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ユキとニナの神隠し

2010.01.24(20:28)

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 土曜日は早起きして、電車にがったんごっとん揺られて、恵比寿ガーデンシネマまで諏訪敦彦とイポリット・ジラルド共同監督「ユキとニナ」を見にいった。諏訪敦彦の評価は「2/デュオ」「M/OTHER」で最高と思って、「不完全なふたり」を見て最高と思ったけれど諏訪監督のよさはフランス映画では発揮されない部分があるんじゃないのかな、とも思ったのは事実だった。諏訪敦彦の映画は即興演出とドキュメンタリーの手法が混じっていて、わたしが知っているかぎり、いちばん現実にもとづいたリアリティでひとが動いてしゃべっている作品だと思う。そして、それはわたしが日本人だからわかる部分が多くて、フランス映画として同じことをやられてしまうと、それがどういうことだかわからなくなってしまう。だから、わたしは諏訪敦彦の日本映画が見たいと思っていた。
 それで、「ユキとニナ」はそういうことをきちんと越えている作品だと思った。ユキは父親がフランス人、母親が日本人なので、フランス語と日本語を話す。わたしがびっくりしたのは、この映画のなかでフランス語と日本語がどちらも違和感なく話されているという事実で、それは、たぶん、これがフランス映画であるか日本映画であるかが区別されていないということだと思った。だれが何をしゃべっているのかなんて、それがどこの国でつくられている映画なのかなんて、どうでもいいことだった。フランス、日本という区分けが、ただの地理的命名によってえられた純空間的差異でしかありえないという「一面」をとてもよく、教えてくれる。わたしはほんとうにびっくりしてしまうのだけれど、この映画のなかでひとはほんとうにほかの映画とはちがうふうに動いて、しゃべっていると思う。ものの食べかた、話しかた、黙りかた、歩きかた、ものをテーブルから落とすやりかた、それを拾うやりかた、ひとがほんとうはどう生きているかを見せてくれる。ほとんどの映画では、役者に「黙らせる」やりかたを知っていない。映画のなかで役者は台詞がない部分をどう耐えるのか。わたしたちは現実においていつもしゃべっているわけじゃない。でも、映画のなかのひとはその現実におけるリアリティに耐えられないので、たとえば「ほかのひとを黙って見つめてしまう」。そしてそれを如実に示すために、カメラもそう動く。「ほかのひとを黙って見つめてしまう」、そしてそれにカメラまでもがくわわってしまうのは、役者が沈黙に耐えきれていないだけなのだと思う。ほとんどの場合役者は現実に負けてしまう。「ほかのひとを黙って見つめてしまう」というのは脚本であり、ト書きなのだと思う。役者は自分は演技をしているんだと思いこんでいるはずだ。でも、どうしてそれが演技だと言えるんだろうか。役者は演技をしているふりをして脚本を読んでいるだけだ。そしてそれをさせてしまう監督は映像と文章の区別すらついていない。だから、おそらく、監督は映像を撮っているつもりで文章を書いているだけだ。わたしは映画を見るし、見たいと思う。わたしが見たいのは映像なんだと思う。わたしは、小説家は文章を書くことを仕事にしたほうがいいし、映画監督は映像を撮ることを仕事にしたほうがいいと思う。
 この映画でもっともすぐれているシーンは、ユキの「開けといてー」(日本語)だと思った。子供はそういうしゃべりかたをするんだ、ということがすみずみまで痛感させられる、すばらしいシーンだった。圧倒的な空気感を保って進行するこの映画はわたしにとってホラー映画だった。見ていて、すごくこわい。たぶん、現実もここまでこわいくないのだと思う。たぶん、わたしにとって現実よりも映画のほうがこわいということだと思う。音がこわい。映像がこわい。何が起こるのかわからないから、こわい。そしてこれは、宮崎駿「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」、そしてエリセ「ミツバチのささやき」の影響下にある作品だと思う。わたしがびっくりしたのは「トトロかよ!」ということだった。トトロ。2010年にもなって「トトロ」をやること、とっくに駆逐された日本的なものをアニメとしてではなく実写でやれてしまうこと、しかもフランスの俳優をおりまぜてやれてしまうこと、に、わたしはほんとうにびっくりした。こわい。この映画こわい。
「アバター」も「もののけ姫」みたいな映画だった。いま世界中で宮崎駿がやったことをどうするか、という運動が静かにはじまっているのかもしれない。はじまっていたら、たのしい。10年代が宮崎駿からはじまるとしたら、世界はなんてたのしいんだろうか。
 公開初日だったので、ぴあのひとが出口調査をやっていた。急に話しかけてくるのはぜんぶこわいひとだと思っているので無視しようとしたけれど、「ニナとユキ」があまりにもおもしろすぎて、「今年はまだはじまったばかりなのに今年のいちばんおもしろかった映画はこれだなあ。これはみんな見にいったほうがいいなあ。俺はもういっかい見にいきたいなあ」と思っていたので、思わずたちどまってしまった。なんでもしゃべってみたい気持ちだったけれど、「点数と表すと何点ですか?」、「ストーリー・音楽・俳優などを5点満点で採点してください」と言われているうちに、なんだかげんなりした。点数ならいいんだけれど、「感想」を書くときに上に書いたことをまじで書いたらすごい気持ちわるいし意味もわからないし恥ずかしいので、点数だけ書いて逃げてきた。95点をつけた。100点だと気持ちわるいと思ったので。

