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長いというだけで価値を持たなくなった日記という残骸の象徴

2009.12.25(17:26)

木乃伊の口紅・破壊する前 (講談社文芸文庫)木乃伊の口紅・破壊する前 (講談社文芸文庫)
(1994/06)
田村 俊子

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12月22日

 この日はいちおう学校の最終日だった。とどこおりなく、未熟くんとOさんのゼミ発表が終わって、あとは飲み会の時間までぶらぶらしている、はずだったけれども、よく考えればあたしの研究室が今年謝恩会(卒業式後に行われるパーティ的なもの)の幹事なので、その準備をしなくてはいけない。「魚民でやればいいんじゃないないの」とか言っている場合ではいいかげんなくなってきていた。なぜなら、本来なら10月11月から準備を始めていなくてはいけないのに、あたしたちはまだなーんにもしていないからだった。とりあえず、方々の事務の先生に話を聞きにいったけれど、誰も段取りについて知らない。しかたないので、前回幹事をやった研究室に行って話を聞いて、とりあえず会場をおさえなくてはいけないらしいことがわかり、某ホテルというか結婚場みたいなところにメールを投げた。やる気ない。すんすん。
 近くの居酒屋で飲み会。忘年会。今年はほとんどなんにもやっていないので、たいへんにあれなのだけれど、楽しかった。赤城山のにごり酒というものを初めて飲んだ。真っ白でいてべったべたに濃くて強烈な味がして、たいへんにおいしかったような気もしたけれど、強烈なので危険なような気もした。2100円の鍋コースを注文したけれど、料理がたくさん来た。火力が弱くて鍋ぜんぜん煮たたないうちに運ばれてくるたくさんの料理の前で、あたしたちは唖然としていた。だいたいおなかいっぱいになったところで、メニューにない「ふつうのごはんっていただけますか?」と言ったところ、サービスしてくれたのでおじやにして食べた。おじやおいしい。だいたいおじやにしたところで「焼きおにぎりです」と焼きおにぎりが運ばれてきた。ファイヤーレッドとかスノーホワイトとかポケモンみたいな名前のついたZIMAがあったので、頼んだ。ファイヤーレッドは赤い。スノーホワイトは青い。未熟くんに「これはなんだろう」と訊いたら「赤色一号だよ」と答えた。飲んだ感じでは、ZIMAをおいしくなくしたような味だった。ZIMAにいちごシロップやブルーハワイをまぜたような味だった。

12月23日

 朝から車をぶんぶん運転して、アパートから実家近くの駅まで行き、そのまま電車に乗って六本木まで行った。森美術館「医学と芸術展」を見た。これはとってもよかった。松井冬子ももちろんいい。だけれど、いいものがたくさんあった。デミアン・ハースト「外科手術」の白がとてもきれいで、ずっと見ていた。これは絵なのだけれど、とても近くで見ていたカップルが「これ絵?」、「ちがうちがう。写真だよ」と言って去っていったくらいの精巧さで描かれている。精巧に描く技術はたんじゅんにすごいと思うけれど、この絵はそれだけじゃなくて、たとえば眼鏡の歪み具合のひとつ、あとなんといっても手術台の光の白、白、白がきれい! パトリシア・ピッチニーニ「ゲーム・ボーイズ・アドヴァンス」も精巧な男の子の人形で、そこにいるだけでぞっとしてしまう。作品なのでかがみこんでじっくり近くで見てしまうけれど、見ているだけで、他人をじろじろ見ているくらいのひどい罪悪感に襲われてしまう。遺伝子コピーは、コピーされた遺伝子の老化具合までコピーされてしまうらしくて、老化した子供だった。精巧につくる意味というのはこういうところにあるのかもしれない。河鍋暁斎「骸骨図」も墨だけで描かれた骸骨なのに、さっぱりしていてすごくかっこよくて、大好きだった。やなぎみわの写真もいい。
 時間ぎりぎりまで見たあと、SuperDeluxeまで行って、神村恵「配置と森」を見た。そもそも、まずこういう作品のありかたそのものにいちいち疑問を持ってしまうのだけれど、見ているひとは、何を楽しいと思って見ているのか、いつもよくわからなくなってしまう。あたしはこれを見て舞台を立体にしていく試みだと思った。舞台というのはたぶん三次元的なものだと思っているかもしれないけれど実はそうじゃないただの平面でしかなくて、舞台役者までも物質、「物」に還元してそれを積みあげていくことによって舞台を平面から立体に再構築していく試みなのかなあとぼんやりと思った。「物」というのはつまり「場所をとるもの」ということで、それで、社会や愛などの抽象概念のすごいところは「場所をとらないこと」といういってんにつきるのかもしれないけれど、それはともかく、「場所をとるもの」という点だけ見ればひとも物も変わらない。このダンスのなかではひとは物のように配置され、「物を運ぶひと」ですらも物として運ばれていき、配置されていった。どうして物を運ばなければいけないんだろうか。本や洋服が増えたとき、「ああ、捨てなくちゃ」と思うのはその感情がまちがっていて、まちがっているのは、本来的に場所をとる本や洋服の存在のしかたじゃないんだろうか。どうしたらあたしたちは物にさわれるのか。そして物にさわったあとでしか感情というものを発露できないひとの性質が、にんげんの抱える最大の欠陥なんじゃないだろうか。ぐずぐず。
 渋谷まで移動して、イメージフォーラムでタル・ベーラ「倫敦から来た男」を見た。モノクロの映像はとても美しいし、話にしたら30分で終わるはずのものを2時間以上だらだら続けてしまうので、おもしろかった。しぶい。娘と父親の諍いがとても楽しかったし、いい映画だと思った。台詞の音の響かせかたもいい。

