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年末だから本を薦める

2009.12.30(02:14)

金井美恵子詩集 (現代詩文庫 第 1期55)金井美恵子詩集 (現代詩文庫 第 1期55)
(1973/07)
金井 美恵子

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 昨日、「金井美恵子詩集」(思潮社 現代詩文庫)に入っている「森のメリュジーヌ」という小説を読んでいたら、「なんておもしろいんだ!」と思った。

 森の中は冷たく重苦しいいやなにおいがした。湿って重い空気の層と黒い木々の呼吸、光ひとつささぬ常闇の世界は静まりかえった沈黙に支配され、ぼくは手さぐりで鹿皮の袋から火打石を取り出し、火をつけて左手の小指の先に点火した。激しい痛みがぼくを貫き、ぼくは震えながら燃える指を凝視した。指はじりじり燃え、蒼白い炎であたりを照らし、それを唯一の光源としてぼくは森の中をさ迷った。森の木々の一本一本の下には白い衣をまとった女たちが虚ろな目ざしで長い髪を梳いていたが、その中に彼女はいなかった。こんな闇の中で、あの人はどうしているのだろう。髪を梳きながら、あの人は何を思っているのだろう。

 この文章には白と黒の二色しかでてきていない。それにも関わらず、執拗に黒を強調し、指を燃やすことによってかろうじて保たれる炎の白をあでやかに彩っていく。モノクロの映画がカラー映画よりも圧倒的にすぐれた色彩美を示すことがあるように、金井美恵子のこの文章はたった二色で過剰な美しさをあたしに魅せてくれている。
 というようなことは、ほとんどどうでもいいのだけれど、さいきん、あたしの考えていることは、つまり、文学というのはつまらないんだということで、それにもかかわらず「文学というのはおもしろい」とかなんとか言っているとんまなひとは、たぶん、ほんとうはつまらないはずの文学をむりやりにおもしろいと思おうとしているだけで、文学というのは、つまらない文学をおもしろいように見せかけて書いている作者とつまらない文学をおもしろいと思おうとして読んでいる読者の共犯関係のことでしかないんじゃないだろうか、ということだった。あたしがこりこり書いている今のブログのタイトルは「首吊り芸人は首を吊らない。」というタイトルだけれど、それ以前は「初心者でもわかる小説の読みかた」というタイトルだった。あたしは「どうして多くのひとはろくすっぽ文学の読みかたというのがこんなにもわかっていないんだろうか」と本気で思っていて、いちいち、
「文学とは何かの主張・言いたいことが書かれているわけではないのです。何か言いたいことがあるのならばそれをただ言えばいいのです。何も、小説に書く必要はないのです。言いたいひとに向かって手紙でも書けばいいのです」
 とか、
「文学とは登場人物に感情移入して読む必要はないのです。何故なら、ぜんぜん知らないひとに感情移入するのは不可能だからです。とくに僕は100年前に描かれた100年前のひとに感情移入するのは不可能です。だから僕は文学に感情移入して読みません」
 とか、さんざん言って、さんざん言いまくったあげくにいやんなっていやんなってしまった。あたしが言っていたことがまちがっていたとか、文学にたいするスタンスが変わったのかと言えば、それはあたしにもよくわからなかった。
 でも、だから、あたしが何か言うこともなく、誰かが本を読めばいいんだと思った。けっきょく、最後に残るのは、本を薦めるということだけじゃないかと思った。あたしが今年読んだなかでいちばんおもしろかったのはだんとつで三角みづ紀「カナシヤル」か「錯覚しなければ」だったと思うけれど、そんなものを薦めるのは、たぶんよくない。なんというか、三角みづ紀さんの詩なんかはほんとうのほんとうにはたいしておもしろくないものに決まっているからで、あたしが彼女を礼賛したところで、おそらく、それはもしかしたらあたしのやりかたがわるいのかもしれないけれども、礼賛することによって彼女と、そして本を読んでいるほとんどのひとを傷つけるということしか起こらないんじゃないか、ということを思うからだった。
 純文学を読まれない、ということに関してさいきんはわりとフラットに構えていて、だって、多くのひとが純文学を読まないということによってわりあい純文学を読むというあたしの特権意識がちくちく刺激され、それによって純文学を読む快楽のはんぶん以上がまかなわれているんだったら、あたしはたぶん、それを享受する。「楽しければいい」と純文学にたいしてそうは言うけれど、そんなものはほぼ口先だけだと知っている。それは「女の子がかわいい!」と言うのと何も変わらない。あたしが「女の子がかわいい!」とか「ろりこん!」とか言うことにはたっぷりの裏があるし、もっと言えばあたしは社会的な意見と個人的な意見の区別がつかないでしゃべっているひとを醜いと思う。でも、あたしはたぶん実のところ裏でしかない。よくわからない。たぶん、潰されることが快楽なんだと思う。「だいこんよりもだいこんおろしのほうがおいしい」と言うことはそこそこくだらないけれども、なんというか、あたしは世界を支配する大魔王ではないし、かんじんなところは、この社会では実のところ「俺が大魔王なんだぜ!」と思っているひとばかりだということで、あたしはつまり「うん。俺もさ、実は『俺が大魔王なんだぜ』と思っている。でもさ、それ、ちがうよね。俺も大魔王じゃないけど、おまえも大魔王じゃないんだよね。えっとさ。そのことについてよく考えようぜ」と言いたいんだけれど、そう言うふりをして、火を吹いて街を燃やしちゃったりすることがよくあって、だから、たいへんなんだと思う。きみがサンタクロースだったらいい。あたしは塀くらいでいいなあ。きみがまちがった場所にいるならあたしはその場所に行くわけだけれど、でも、それはまちがった場所だからみんなまちがっていると言うから、混乱するんだ。それは「死ねよ」と思うしそういうひとたちに唾を吐きかけるだろう。でも、あたしの唾は汚い。ぐるぐる。
 だから、あたしはもういっかい、もういっかいだけ、「おもしろい」本を薦める。