   ◇◇◇

 渋谷まで行ってジャック・ロジエ「オルエットの方へ」を見た。3人の女の子がバカンスに行ってきゃぴきゃぴしているだけの映画だった。「3人の女の子がバカンスに行ってきゃぴきゃぴしているだけの映画」と書くと「うそだろう。もっと展開があるんだろう」と思うかもしれない。展開があったとしても最初の10分と最後の15分くらいだけで、あとはずっときゃぴきゃぴしている。ほんと。きゃぴきゃぴしているだけで2時間40分以上ある、とんでもない映画だった。むだに長い。むだすぎる。うなぎをさわって「きゃー!」と言っているだけのシーンだけで15分とか20分あったような気がする。ばかか。もう監督は尺なんて気にしてないんだろう。そんなもんどうだっていいと思っているんだろう。衝撃的だ。すてきすぎる。さすがにずっと見ていると飽きる。飽きるけれど、たとえばぴあのひとがいたら「83点!」と言っていただろう。ほんとうにおもしろい。この映画もドキュメンタリータッチで描かれた映画で、わたしはドキュメンタリーの手法で撮られた映画を見ると無意識におもしろいと思ってしまうから、たぶんいけない。ひさしぶりに「やっぱりヌーヴェル・ヴァーグってすごいんだなあ」と思った。
 よのなかにはおもしろい映画が多すぎていけない。月曜日には見事に見逃していたワイズマン「パリ・オペラ座のすべて」とカネフスキー「ぼくら、20世紀の子供たち」を見にいってこようと思う。学校なんてどうでもいいや。るーんるん。

   ◇◇◇

 夜からは小説新人賞をとるための勉強会的なものへ。さいきん、びみょうに改行について考えていて、わたしはできるだけ改行できないような文章のつくりを考えようとしている。それはやっぱり、荒川洋治が「詩は改行だ」と言っていたことにつながっているんだと思う。同じように「小説は改行だ」ということも思った。小説は散文で描かれるものだから、散文を書かなくてはいけない。でも、わたしはほんとうに散文を書いているんだろうか。1、2行で改行されてしまう文章はそんなにかんたんに散文たりえているんだろうか。わたしは難しいことだと思っている。江國香織の「ウエハースの椅子」を注意深く読めば、彼女がいかにうまく改行しているかわかると思う。改行とはエンターキーのことだ。それはひとつの文字かもしれない。江國香織を読んでいてすごいと思うのは、改行じたいがひとつの文字として現れてくるような散文の書きかたをしていることだ。それとは逆に、わたしが最近ずっと(がまんして)読んでいるプルーストは改行をしない。

 ノルポワ氏をはじめて晩餐に招くという話がもちあがったとき、私の母が、あいにくコタール先生は旅行中だし、またスワンには母のほうでおつきあいをやめてすっかり疎遠になってしまった、このお二人ならきっと元大使のノルポワ公爵のおもしろいお話相手になっていただけるのに、と残念そうにいったので、父は、コタールのようにりっぱな相客、有名な学者ならば、晩餐の席を気まずくしそうもないが、スワンときては、やたらに見えを張ろうとして、自分のつまらない交際まで一々大声で言いふらすのだから、あれはこけおどしの怪物で、ノルポワ公爵のようなかたは、その口ぐせを借りるならば、おそらく「鼻持のならない」男だとお思いになるだろう、と答えた。

