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書きうつすことからはじまる

2010.01.07(17:38)

星のしるし星のしるし
(2008/10)
柴崎 友香

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ありきたりの狂気の物語 (新潮文庫)ありきたりの狂気の物語 (新潮文庫)
(1999/07)
チャールズ ブコウスキー

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 余生という年よりじみた言葉を自分のものとして意識した時、わたしは、「書くということは、書かないということも含めて、書くということである以上、もう逃れようもなく、書くことはわたしの運命なのかもしれない」と、日記にしるしている。この文章は『兎』という小説の冒頭に、そのまま使っているのだけれど。そしてその時、わたしは自分が作家以外のものにもなれたはずだ、ということに気がついた。
  
 金井美恵子というひとはかつてこう書いた。作家以外のものになれるとそのひとが気づいたとき、そのひとは作家になれる。あるひとが「書きやめるということは書くことのなかにしかないのです」とかつてあたしに言ってくれた。書くということを「紙やえんぴつはディスプレイやキーボードを使って行う行為」以外のものへとひろげた総体として確かにして、希望を持つこと。えんぴつをにぎる訓練はえんぴつをにぎっていない時間をどう美しく生きるかの訓練だったはずなのに。そうだと知っていたはずなのに。あっかんべ。

   ◇◇◇

 デュークはアボカドを手にとった。
「ワーオ」
「そうだ、これがアボカドというやつだ。凍った太陽というやつな。おれたちは太陽を食べる、そうして歩くと、躯があったかくなる」
「パパが飲んでるビールにも太陽は入ってるの?」
「そうだよ」
「あたしのなかにも?」
「ほかの誰よりも」
「そしてパパのなかにはものすごく大きな太陽があるのよね」
「ありがとう、ララ」


 ブコウスキーというひとはかつてこう書いた。ブコフスキーを読んでいると「文学史上もっともすごい作家はこのひとなんじゃないか」と思えてくる。たぶん、まちがっていないだろう。ブコウスキーの小説がすごいのは、そのなかに「愛」があるからだ。ほかの作家の小説には「愛」がたりていない。

   ◇◇◇

倉の中で ひとはだまって燃えている。

 (赤い月)

部屋の中で ひとは坐ったまま燃えている。

 (黄色い月)

ビルの中で ひとは規則正しく燃えている。

 (鉛色の月)


 高良留美子の「燃える人」という詩の全編だ。全編にわたってひとが燃えている。高良留美子はひとが燃えていることを知っている。燃えることが悲しくて、燃えるそばに月があることを知っている。だから、この詩はとても悲しい。そして、あたしは高良留美子ほどひとが燃えることが悲しいということを知らない。なぜなら、ひとはほとんどの場合燃えないからだ。

   ◇◇◇

 ニュースを見ているひとがその事件について考える、ということは、じつのところその事件について考えているわけではなくて、「その事件について放送しているニュースという映像について考えている」というだけかもしれない。だから、あたしたちはその事件を見ているのにその事件について考えることができない。そして、たぶんあたしたちがその事件についてまともに何かしゃべろうと思ったとき「もがもがもが!」としか言えないのは、その事件についてしゃべろうとしてばかりいて、その事件の映像についてしゃべろうとはしないからなんじゃないだろうか、ということを思った。ぐるぐる。

   ◇◇◇

 朝比奈あすか「憂鬱なハスビーン」を読んだ。主人公の女のひとの性格が最高にわるくて、読んでいるこっちまでいらいらさせられるという域にまで達した、おもしろい本だった。
 手元に本がないので引用できないけれど、

 1 登場人物が新しくでてくる
 2 主人公と会話をする
 3 章が変わったり、改行したりする
 4 「○○くんと出会ったのは~」、「わたしは以前~」というふうな文章が続く
 
 ということが多かった。これははっきりとしたテクニックだと思う。「新登場人物の紹介」と「過去のわたしの紹介」と「叙情性」のみっつをいっぺんにだすことができてすごく便利だし、「小説に奥行きがでる」と知らないひとに褒められることうけあいだ!
 問題はあたしにあって、あたしはこういう書きかたを見ると「へたくそ!」と思ってしまう。あたしに「これはテクニックだな」と思われる文章がはたしてテクニックになっているのかどうか、あたしにはよくわかったことがいっぺんだってないし、あたしはそういうものからはできるかぎり遠く離れたいと思う(それは「テクニックがいらない!」と言うことではなくて)。ただ、そういう「へたくそ!」と思う部分をふくんでまで不穏な空気がこの小説にはあって、こわいのは、読んでいると、つまり、あまりにも主人公がいらいらしているのを読者のあたしが見ていることによるいらいらがつのってくると、この一見幼稚に見えなくもないテクニックまで「俺をいらいらさせるために書いているのか! わざとか! わざとなのか! 怒ったら俺は作者の術中にはまっているのか! さ、さくしゃめ! ぷんぷん!」とまで思わせられるので、油断できない。