 基準
・「文学というものをぜんぜん読まないんだけど」というひとに真っ先に薦めたいと俺が思うもの
・読みやすいもの
・ストーリー・文章・表現・オチ、なんでもいいけれど「衝撃」があるもの
・小説

(カフカもドストエフスキーもトルストイもジョイスもプルーストもマルケスもブロンテもオースティンもポーもスターンもベケットもムージルもサリンジャーもヴォネガットもフロベールも読まなくていいと思う。詩も評論も一冊も読まなくていいと思う)



アゴタ・クリストフ
「悪童日記」(堀茂樹訳 早川epi文庫)
「ふたりの証拠」(堀茂樹訳 早川epi文庫)
「第三の嘘」(堀茂樹訳 早川epi文庫)

 だれが読んでもぜったいにおもしろいと言うはずだし、ぜったい衝撃を受けるはずだから、読まないとぜったいにもったいないと思う。「悪童日記」は双子の少年が祖母のもとにやってきて、そこでの生活を日記としてしたためた形式の小説。少年らしさをいっさい排除した「ぼくら」の一人称は圧倒的な冷徹さを帯びながら、殺人、性、ルールを記述していく。ここでは感情が描かれない。ルールだけしかない。暗黒がある。圧倒的な残虐さがある。でもかなしい。すごくかなしい。「ふたりの証拠」、「第三の嘘」はその続編。全部おもしろいので、全部読んだほうがいいと思う。


リチャード・ブローティガン
「芝生の復讐」(藤本和子訳 新潮文庫)
「愛のゆくえ」(青木日出夫訳 早川epi文庫)

 藤本和子訳のブローティガンの文体が(たぶん)村上春樹の文体の直接的な父親になっている、と言ったら興味を持ってくれるひとがいるんだろうか。ブローティガンが描いたのは圧倒的なユーモアとユーモアを通したさみしさだと思う。「芝生の復讐」は短編集だけれど、本を開いてタイトルが並んでいるのを見ただけでうっとりしてしまう。


チャールズ・ブコウスキー
「街でいちばんの美女」(青野聡訳 新潮文庫)
「勝手に生きろ!」(都甲幸治訳 河出文庫)

 どれを読んでも同じことしか書いていないと思うから、どれを読んでもいいと思う。仕事クビになった、お酒飲んだ、女とセックスした、また仕事クビになった、ああいやだ、ああいやだ。それだけなのに、ものすごくおもしろい。