 どこまで行ってもずっと同じようなことが書いてあるのでこれ以上引用しないけれど、ここで描かれているのは具体的な身体的描写ではなく、「だれが何を言ったか」ということしかない。プルーストはそれを会話文で書かずに、地の文の押しこめてしまう。でも、たぶんこれは「描写」だろう。ただ、プルーストのまねをしてもろくなことにはならないかもしれない。もっとたんじゅんに参考になるのは、現代の作家だ。

 姿勢を戻すと、ちょうど向かいに、たぶんわたしと年の変わらない女の人が座っていて、こっちを見ているのに気づいた。ベージュのトレンチコートを着ていて、髪はとても短かった。跳ね上がったアイラインが目立って濃かった。膝の上に置いたキルティングのバッグの上に両手を重ね、電車の中では珍しいくらいきちんとした姿勢で、まっすぐにわたしを見ているのだった。鳥みたいな表情のない目だった。でも、わたしが彼女を見ていても、なぜか視線が合わないように感じた。わたしの顔を見てるんじゃないかもしれないと思って、わたしは前の座席のほかの人たちに視線を移した。七人のうち四人は携帯電話を覗き込んでいて、二人はしゃべっていて、あとの一人が彼女だった。走ったせいか暑くて、背中に汗がにじむのを感じた。
 もう一度彼女を見てみる。まだこちらをじっと見ている。彼女がわたしの顔を見ているのかそのうしろの窓に映る彼女を見ているのかそれとも違うところを見ているのか、わたしにはわからなかった。

 
 柴崎友香「星のしるし」のいちばん最後の文章だ。ここには視線の動きが描かれている。何を見て、何がどうなっているのかが描いている。これも「描写」だと思う。
 じつはこの文章を読んでも、「女の人」がどういう外面をしているのかわからない。「ベージュのトレンチコートを着ていて、髪はとても短」く、「跳ね上がったアイラインが目立って濃かった」。これだけだ。そして、じつを言えばこれだけでじゅうぶんだ。それでも、この「女の人」がきちんとしたリアリティをもって存在するように見えるのは、「膝の上に置いたキルティングのバッグの上に両手を重ね、電車の中では珍しいくらいきちんとした姿勢で、まっすぐにわたしを見ているのだった。」という文章があるからだ。わたしの考えだと、小説ではひとの外見をほとんど描けない。たとえば、「つんと上を向いた鼻に、アーモンド型の瞳をしていて、髪は短い」とかそういう外見をならべても、わたしは小説をそんなにまじめに読んでいないので、2秒後にはもうそんな「情報」を忘れている。いちいち、わたしはひとがどういう姿なのかを想像して、読むことはしない。だいたい、なんでお客様である読者がそんなめんどうくさいことをしなきゃならないのか。そうじゃない。たぶん、わたしたちがするべきことは「読者に人物の情報をあたえて想像させること」ではなく、「読者に想像させることなくその人物を存在させること」だ。だから文章に必要なのは「説明」や「会話」や「心内語」ではなく「描写」だと思う。
 小説において、そのひと(場所)を存在させることができるのは「そのひと(場所)の外面的特徴をならべることではなく、そのひと(場所)がどう動いているか」を描くことだと思う。そのひとを存在させるのは、たぶん「動作」だ。
「走ったせいか暑くて、背中に汗がにじむのを感じた。」
 この一文は、「それより前の文章と改行後の文章のつながりがわるい」という理由からいれられた(「あとの一人が彼女だった。もう一度彼女を見てみる。」というのではつながりがわるい)と思うけれど、それだけではなく、「走ったせいか暑くて、背中に汗がにじむのを感じた。」というのは一呼吸ぶん時間経過を表している。だから、柴崎友香の小説では「小説のなかできちんと時間が流れている」んだと思う。くわえて、この一文には「わたし」が気になっている「彼女」を見ることへのためらいなど、さまざまな要素がつめこまれている。そして、たぶんだけれど、にわかには信じられないくらいおそろしい文章の不思議だけれど、「わたし」の「背中に汗がにじむ」という「わたしの身体的描写」が、同時に目の前の「女の人」の存在をよりくっきりと浮かびあがらせることにもなっている。
 それはとてもとても、たんじゅんなことだ。何があって、それがどう動いて、その動きについてひとがどう感じるか、けっきょく一人称の独白というのはそういう描写の一連の流れの一部でしかない。それが「流れ」であるなら、改行をするのはじつは危険なことだと思う。やるなら、改行までもが描写の一連の流れの一部として成りたつようなうまい改行のやりかたを考えるべきだと思う。もちろん、これはうがった意見かもしれない。太宰治もブコウスキーもドストエフスキーもそこからはずれた描きかたをしている。でも、使っていないわけじゃない。太宰治「右大臣実朝」の蟹をとるシーン、「ヴィヨンの妻」できらきらコップが光るシーン。それは柴崎友香がやっていることと基本的には同じだとわたしは思う。もしはずれたものを書きたいなら、それはもう、個別に見て学んでいくしかないと思う。ひび、べんきょう、べんきょう。みゃんみゃん。