12月24日

 朝早く起きて、シネスイッチ銀座でイスラエルの映画、アリ・フォルマン監督「戦場でワルツを」を見てきた。イスラエルのレバノン侵攻を背景にした、戦争アニメーション映画だった。端的に言って傑作にはちがいない。機関銃をギターに見たててぎゅいーんと音を鳴らし、音楽にあわせて爆撃機がレバノン市街地に爆弾をひゅんひゅん落としていくのりのりの映像があって、ロケット弾を撃ってきた子供を乱射して殺す映像があって、そして道路のまんなかでワルツを踊るように機関銃を撃つ兵士の映像があった。あたしはべつに戦争のことなんて知ったことではないけれど、読んだ本のなかにいくつかおもしろい戦争小説があって、それはたとえば、カート・ヴォネガット「スローターハウス5」だったりティム・オブライエン「本当の戦争の話をしよう」だったりする。オブライエンはほんとうの戦争の話をするためにはほんとうの戦争の話をしてはいけない、と言った。だから、彼はベトナム戦争を舞台に、戦場の幽霊話をしたり、兵士たちがどんなジョークを言っていたかを話したり、基地にきた女の子が戦士へと変化していく話を書いたり、おとなしく戦争に行ったくせに「俺は徴兵を逃れようとしたんだぜ!」という話をしたり、した。戦場に行った兵士がいつもいつでも悲しいわけがない。オブライエンの小説のなかで、ベトナム戦争に行ったある兵士は、あまり暇すぎたために手榴弾を爆発させて遊んでいた。これがほんとうの話なのかどうかは知らない。でも、それがほんとうの話なのかどうかは「あたしのほんとう」とは関係ない。「ある客観的なほんとう」を「あたしのほんとう」をかんちがいしたくないので、オブライエンの描いた「本当の戦争の話」はオブライエンの小説によって「あたしのほんとう」になった。
「戦場でワルツを」は基本的にオブライエンの描きかたを踏襲しているように見えた。だから、評価するべきは戦争にたいするその描きかたではないと思う。この映画は戦争映画ではなく、音楽の映画だと思う。背景としての音楽があってこそ、ここで描かれるアニメーションはいきいきとして、映画のなかであるにもかかわらず「本当の戦争」になる。「戦場でワルツを」は音楽について語るべき映画だと思う。そして音楽を語ることが戦争について語ることだということをたまには意識してみるべきだと思う。
 この映画は基本的に傑作だけれど、ラストシーンだけ実写になった。レバノンにおけるパレスチナ人虐殺の映像だった。死体がごろごろしていた。その戦争の語りかたによって現実に直結するんだろうか。しないと思う。最後の実写映像は全部カットしたほうがいいと思った。虐殺について考えるということは、虐殺を直接には知らないほとんどのひとにとって、その虐殺をあつかった映像(や小説や話や音楽)について考えるということだ。たぶん、実写の映像を挿入することによってあたしはパレスチナ人虐殺の映像について考えることをほんとうにはやめてしまうように思う。青山真治「EUREKA」では、全編モノクロの映画がラストだけカラーになる。青山真治は画面を変えたのか。画面を変えたことによって何に勝利し、何に敗北したのか。虐殺をあつかったアニメを最後に虐殺の実写映像に塗りつぶすような行為は虐殺の映像を虐殺したんじゃないのだろうか。レバノンでの虐殺はなかった。そんなものは存在しなかった。レバノンの虐殺は「戦場でワルツを」を見たひとのこころのなかに生まれるものだと思う。映画監督にはそれを信じてほしいと思う。もちろん、あたしの勝手な願いだ。あたしは勝手にしか願わない。届かなくても、いい。
 そのあと、管城さんと待ちあわせた。「おみやげをわたしたいので銀座に来られますか?」というので銀座に行ったのだけれど、何故か彼女はおみやげを持ってこないというアヴァンギャルドなことをするし、「恥を上塗りする」と言ってメールで詩を送ってきたりと(けっこういい)アヴァンギャルドさを上塗りしていた。