ポール・オースター
「ガラスの街」(柴田元幸訳 新潮社)
「幽霊たち」(柴田元幸訳 新潮社文庫)
「鍵のかかった部屋」(柴田元幸訳 白水uブックス)

 この順番で発表された、事件の起こらない探偵小説。探偵が探偵できない探偵小説。ミステリー好きに真っ先にお薦め。いちおう三部作になっているけれど、直接的な関連はなく、好きな順番で読んだらいいと思う。「幽霊たち」をはじめて読んだとき、びっくりしすぎてたいへんなことになった。


ボリス・ヴィアン
「うたかたの日々」(伊東守男訳 早川epi文庫)

「現代で最も悲痛な恋愛小説」と謳われたフランスの小説。肺に睡蓮の花が咲いてしまう病気にかかったクロエという女の子をめぐるお話。脳みそがヨーグルトでできているとしか思えないとろっとろの会話と、とろっとろの会話と行動ばかり続けていくせいで堕落していくその哀愁がたまらない。ヴィアンは美しいものを描くということだけに夢中になっていると思う。


太宰治
「斜陽」(新潮文庫)
「ヴィヨンの妻」(新潮文庫)

 夏目漱石も、森鴎外も、谷崎潤一郎も、川端康成も、三島由紀夫も読まなくていいから、教科書にでででんと載っている作家として、太宰治だけは読んでほしい。読むにしても、「人間失格」よりは「斜陽」(文体がのりのりだから)、「走れメロス」よりもたとえば「女生徒」(文体がのりのりだから)にしたほうがいいと思う。
「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。」
 滅んでゆくさなかにこう堂々と宣戦布告したかず子(「斜陽」)ほど美しい女の子をあたしは知らない。


村上春樹
「ノルウェイの森」(講談社文庫)
 
 だれがなんと言ってもおもしろいと思う。大学生の「僕」、「直子」、「緑」の三人のこころのふれあい(ふれあえないこと)を描いた恋愛小説。圧倒的な静寂のなかでまるで死を灰のように呼吸しながら生きているひとたちの、美しい記録だと思う。ファンタジーによりかかることなくいちばん真摯に、ていねいに描かれていて、物語がすっきりしているぶん、行動と物語がずっしりと胸に迫る。泣ける。


高橋源一郎
「さようなら、ギャングたち」(講談社文芸文庫)

 文学と言えば「暗い」、「じめじめしている」など、まるでなめくじみたいなイメージを持たれているけれど、これを読めばそんなイメージはふっとんでしまうはず。登場人物の名前が「中島みゆきソング・ブック」とかだから。読みやすい文体に比べて物語は極めてシュール。何故かわからないけれど、泣ける。泣ける。ほんと泣ける。


金井美恵子
「愛の生活 森のメリュジーヌ」(講談社文芸文庫)

 今回挙げた作品のなかではぶっちぎりで読みづらいと思うけれど、がんばって読む価値はあると思う。がんばれなかったらゴミ箱に捨てればいいだけなんだから、いっかいくらいページをめくったっていい。薔薇の棘でつねにちくちく刺されているみたいな官能とグロテスクさが同居した文体と物語がたまらない。「森のメリュジーヌ」なんて暗い森のなかで自分の指を燃やして明かりにしながら愛するひとを一心に探しもとめる小説だ。それは読むさ。「兎」もすごい。


舞城王太郎
「好き好き大好き超愛してる。」(講談社文庫)
 
 現代の(わりと)若手で純文学を書いているひとのなかでは、舞城王太郎だけ読めばあとは読まなくてもいい。綿矢りさも柴崎友香も本谷有希子も読まなくていい。芥川賞受賞作なんて一作も読まなくていいから、これだけを読めばいい。まっすぐな恋愛小説。ひとがひとを愛するにはどうすればいいのか、もっともたんじゅんな言葉の積みかさねで書いてある。あたりまえのことをもういっかい書いてくれる。うれしい。


 番外編・映画 

諏訪敦彦監督
「2/デュオ」

 邦画はとりあえずこれだけ見ればいいと思う。小津安二郎も溝口健二も黒澤明も見なくていいので、これだけ見ればいい。「痛々しくて見ていられなかった」と言うひとがいたけれど、それはこの映画が「現実」だからだと俺は思う。洋画は難しすぎるので何も言わない。




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