コメント
私も初日に観に行きました。

実は、私も「神隠し、じゃぁないか!」って
思ったんです!

また、観に行って、いろんな事を感じたいと思います。
【2010/01/24 23:57】 | Nadia #- | [edit]
あれは、「神隠し」ですよね!
まさか! でした。 
ユキもニナもかわいいし、すごく、いい映画ですよね!
【2010/01/26 10:24】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
私、占いをもう10年以上も師匠についてて勉強してまして、
あるエピソードで、師匠が、祐気取りで、韓国に行こうと成田に向かったら空港で、「パスポートがない!」と気づいて結局、行けなかった事があったんです。その時「あれは、神隠しだ。。。」とマジに師匠が言うんで、「そんな事あるんかなぁ~?」と私は、思ったんですが、
神が、そうさせる運命って、あるのかもしれません。実際、森は、神さまが、住むところでもありますし、神社の『社』って『もり』って読みますよね。
物語の中で、ユキが、切羽詰まったところで、まるで自殺行為のごとく、森の中に消えて行く。。。。そこで、神は、ユキをあんなところまで連れて行った。。。のではないでしょうか?

ユキの表情は、何とも言えませんね!ニナとの対比が面白いですね~。

知り合いの森の研究をされている方が、森のなかで、ふたりが遊ぶシーンに深い感想を行っていました。『動いちゃ駄目よ』という遊びの中に、フランスにも日本にも属せないハーフのユキは、エッジに立っていて、エッジというのは、とても危険な場所なのだと。。。その遊びを森の中で、無意識にやっている事がすごい!と。。。ちょっと深すぎて、そこまで考えてそのシーンを観ていなかった私は、もう一度確認せねば!と思いました。
それに、この映画は、観る人のレベルや今考えている事によっていろんな見方が、できる映画だなぁ=と思いました!
【2010/01/26 14:58】 | Nadia #- | [edit]
僕も「開けといてー」のシーンは印象に残りました。

ただ、僕はこの「開けといてー」を無視してはならないというのがこの作品の出立点であり、逆の意味でこの映画の象徴なのかなと劇場で反応してました。
別の捉え方であのシーンに反応したのは面白いなと思い、ついコメントさせてもらいました。
(むろん、こどもたちは自分でドアをあけるんですけどね。)

前作、「不完全な二人」の、ホテルのドアといい、ドアは諏訪監督の映画のキーのひとつなんではと感じています。
【2010/01/27 04:41】 | アツシ #- | [edit]
正直、神様的なものをこれっぽっちも信じていないのが申しわけないくらいなのですけれど、森のなかへ消えていくシーンはこの映画のなかでもいちばん「わけのわからないところ」なんだと思いました。家族的なものにふれること、でもけっきょく友達がみんな帰っていってしまうことへの恐怖にふれること、神隠し的なものから帰ってきたユキが最初に出会うのはニナではなくて父親であることの象徴などなど、いろんな、さまざまな解釈があって、おもしろいですね。
「ニャニャニャ!」がかわいかったのでもういっかい見たいです。
【2010/01/28 08:39】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
ぜんぜん気づかなかったです。そうかもしれません。
聞いていたのがケンカの声、というものからして、深いシーンかもしれませんね。


> 前作、「不完全な二人」の、ホテルのドアといい、ドアは諏訪監督の映画のキーのひとつなんではと感じています。

「不完全なふたり」を完璧に忘れていたので、昔書いた自分の感想を調べたら「ドアをはさんでふたりのうち片方がずっと見えて、もうひとりのほうは見えないというカメラワークが多用されていました」ともろに書いてありました。やっぱりこわいです。
【2010/01/28 08:46】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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