 というわけで「広告批評展」というものに行った。とてもおもしろかった。あたしは雑誌をぜんぜん読まないにんげんなので「広告批評」も読んだことはないのだけれど、たしかもう廃刊になっている。紙面をぱらぱらっとめくると、おもしろいことばっかり書いてあった。誰か(たぶんスーザン・ソンタグ、ちがう可能性が高い)が「わたしたちが写真を見たときに言葉を失うのは写真にたいする批評がまったく確立されていないからです」と言っていたような気がしないでもないけれど、それと同じで、広告にたいする語りかけかたをふつうの場合まったく知らない。知らないとどうなるかというと、語りかけられない。文芸評論みたいに、やりかたが確立されてしまうと、またべつの弊害があるのかもしれないけれども、とにかく、「広告批評」すごいおもしろいよ、ということだ。広告の見せかたというのはたぶん細部のいちいちまで見ていくととても楽しいし、インパクトのありかたというのはとても楽しい。CMで、小さな原始人がマンモスなどを追うカップラーメンのCMがあって、あれなんかはほんとうにとても楽しい。よく見ればぜんぜん意味のわからないところがとりわけ楽しい。昔のCMはみんなよく覚えているのに、直近のCMを見た記憶がぜんぜんないのは、いったいどういうわけなのかと不思議に思ったけれども、めんどうくさいのでよく考えなかった。
 すぐおとなりでやっていた「アリス展」にも行った。アリスは気持ちがわるいし趣味がわるいところがいいと思う。目がおおきいアリスが気持ちわるかった。
 どこかのホテルのどこかのカフェで昼食風のおやつ風の食べものを食べた。お皿がみっつ載っていた。縦に載っていた。ここのお姉さんはまったくしゃべらずに給仕をしていくので怖かった。こんなにしゃべらないお姉さんに出会ったのは、渋谷の「ライオン」のお姉さん以来初めてだった。管城さんにオリーブがとくに好きではないことがばれた。「フランスの地下鉄の電車のなかではギターを弾いているひとがいるし、駅ではオーケストラ風のひとが演奏しているんですよ」と教えてあげたのに、彼女は信じてくれなかった。彼女はおみやげを忘れたけれど彼女はおみやげを忘れたけれど彼女はおみやげを忘れたけれどあたしはえらいのでちゃんとフランスのおみやげを持ってきていて、わたしたら「中身はかわいい女の子ですか」と言われた。ちがう。外国ではロリコンにたいする扱いがたいへんに厳しくて、まちがえてかわいい幼女を持ってかえりそうになると、刑務所に入れられて、その刑務所でもきっといじめられるという話を聞いた。いいことを聞いた。めも。かいがい、ろりこん、だめ。にほん、ろりこん、よし。
 この日、彼女は「LIVEに行く」とか言っていたはずなのに何故か行かないというアヴァンギャルドなことをさらにさらに上塗りしたので、九段坂のギャラリー成山まで行って「松井冬子下図展」を見た。あたしは絵心がないので「下図なんて見てもしょうがねえよ」とふだんから思っていて、美術館に行っても下図はぜんぶすっとばして見ないということばかりやっているひとなのだけれども、松井冬子を愛しているので松井冬子の下図を見た。下図なんて見てもしょうがねえよともちろんやっぱり思ったけれど、松井冬子の絵はたいへんに気持ちわるくて変態なので、やっぱり好きだ。
 表参道まで行ってごはんを食べた。あたしはこの日アンチョビが食べられないということを劇的に発見したので黙りこむ。あたしはとくに何も言わなかったけれど、となりでアンチョビたっぷりの豆腐をぱくぱく食べている管城さんを見てありえないと思っていた。「偏食ですか」と訊かれる。ちがう。あたしはただきらいな食べものがいっぱいあって、とくに好きな食べものがないというだけのことだ。絶望という名前のパスタがあって、彼女がそれを食べたがっていたけれど、アンチョビという文字が書いてあってもうまちがいなくあたしがほんとに絶望するに決まっているのでチキンを食べたのであったすいませんでしたほんと。宮沢賢治が変態だという話を聞いた。典型的なシスコンで岩手で農業なんてやって仏教を自らの解釈のままに妄信していたらしい。ばかだ。宮沢賢治が楽しい。イマムラさんがいかに変態かということを教えてあげた。あとは昔の話。学校教育を変えよう。体育を潰そう。アンチョビも潰そう。

