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ナチュラル・オーガニック

2009.12.27(23:47)

ポトスライムの舟ポトスライムの舟
(2009/02/05)
津村 記久子

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 昨日は、頭がおかしくなったようにたいへんなすごしかたをした。一日中、やったことのないゲームの攻略サイトを見てすごした。もうこれで全クリできる。やったことないし、やらないけど。
 今日は、いいかげん、謝恩会の準備をしなければいけないのだけれどめんそうくさいのでまったくやっていなくて、でも、「今年の謝恩会は中止になりました」と言うはめになるとたいへん問題があるので、わたしと未熟くんで、とりあえず某結婚式場に相談に行った。事前にメールを送っていたけれど、たぶん、見ていなかったみたいで、とてつもない混乱を相手にあたえた。端的に言えば、会場はちがう学科の謝恩会幹事のひとにすでにおさえられていたので、コーヒーを飲んで、帰った。いったい何しに行ったんだろう。帰ってから、めんどうくさくなったので、ほかの候補会場に電話をして、空いていたのですぐに予約した。下見なんて知らない。何をやればいいのかまったく知らないけど、あさって、うちあわせに行く。

   ◇◇◇

 津村記久子「ポトスライムの舟」を読んだ。芥川賞受賞作の表題作もわるくないけれど、同時収録の「十ニ月の窓辺」がばつぐんによかったと思う。「ポトスライムの舟」は登場人物が何をやっているのかわかるように書き、結果的に説明的な文章が多くなってしまっていることが弱点だと思ったけれど、「十ニ月の窓辺」はそれとはまったく逆で、誰が何をしゃべっているのかすらよくわからないのがだんぜんに気持ちわるくていい。「ポトスライムの舟」も三人称で登場人物はカタカナばかりでぜんぜんわからない。でも、それが何か有効に働いているように見えなかった。「十ニ月の窓辺」はもうはっきり言って怖い。たとえば、アサオカの登場シーンではアサオカが女ではなくて男だと明確に判断するような書きかたをされていない。「彼女」という表記が「『彼女』」という表記に変わるのは段落が変わったあとだけれど、そこには本来の意味での改行はないと思う。改行されているのに改行されていないという奇妙な感覚が気持ちわるい。それは、たぶん「十ニ月の窓辺」という小説がほんとうの意味でどこにも向いていないということに起因しているんじゃないかと思う。アサオカが女であるか男であるか、それはわかるように描かれてはいないんだけれども、わからないようにも描かれてもいない。どうしてそういうふうに描かれているのかわからないものに、わたしは惹かれる。

 あんたはこの妄想のなかのとんでもないファンタジスタだ。まったく感心するよ。

 ツガワのものだと思われる152ページのこの一行の独白も、わざわざ改行されたあとに書かれたわりに、誰に向けられたものなのか判然としなかった。パワハラなど社会的な問題をテーマにしているくせに、このひとの文章は社会にも会社にも読者にもたぶん向いていない。
 パーカの人物も誰なのかよくわからない。そして、ツガワがパーカの人物と交わす肝心の会話もまた意味がわからない。

「孤立させちゃってごめんなさい。でもこうしないともう働けなかった。いつかやってしまおうと自分はしていると、自分に対して証明しなければ」

「いつかやってしまおうと自分はしていると」という絶妙にわけのわからない日本語がいい。そして、けっきょく何を言っているのか、何を言いたいのかさっぱりわからない。
 このひとの小説は労働形態への告発にもパワハラの告発にもなっていない、と思う。それは、たぶんパワハラというものが実のところ無言というものでしかないからで、同じように、津村記久子も無言で答えるしかないのかもしれないと思うからだ。
 わたしはこれを読んでますます仕事をしたくなくなった。だから、これはいい小説だ。そして、画一的な価値観でしゃべるのはほんとうにもうやめたいと思った。この小説を読んで、「ツガワはもっとがんばるべきだ」とか「社会はそういうものだ」とか、「わたしだったらこうするな。ツガワはばかだ」とか、そういうことだけはぜったいに言いたくないと思った。その言葉がパワハラだとわたしは思う。ツガワはわたしじゃない。だから、たぶんツガワにかける言葉はすべて暴力だ。問題は、うまく言えないけれども、ひとがツガワに暴力をふるうか、ふるわないかということだと思う。暴力をふるいたくはない。わたしは。
 たぶん、何かをがんばろうとすることがおかしいし、何か問題を解決しようとすることじたいがすでにおかしい。一歩も動かないで本を投げる行為は野蛮だ。本がそこにあれば、わたしはつまさきをつきだして一歩でもいいから歩けばいい。わたしがそこにいたとき、ある場所に本があって、とれないから、本のもとへろうそくのように静かに移動した。その軌跡が小説だ。おそらくは。

   ◇◇◇

 1990年に開かれた日本とドイツの女性の身分と社会活動に関するシンポジウムのなかで、あるドイツ人女性がこう言った。

「もし、自分の立場から男女の社会的な位置の平等という理想に寄与することがあるとすれば、それは通貨の安定というものを計ることです」




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