこんなにえろいんだろうなあ。すごいよなあ」とあたしは3年ぐらいぼんやり考えつづけて生きてきたんだけれど、それは、わりとたんじゅんな問題だったのかもしれない。

 ここでは人間の五感がフルに使われています。見る、聞く、感じる、そのすべてが動員されて、「私」は世界の広がりを感じようとしています。

「大人にはわからない日本文学史」のなかで、高橋源一郎は綿矢りさ「インストール」で主人公の「私」がゴミ捨て場に横たわるシーンを引用して、こう語っている。あらためて言われると、ぐさりと刺さる。たんじゅんなようだけれど、少なくとも、たとえば綿矢りさのこの感覚は小説では意外に描かれていない。太宰治も描いていない。高橋源一郎も、村上春樹も、描いていない。金井美恵子の初期の作品にはたくさんの官能が描かれるけれど、それは「幻想」という衣をまとってしまう。「狭い」と言われて批判された綿矢りさの文章は、言葉を使って自分の肉体をそこに接している空気のようなものと格闘させ、ほんの少しずつ外界向けてぐいぐい押してような運動がある。続けて、高橋源一郎はこう書いた。

 おそらく男子高生は、こうやって体全体を、五感を使って世界の中にいる自分の位置を確かめようとする気分にはならないでしょう。もしそこに繊細な男子高生がいるなら、彼は、おそらく部屋に入り、パソコンを開き、その中に潜む暗くて広い世界に身を投ずるような気がします。

 あたしは「今男の子はまともなものを書くことができない」と何度か書いているし、わりあい、本気でそう思っている。「今女の子が普通に小説を書いておもしろくないはずがない」とあたしは何度か言っている。青山七恵の「窓の灯り」はおもしろかった。それは、たぶん彼女が綿矢りさを踏襲しているからだと思う。青山七恵の「窓の灯り」にはたとえばにおいの描写がふんだんにでてきていたし、憧れている女性の太ももを油で揚げるなど、肉体の感覚をだそうとしていた。それは有効に働いていて、とても楽しいと思う。一見すかすかに見える文章のなかで、まるで格闘のように小さな官能を少しずつこめていく。でも、もうそういう書きかたはできないかもしれない。綿矢りさの感覚が尋常じゃないからだ。
「スロウロウライフライブ」というブログを書いていた彼女の文章は、ときどき、グロテスクな方面に向かう。なのに、それが(少なくともあたしにとって)グロテスクな印象に究極的に向かないのは、たいていの場合、あとで彼女がそれを放棄してしまうからだと思う。

眠くて惰性で三十分くらい歯みがきをし続けたら歯茎からだらだら血が出てとても吃驚した、のはもう既に六日前のことでしかし痛みは未だに持続し歯みがきをするたびにやはり血がだらだら出て、吐き出した歯みがき粉の色が白ではなく赤で、それはなかなか見た目的に楽しく美しく、かつ、血が出ている歯茎を固めの歯ブラシでみがいてやることによって得られる、鈍痛の中に幾ばくかの小さな鋭痛が放し飼いにされている類の痛みは、実はなかなかに快感であるので別にもう治らなくてもいいかな。自分でやるから調整もできるし、「歯みがき痛い!」ていうのはなかなかに楽しい。
そんなわけで最近の趣味は歯みがきです。おはよう。


「そんなわけで最近の趣味は歯みがきです。おはよう。」という文章を、綿矢りさならおそらくは書かないだろうと思う。 綿矢りさの文章が本質的に下へ下へ向かっていくのにたいして、彼女の文章はグロテスクな言葉に反して上へ上へ向かっていく。それはおそらく三角みづ紀さんの書きかただと思う。たとえば「繁殖したいあなたの話」という文章は三角みづ紀さんの影響が特に色濃いと思う。彼女も、三角さんも、表面ではグロテスクな言葉をちりばめているけれど、それは、グロテスクな言葉という殻をまとった精神的な摩擦のように見える。どんな臓器もどんな出血も、実は、彼女たちの文章の本質ではないように見える。だから、彼女の文章も、三角みづ紀さんの文章も、少なくとも、綿矢りさの文章ほどには肉体が発生していないようにあたしには見える。綿矢りさの文章に発生する肉体的なきしみがないぶん、彼女の文章は実は明確な希望に向かうことを許している。けっきょくのところ、それは「そんなわけで最近の趣味は歯みがきです。おはよう。」という一文だったり、ほぼ意味をなさないくりかえし、そして擬音、言葉遊び(つまりたんじゅんなかわいさ)だったりするように見える。綿矢りさが肉体とそのまわりの空気のようなものとの格闘を通して落ちていくための文章ならば、彼女の文章はそういうことを目指していないように見える。綿矢りさがその文章において緩慢に死につづけているならば、たぶん、彼女の文章はいっかいいっかいで即死している。綿矢りさの緩慢な死も(肉体があるから、彼女は緩慢に死ぬことができる)、太宰治の思想をまとった死も、彼女の即物的な死も、どれも実はきれいだと思うのだけれども。
「八帖帳の犬」のひとはもっとずっと肉体から遠く離れているせいで、死ぬことすらできないように見える。彼女の日記の背後には巨大な物語が横たわっていて、ほかのひとのように、文章が死ぬことができない。