 ところで、何か忘れたけれどその日は管城さんがとても重要なことを言った。あたしはもちろんそっこうでその言葉を忘れていまも思いだせないでいるけれども、とにかく、あたしはその言葉を受けて「『他人の命なんてどうでもいいよ』と言うひとが他人を殺すわけじゃない」と言った。彼女は「他人のことをたいせつに思っているひとも誰かを殺すかもしれない」と(たぶん)言った。あたしは(たぶん)わりと他人のことはどうでもいいと思っているにんげんだけれど、誰かを殺したことはないし、ほんとうに殺そうと思ったこともない。そして、誰かを好きだとちゃんと思えたと思えたことも一度もない。あたしが信じられるいってんがあるとしたら、それだけかもしれない。管城さんは「言葉はそれが言葉であるという以上の意味を持たない」と(たぶん)言った。彼女の矛盾は、そう言いながらけっきょくのところ言葉を信じているところだと思う。彼女が批判したのは弾圧だったと思う。彼女がきらったのは「言葉のふりをした行為だった」のかもしれない。それはうそをふくんだ言葉の総体(相対)をかんたんに一義的なものにしてしまうことへの、感覚的な嫌悪のようなものかもしれない。それは、たとえば「他人のこころがまるで理解できない」→「だからこそ、他人を理解したい」という程度の反語ではない。反語はけっきょくのところひとつの意味しか持たない。そうじゃなく、たぶん、彼女が愛しているのは言葉の持つ限定とそれによって導かれる非限定だと思う。彼女が行うひとつの言葉はひとつの態度であってひとつの宣言であるけれども、それは、ひとつの宣言・態度によってそれ以外の宣言・態度を否定するというやりかたではないと思う。彼女は何かを言うことによって何かから解放されるように見える。あたしは彼女の文章について「彼女の文章はいっかいいっかいで即死している。」と書いたことがある。彼女の文章は刹那的だと思う。それは、彼女の文章が現在を生きているからだ。現在は一瞬一瞬を死ぬことだ。彼女が信じるのはたぶん過去でも未来でもなく、現在だと思う。
 というのはもちろんうそで、あたしは彼女について何か言うふりをしてあたしについて何か言っているだけのはずだ。彼女が何かについて言うならそれは彼女が言えばいいし、あたしが言う必要はない。もちろん、ひとは必要なこと以外のことをせっせとやるものだけれど。
 ダルウィーシュは「私の言葉は雲のように素直だ。私の言葉は雲のように素直だ」と言った。誰かが「わたしはあなたがきらいだ」と言ったら、たぶんそれを信じたらいい。だけれど、「わたしはあなたがきらいだ」ということは「わたしはあなたを愛していない」ということを意味していない。
 それがあたしが愛おしいと思う言葉の使いかただ。それはどういうことかというと、あたしが言ったことが現実になるということだ。そのものの見方を信じるということだ。友川カズキは「死ねば助かるとでも思っているのか」と歌った。現実とは限定的な行為ではない。あたしは実は言葉を信じている。