   ◇◇◇

「NHKにようこそ!」4巻で、岬ちゃんは佐藤くんにこう言った。

「人間だもの 他人に変と思われる事はある… でも佐藤君は 少しでも他人に変と思われたくないんだよね」
「ずーっと『勝ち組』でいたいから あんなにオドオドしてたんでしょ?」
「確かに私と会って佐藤君は少し変わった… 元気になった でもそれは 勝ち組である事を 諦めただけ…」
「どうして私を怖がるの?」
「可愛くて天使みたいな私が怖いんでしょ?」
「私の事が好きだけど あまりにも立派だから いつか嫌われたらどうしようって怖いんでしょ?」


 岬ちゃんの言うことは正しい。問題はいつも、あたしがだれかを好きなとき、だれかはあたしのことを好きじゃないということだった。

   ◇◇◇

 柴崎友香「星のしるし」の書きだしはこうなっている。

 二階のベランダの手すりに腰掛けている二人が、こっちに向かって指差したように見えたので、あの場所から車の中にいるわたしのことは見えるんだろうか、と思った。

 柴崎友香の文章はいつも「やさしい運動」から始まっている。「やさしい運動」とは「ひとのことを見ていると、ひとが動く」ということだと思う。ベランダの手すりに座る遠距離の二人がという視点、それが「指を差す」という「視点の移動」という具体的な動作に触発され「わたし」へと飛んでいき、「あの場所から~」というこころの動きを呼びだす。だから、彼女の文章は読んでいていつも楽しい。いきいきとしているからだ。

 皆子は、床に転がった朝陽を見おろした。朝陽の髪が、石油ファンヒーターから出てくる熱風に軽く揺れていて、頭が熱そう、と思ったら、やっぱり熱かったみたいで、仰向けのまま体を蛇みたいに動かして玄関側へずれた。そして玄関を背にして座っていたカツオを見た。


 皆子が朝陽を見ることによって、「わたし」の視点は朝陽へうつり、「頭が熱そう」という感想が導かれ、その感想とはけれど無関係に、朝陽が動き、その視点の先にいるのがカツオだから、「わたし」はカツオを描写する。たんじゅんにいながらも、ものすごくていねいに描かれているのがわかるから、ちゃんとあたしもやさしい気持ちになれる。
 あるいは、テレビを見ているこんなシーン。

 緑のユニフォームを着た金髪の人がゴールを決め、よっしゃ、と朝陽はガッツポーズをして、やっと体の向きを変えた。試合が終了し、四角い画面のなかでは、緑の人たちは抱き合ったり倒れ込んだりし、赤と白の人たちは肩を叩いて慰め合ったり泣いたりしていた。


「わたし」はサッカーのことがわからないので、見たことを見たままに表現している。どこの国のチームということではなく、何色のユニフォームを着て何色の髪をしているのか。そして、「テレビ」ではなくて「四角い画面のなか」と描かれるから、「わたし」はテレビのそともなかも本質的には区別していない。朝陽のガッツポーズとテレビのなかでサッカーをしているひとの動きが、まったく同じ温度で描かれている。
 それはもちろん、現実と虚構の区別がついていない、というたんじゅんなことではなくて、もっと大事な、いとおしいことだと思う。

 みんな、なんの話をしてるんやろう。
 なにについて、話してるんやろう。


 他人のことを真摯に見る彼女は、同じように他人の話に真摯に耳を傾けるからこそ、そこに浮かんでいる乖離性をはっきりと感じることができてしまう。そしてこの小説は、電車のなかのこんなシーンで終わる。

 姿勢を戻すと、ちょうど向かいに、たぶんわたしと年の変わらない女の人が座っていて、こっちを見ているのに気づいた。ベージュのトレンチコートを着ていて、髪はとても短かった。跳ね上がったアイラインが目立って濃かった。膝の上に置いたキルティングのバッグの上に両手を重ね、電車の中では珍しいくらいきちんとした姿勢で、まっすぐにわたしを見ているのだった。鳥みたいな表情のない目だった。でも、わたしが彼女を見ていても、なぜか視線が合わないように感じた。わたしの顔を見てるんじゃないかもしれないと思って、わたしは前の座席のほかの人たちに視線を移した。七人のうち四人は携帯電話を覗き込んでいて、二人はしゃべっていて、あとの一人が彼女だった。走ったせいか暑くて、背中に汗がにじむのを感じた。
 もう一度彼女を見てみる。まだこちらをじっと見ている。彼女がわたしの顔を見ているのかそのうしろの窓に映る彼女を見ているのかそれとも違うところを見ているのか、わたしにはわからなかった。


 これは村上春樹の「ノルウェイの森」だとあたしは思った。ほんの少し悲しいことは、岬ちゃんが言うように、いつも視線があわないことだった。これは柴崎友香の文章にしてはだんとつに暗い終わりだと思うけれど、それによって彼女のもっとも美しい部分が失われているかもしれないと思うけれど、あたしはいまこんなふうに書ける彼女が、だいすきだと思う。




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