 終電は過ぎたはずなので、踏切から入り込んでちょっとだけ線路を歩いた。真っ暗だった。以前ともだちが、「線路を走ったら電車みたいなきもちになったよ」と言っていた。危ないよ、と言った。電車みたいなきもちなんかあるはずないよな、って思って、それは線路に騙されてるんだよ、って言った。「悪い線路だ」って言って二人で笑ったけれどなんの話をしていたのだか。線路を歩いたらあんまり真っ暗で悲しくなって電車にはライトがあるはずだもんって思ってすぐ引き返した。洞窟になりたい。内側に大きな湖があって、それは冷たくて、大きな魚が住んでいる。体の真ん中を風が塊になって出入りしていて、つるつるの鍾乳石が垂れていて。洞窟になりたいなあ。線路を出たらまっすぐ家に帰った。夏休みの深夜徘徊はとてもポピュラーな行為らしいから、見かけるコンビニの前にはかならず人が溜まっていて、スープが買えなくて、家に帰ってスープを作った。単調な味のスープだった。取り込み忘れた洗濯物がベランダで死んでいた。

 この日記は小説のような連続性を保っているように見える。どう書いても即物的になれないで、あらゆる文章がその文章の背後にいる「作者」に連結されてしまう(だから、彼女の書く文章にはほぼ実質的にジャンルがない)。たぶん、彼女の文章には本当の意味では肉体はない。あると言えばあるのかもしれない。でもその肉体は彼女が「洞窟になりたい」と言ったときにほんとうに洞窟として立ちあらわれてくる肉体だ。彼女は理論をおそらくは知ってすらいない。ここには「感覚」しか描かれていない。「真っ暗だった。」と書いたあとで「線路を歩いたらあんまり真っ暗で悲しくなって電車にはライトがあるはずだもんって思ってすぐ引き返した。」と書き、その直後に「洞窟になりたい。」と来る。だから彼女の文章はほとんど意味がない。

 どうでもいい話ばかりして、通り雨をやりすごして、ファストフード店を出た。どこからどう見てもギターしか売っていないのに看板が眼鏡屋の店を見つけた。眼鏡のフレームとレンズの値段を書いた紙が貼られていたけど、ショーウィンドウにはギターが何本も突っ込まれているだけだった。店の中にもギターが散乱していて、ギターの一斉射撃にあった戦場みたいだった。店主はいなかった。メトロノームがレジ台に乗っていた。私がぼろぼろ(に見える)ギターを見ているあいだ、先輩は丁寧に眼鏡を探していて、奥の方に眼鏡が十数個まとめて置いてあるのを見つけた。それで、「ああ眼鏡屋だね」って二人で安心して店を出た。

 彼女はギターをギターと描き、眼鏡を眼鏡と描く。ギターを売っている店なのか、眼鏡を売っている店なのか、彼女は(少なくとも文章の見せる範囲では)まるで問題にしていない。「ギターを売っている店か眼鏡を売っている店かという問題で立ちどまることが小説だ」と思っているひとがほとんどだと思うけれど、彼女はそんなことをおかまいなしに駆けぬけていく。店の奥にまとめて置いてあるのが眼鏡ではなくてギターだとしても、彼女たちは「ギター屋さんだね」と言ってでていってしまうように見える。サリンジャーの文章の特徴は「文章じたいにやさしさが宿っている」ということだと思うけれど、今の日本でそれをうまく継承しているのは、(特に初期の)村上春樹、舞城王太郎、そして、彼女だと思う。「生きる」ということについて彼女はとてもすなおに描きだしている。

 問題はあたしがどうするかということだ。あたしが彼女たちの文章を好きだと思うのは、おそらく、そこに文章を書く上での何か根本的な必然性のようなものがあるように見えるからだと思う。あたしには何もない。何もないというのは、つまり、あたしは本当には綿矢りさを好きではないということだと思った。書くことがなくなった。
 それは、からっぽから始めろということだろうか。もう一度からっぽから。からっぽ。




コメント
一人暮らしを始めると「ハンバーグを作る」ですか!わたしは焼き飯で挫折したような気がします。で、作ったのは「おか玉チャーハン」。「セイシュンの食卓」ですよ!でも、「セイシュンの食卓」ってもう絶版ですかね。
【2009/12/24 16:49】 | 上田洋一 #- | [edit]
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