 かつて僕がいた。僕には親友がいた。僕と親友は教室で談笑していた。時間がすぎた。親友は突然立ちあがって、「ばいばい」と言って、窓から飛びおりた。即死だった。ぐちゃぐちゃになっていた。
 という話がかりにあったとして、そのことを題材に何かを描くとき、たぶん、ほとんどのひとは「親友にはこういう友達がいて、こういう家族構成で、こういう背景があって……」ということを並べて、「だから自殺した」という話に導こうとしているように見える。そしてそれが「何かを書くことだ」と思っているように見える。それは、実は親友の背景を設定しているだけで、親友のことについて何ひとつ語っていない。かりにあたしが僕ならば、そしてあたしが僕として死んだ親友のことを語るとしたら、あたしは僕を語ることから始める。他者の背景を設定するのは暴力だ。他者について語るのがやさしさだ。「他人の命なんてどうでもいいよ」と言うひとが他人を殺すわけじゃない。他人と関係できないことが悲しいわけじゃない。社会・国家・宗教・教育・道徳・空気・年代・友達、あたえられた価値観を自分の価値観だとかんちがいして、いま手に持っているものさしでしか何かを測ろうとしない。ものさしは捨てたほうがいい。測ることが自体が欠陥を抱えている。だから、あたしには好きなものはない。きらいなものはない。それでも、いくつかのものを好きだと思う。好きなものはないけれど、好きだと思う。

12月25日

 これからアルバイトをする。こんな長い日記を投下していったい誰が読むんだろう、誰も読まないだろう、と思った。でも、すくなくともあたしは熱心に読むからいい。
 さいきん読んでいちばんびっくりしたのが、田村俊子「木乃伊の口紅 破壊する前」だった。太宰治はこれのパロディをやっているんじゃないのかとすら思った。たとえば、「誓言」の会話がものすごい。男と女がけんかしているだけの短篇小説だ。

「唯意味もなく別れると云うのはいやです。殺して下さい。あなたも男でしょう。――私のあなたに対する愛はそれほど強いのです。」
こう云いました時に、
「おれは理屈は大嫌いだ。それが嫌いなのだ。
 どっちの愛が強いか強くないか理屈で比較できるものか。殺して貰いたけりゃ殺してやらあ。けれど愛もなにもないお前なんぞを殺すのは馬鹿々々しいから。自分の命のほうがほしいから。」
 あの人は乾いた笑い声を上げました。
「それ程別れるのがいやなら今朝からの事をすべてあやまれ。そうしてこれから決しておれの言葉には背向かないと云う誓いを立てたら許してやる。」
 何と云う矛盾した言葉でしょう。あの人はこう云う事を云ったのです。
「卑怯だ。」
 私は又こう叫びたくなりました。
「あやまる事なんぞは何もありません。私はあやまりません。何の為にあなたにあやまるんです。私はあなたにあやまらされるよりは殺された方がいゝ。」
「別れよう。別れよう。おれあもう堪らない。実に堪らない。」
「何だって別れるんです……」
 あの人は立上がりました。その羽織の襟先を私は摑んで引き据えたのでした。
「うるさいのは私の方がうるさいのですよ。誰の方からこんなうるさい問題を持ちだしたんです。誰の方から……」
 私はその時打たれたのでした。
「何だって私を打つんです。どんな咎があってあなたにそんな目に逢わされるんです。」

 
 本当におもしろい。爆笑した。それに、「私」がすごいかわいい。きゅーと。たぶん、大正時代の作品だけれど、こんなおもしろいことをまじで書いているなんて、もうちょっと、日本近代文学をちゃんと読まなければならないと思う。
 ノーム・チョムスキー「9・11 アメリカに報復する資格はない!」を読んだ。アメリカに報復する資格はあると思う。でも、それをするかしないかはべつの話だと思う。この本のなかではテロという言葉のプロパガンダ的な使いかたを批判しているけれど、この本のつくりかたがプロパガンダ的なつくりになっているようにしか見えないのはどういうわけなんだろう。事実というのを知るのはたいせつだ。その点で、この本はいい本だと思う。20世紀後半だけでもアメリカは20カ国と戦争し、爆撃をした。アメリカがニカラグアを爆撃したとき、ニカラグアは国際司法裁判所に訴え、国際司法裁判所はアメリカに有罪判決をくだし、行動を停止し、ニカラグアに賠償金を払うように命じた。アメリカはそのあとニカラグアにさらに多くの爆弾を降らせた。これらの話は本に書いてあることをそのままうつしただけでほんとうかどうかは知らないけれど、あたしはだいたい「ほんとうかどうか」という話には興味がない。暴力とは誰かを殴ることを含んだ、もっと総体的なことだと思う。反権威もひとつの権威のありかたでしかない。盲目さをべつの盲目さで塗りつぶしているようなものだと思う。盲目になったら目をつぶればいい。そして何かを少しは想像してみるべきだと思う。




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