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さいきん死の灰を降らせるのは核ではなく現代文学でしたね

2010.01.16(18:11)

灰色猫のフィルム灰色猫のフィルム
(2009/02/05)
天埜 裕文

商品詳細を見る

 さいきん、ちょっと思うところがあって、図書館から若手の純文学のひとの作品を借りてきてぱぱっと読んでみた。おもしろい順に並べると、

1 柴崎友香「星のしるし」
2 小林泰三「モザイク事件帳」
3 津村記久子「ポトスライムの舟」
4 藤代泉「ボーダー&レス」
5 田中慎弥「図書準備室」
6 朝比奈あすか「憂鬱なハスビーン」
7 諏訪哲史「アサッテの人」
8 佐藤友哉「1000の小説とバックベアード」
9 天埜裕文「灰色猫のフィルム」
10 喜多ふあり「糞神」

 ぐらいになると思う。柴崎友香はわたしのなかではちょっと特別だし、小林泰三はバカミスで純文学ですらないので例外として、残った8作品のうち、佐藤友哉、天埜裕文、喜多ふありの3人がごみくずのような作品を書いていた。ごみくず率が3/8。ここでいう「ごみくず」というのはべつにつまらない作品という意味では決してなくて、あえてつまらない、あえてごみくずみたいな作品を書こうとしているもの、という意味だ。それに敏感なのは喜多ふあり「糞神」で、もう彼はまともに小説を書こうという気持ちすらないと思う。彼の態度はとても正しいと思う。でも、正しい態度で書いて、何かおもしろい作品ができあがるわけではない。佐藤友哉と喜多ふありは描写をしない。描写をしないとどうなるかというと、そこには文字が書かれているだけで、ほかには何も書かれなくなってしまう。携帯小説は描写をしないという点がたぶん第一の特徴で、たぶん、彼らはそれと非常に近い。近いけれど、(たぶん)どこかちがっている。ちがっている部分をどうにかこうにか言いつくろうとして、彼らは「文学」と呼ばれるジャンルのなかにいると思う。佐藤友哉は講談社ノベルスででているものも純文学というジャンルででているものも、そんなちがいはないと思う。
 おそろしいのは天埜裕文で、彼は描写をする。するけれど、それがもう描写としてほとんど機能していない。もっとはっきり言えば、「天埜裕文の地の文」と「喜多ふあり『糞神』の会話文」はまったく同じものにしか見えないということだと思う。これはおそろしいことだと思う。すごいことだと思う。現代では「行動」も「会話」も同じことなんだろうか、わたしたちはもう会話をするようにしか行動できないということなんだろうか。天埜裕文くんは地の文を書いてせっせと書いて何かを描写しているつもりで、まちがって会話文をせっせと書いてしまったのだろうか。天埜裕文くんの「灰色猫のフィルム」は携帯電話で書かれたものだけれど、携帯電話で書かれるということは散文を会話文に変換してしまう、まことおそろしい事態だったのか。

 幅の狭い歩道の先に大小の人間の形が見えた。それが幼稚園児くらいの小さな子供と、小太りの母親らしき女が手を繋いで歩いている姿だと距離が近づくにつれてわかった。二人との距離が狭まっていく。十メートル、五メートル、一メートル。ブレーキを握り、少しずつ速度を落とす。

 砂場と鉄棒の間に水道がある。噴水のように下から上へ飛び出る蛇口と、足元には下を向いた蛇口。排水口に白いガムが詰まっている。水を一口飲み、濡れた手で目を擦り、軽く頬を叩いた。公園の前の通りを、また犬が散歩している。さっき小学生に吠えた犬よりも小さい。

 男はテントの中に入っていく。それは小屋ではなくテントだった。キャンプで使用するような三、四人は入れそうな三角形な黄色いテント。コンクリートのブロックが四隅に二つ重ねて置かれ、ブロックの上にはペットボトルが一本ずつ立てられている。中には茶色く濁った液体が目一杯入っている。このテントから見える景色は何も変わらない。目の前の不透明な川と、その川を越えた先に地面から突き出た建物、一つ違うのは鉄橋を渡る車の振動が少し響いてくる。


