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2010.01.21(12:17)

パウル・ツェラン詩集 (双書・20世紀の詩人 5)パウル・ツェラン詩集 (双書・20世紀の詩人 5)
(1993/05)
パウル・ツェラン

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 とてもひさしぶりにただ文章を読んでもらえたことをうれしいと僕は思った。何かを書いてきてよかったと強く思った。彼女は透明な秋に似ている。色めきはじめる時間のなかで、透明なままでいながらになお赤く、黄色くなろうとしているように見える。気温が下がり、指先は冷えていった。けれど、指先がたどるその残滓だけが光に照らされ、ゆっくりとあたたかくなっていくだろう。僕たちはおそらく残滓をのこして新しい世界へ到達できるはずだ。あとでその残滓をとりもどしにもどっていくのか、それとも、放置したままで美しい幽霊のように世界をさまようのか。どちらを選んだとしても、どちらを選ばされたとしても、それは悲しいことではないはずだった。そしておそらく、透明になっても身体が消えてしまわないのは悲しいことだし、うれしいことだった。透明なままでなお温度を感じることができれば、僕たちはおそらく呼吸ができるのだった。僕は彼女がうれしかった。

   ◇◇◇

 あるゆうべ、太陽が――そればかりでなしに――沈んでいった、そこへ、ひとりのユダヤ人が、ひとりのユダヤ人にして、ひとりのユダヤ人の息子であるものが、かれの小屋から歩みでて来た、のろのろと大股でやって来た、やって来るのが聞こえた、杖をついてやって来た、石をこえてやって来た、聞こえるかい、ぼくが? 聞こえるだろう、ぼくが? ぼく、ぼく、ぼく、きみに聞こえているぼく、きみが聞こえているとおもっているぼく、ぼく、ぼくならぬぼく ――このようにしてかれは歩んで来た、聞きとることができた、太陽やその他のものが沈んでしまったあるゆうべ、かれは歩んで来た、わだかまる雲のもとを、みずからの影の中を、みずからとは異なるものの影の中を、というのもユダヤ人は知っているだろう、きみは? それがまぎれもなくおのれのものでひとのものではない場合でも、借りうけたものはあくまで返すことを知っているからだ――このようにしてかれは歩んで来た、ゆっくりときれいな道を、くらべるもののないほどきれいな道を歩んで来た、やって来た、レンツのように、山中を、かれ、みずからが属する山麗の平地に住まわせてもらっていたかれは、ユダヤ人は、やって来た、やって来た。
 やって来た、そうなのだ、うつくしい道を、くらべようもないほどきれいな道を。


 パウル・ツェランの「山中の対話」という文章はこう始まっている。ここではいったい何が起こっているんだろう。わたしの見たところ、ここでは「ひとりのユダヤ人がうつくしい道をやってきている」。そして、それだけしかない。どうしてツェランはたかがそれだけのことに400文字以上ついやさなくてはいけなかったんだろう。そういうときどうしたらいいのか。ツェランに訊けばいい。でも、ツェランは死んでしまった。彼が死んでしまい、けれどわたしはまだツェランの書いた文章を読む。そして「これはなんだろうか」と言う。わからない。考えても考えても、わからない。そこにはそれだけがあった。それだけしかなかった。
「山中の対話」は何だろうか。詩だろうか。小説だろうか。エッセイだろうか。日記だろうか。自伝だろうか。問いそものが反復で死んでいる。蛙のようだ。


あけがたの黒いミルク 僕らはそれを夕方に飲む
僕らはそれを昼に朝に飲む 僕らはそれを夜中に飲む
僕らは飲む そして飲む
僕らは宙に墓を掘る そこなら寝るのに狭くない

                パウル・ツェラン/死のフーガ
 

僕らはいた そこにいた ただそれだけさ
何も見えず 朝の光にすら傷ついて
僕らはいた そこにいた ただそれだけさ
何も言わず もう一度笑ってみせた

僕らはいた そこにいた ただそれだけさ
何も見えず 朝の光にすら傷ついて
僕らはいた そこにいた ただそれだけさ
何も言わず もう一度笑ってみせた

僕らはいた そこにいた ただそれだけさ
何も言わず 何も持たず
僕らはいた そこにいた ただそれだけさ
何も言わず もう一度笑ってみせた
くだらないって笑ってみせた
もう一度笑ってみせた


 この詩を書いたのはパウル・ツェランではない。

   ◇◇◇  

 3連続のアルバイトが終わったので、わたしはうきうきしている。週末の予定にそなえて身体のリズムをもどすために、今日は夜まで眠らないひとになろう。わたしのアルバイトは夜10時から朝5時まであって、それが続くと、わたしが寝る時間は朝になって起きるのが夜になる。ひどい。そういうひとはきっとせみのぬけがらみたいに早く死んじゃうだろう。でも、わたしはせみのぬけがらではない。
 ゼミで先生に言われたことはわたしには不可解なことだったので、「それは不可解だなあ」と思った。そしてそれは不可解なことだから、わたしはそれをやらないに決まっていた。そしていちばん不可解なのは、こんなていたらくではたして卒業できるのかということだった。研究を進めるためにはじつは研究のことを考えなくてはいけない。わたしはさいきん「ものが売れなくて不況になってみんなが騒いでいる。しかし今後の日本においてものが売れつづけることは考えにくいんじゃないだろうか。だとしたら、わたしたちがすべきことはものが売れなくても社会を維持できるような構造のありかたを考えることだ」と思った。思っただけでめんどうくさいのでそれを考えないのと似たやりかたで、わたしは研究のことを考えない。社会の構造は変わらない。わたしの研究は変わらない。そしてわたしはねむい。ねむねむねむい!




コメント
このユダヤ人はとても幸福な気がする。彼はもしかして貧しいかもしれない。彼はもしかして病気かもしれない。でも、ここには彼の比較対象となりうる人間はどこにも出てこない。だから、たぶんこのユダヤ人は主観的には幸せだ・・・と思う。
【2010/01/21 18:00】 | 上田洋一 #- | [edit]
僕としては比較対象が存在しない時にしあわせであれるのか、というのが気になるところですね。それは同時にふしあわせであれるのか、ということでもあるんですけれども。
【2010/01/24 20:25】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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