「灰色猫のフィルム」の描写だ。わたしがとまどってしまうのは、書いている本人が自分の描いている情景にほんとうには興味を持っていないようにしか見えないことだ。
「二人との距離が狭まっていく。十メートル、五メートル、一メートル。ブレーキを握り、少しずつ速度を落とす。」
 もしかりにまともに純文学を書こうというひとなら、こういう文章は書かないと思う。たぶん、天埜裕文くんにとって人間とは距離が近づいていくものとしてしか認識されていない。十メートルになるもの、五メートルになるもの、一メートルになるものとしてしか、認識されていない。すべての情景、人間をふくめたすべての描写が、無機物としてしか描かれていない。もっとはっきり言えば、この描写では人間と物が区別されていない。ちがいは人間が何かしゃべって動き、物が何もしゃべらないで動かないということだけだ。
 この逆の描きかたをしているのが、柴崎友香だと思う。彼女はものを描くことによって世界との距離を少しずつ動かしている。風景を描くことによって自分の立ち位置をかため、「風景を描く」という「光の投げかけかた」によって人間をやさしく照らしだしている。そのとき、彼女の描写は生きはじめる。天埜裕文くんの描写はすべて死んでいる。どんなに激しい感情を描こうと、それは灰色をまとったまま息づこうとしない。わたしが気になるのは、それでも天埜裕文くんが執拗に描写を重ねていくそのやりかただと思う。天埜裕文くんの描写はすでに描写ではないので、いくら書いても、身体性を獲得できない。小説において、基本的に会話文はいくら書いても身体性はほとんど獲得できず、逆に遠ざかっていくことが多いと思う。だから、会話文と地の文(描写)をどういうバランスで描いていくかはとても大事なことだ。でも、天埜裕文くんの地の文は性質的に会話文でしかないので、いくら書いても身体性を得ることができない。
 わたしは、「灰色猫のフィルム」という小説は身体性を獲得するために必死に描写(作者が描写だと思っている描写)を重ねた作品に見えた。その試み、努力は、わたしの見たところほぼ完璧に失敗している(この小説のおもしろいところはもちろん完璧に失敗しているところだ)。
 わたしは「灰色猫のフィルム」をそんなに評価しないし、そういう書きかたのあとに何かがあるともとても思えない。でも、天埜裕文くんのしたことには興味がある。
 ほんとうに必要なのは「灰色猫のフィルム」じゃない。「灰色猫のフィルム」に話しかけるための、言葉だ。

   ◇◇◇

 最近 思ったこと 聞いたこと

・小説は基本的に改行するべきじゃない
・改行すると必然的に描写ができなくなってしまうからだ
・改行は速度の問題である
・「改行すると読みやすくなる」はうそ
・歴史とは総合的なものだ
・絵画における遠近法の発見は近代国家の土台である
・表現があってものが生まれた
・ものがあってそれを描くために表現があるわけではなかった
・本は本屋ではなくマクドナルドで販売しよう
・文化と歴史と政治の連関を意識しよう
・すこしはまじめにものを考えよう
・ひとを好きなろう
・寝る時間を削ろう
・電気代を節約しよう
・歯をみがこう
・ジョニー・デップはイメージだけでかっこういい




コメント
天埜裕文はただ単に村上龍の初期の作品に触発されて書いているだけです。本人もそう言っています。両者の描写(文章)はとてもよく似ています。
「風の歌を聴け」を書いた村上春樹と違って彼は、「灰色猫のフィルム」を書いた時点では、圧倒的に読書量が足りません。本人もそう言っています。
彼は、何かの意図があったというよりも、あの書き方しか知らなかったように思います。
【2010/01/17 18:33】 | ゆうれい #- | [edit]
あれれ、金原ひとみを読んでびっくりしたとどこかで聞いたような気がします。
村上龍→金原ひとみ→天埜裕文という系譜、でしょうか。村上龍はまともに読んでいないので、よくわかりませんけれど。
僕も彼は天然で書いていると思います。天然で書いてそういうふうに書けるのは、わりとすごいことだと思います。でもこういうひとは、ちゃんと本を読んだあとどういうふうに文章を書いていくのか、という問題と向きあわなくてはいけないんだと思います。それはどの作家ももちろん同じことだと思うんですけれど。
【2010/01/18 14:30】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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