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12時前にばしっと起きて

2010.02.02(16:39)

中国の植物学者の娘たち スペシャル・エディション [DVD]中国の植物学者の娘たち スペシャル・エディション [DVD]
(2008/04/25)
リー・シャオラングエン・ニュー・クイン

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 2010年2月1日(月)

 12時前にばしっと起きて、勅使川原三郎「オブセッション」のチケットをしゃきっととった。わくわく。
 謝恩会のホテルのほうに電話をしないといけなかったのだけれど、ぐずぐずしているうちに、向こうから電話がかかってきてしまった。いまから会場を探している学科もあるみたいだ。これで学校に行く理由がなくなってしまったので、明日まで学校に行かない。ファックスでコース案が送られてくるので確認して、また詳細を電話する。
 アルバイト先の店長のTERUさんが、わたしが火曜日にアルバイトに行くまで「ジャンプとっておく?」と言ってくれたので、とっておいてもらう。だいたい、「ジャンプ」は月曜日に売りきれてしまう。ひどい。
 カレーうどんを食べた。カレーうどんがおいしい。

   ◇◇◇

 昨日管城さんが「どうやらわたしがわりかし好きなジャズはビバップと呼ばれているものらしいということにさいきん気がついた」と言っていた。「カウボーイ・ビバップ」のビバップがジャズのジャンルだということを初めて知った。ジャズ。わたしは「ジャズは菊地成孔しかまともに聴けない」という奇病にかかっている。菊地成孔はどうしてこんなに聴きやすいんだろう。ふしぎ。

   ◇◇◇

 早稲田松竹は、2月27日からアンゲロプロスだからぜったい見にいかなくちゃいけないし、3月13日から園子温「愛のむきだし」だからぜったい見にいかなくちゃいけないし、3月20日からはサム・ライミ「スペル」とタランティーノ「イングロリアス・バスターズ」だからぜったいに見にいかなくちゃいけない。遊ぶのでいそがしい! ぷんぷん! 新国立美術館の「ルノワール展」も行かなくちゃいけない。新文芸坐は、2月18日の森崎東「喜劇 女生きてます」と2月24日の鈴木清順「夢二」を見にいったほうがいいような気がしている。どうしよう。おもしろい映画なんてこの世界からぜんぶ消えちゃえばいいのに。

   ◇◇◇

 ダイ・シージエ「中国の植物学者の娘たち」を見た。これはとってもおもしろい映画だった。リー・シャオランがすごくきれいだった。わたしはあの足に踏まれていた練りもの(薬?)になりたい。彼女の父親の植物学者がすごいキャラクタで「お茶はいつも雨水でいれるように言っているだろう。ぷんぷん。私はいつの季節の雨かすらもわかる」とか言っていた。すごい。植物園ならではの展開があって、たとえば研修に来た主人公がうっかりまちがえてトリカブト(猛毒)を味見させようとして「もう少しでみんな死ぬところだったんだぞ!」と怒られるなど、はんぶん冗談にしか見えない異様さがあって、すてき。植物がとってもきれいだった。展開はアクション映画のように早いのに、映像じたいがゆっくりなので、見ていると速度をうっかりまちがえてしまう。この映画は女の子同士の同性愛を描いているせいで、中国では撮影許可がおりず、ヴェトナムで撮影されたらしい。中国って同性愛だめなんだ。ざんねんむねん。

   ◇◇◇

 平山夢明「怖い本(1)」を読んでいる。心霊系の話よりも、たとえば、トラックに轢かれて下敷きになった女の子の身体をタイヤの下からぶちぶちとひっこぬいてそのままなんの意味もないのに身体を抱きしめたまま近くのもんじゃ焼き屋にはいっていって「どうにかしてえ」とさけぶ母親の、そういうありかたのほうが怖いしおもしろいと思う。もんじゃ焼き屋って。小説や映画でも、子供が轢かれたとき「いやああああ!」とさけぶばっかりじゃなく、もんじゃ焼き屋にかけこむぐらいのリアリティがほしいと思う。高橋源一郎は「ひとびとはみんな愛しあうべきだと言い、だから『ウィー・アー・ザ・ワールド』を歌おうと言います。でも私は、だったら父親と娘がセックスをしたほうがチャーミングだと思うのです」とかつて言った。子供を轢かれた母親はもんじゃ焼き屋にかけこむほうがチャーミングだと思う。



 2010年2月2日(火)

 朝起きたら、今村さんにでぃすられていた。おお。あたしはでぃすってるつもりはないけれど。まいまい。

みんなでデザインしたのだ、という
共有体験すらないことが95年以降の病理の本質だ。


 そうかもしれない。少なくとも、あたしにはまちがいなくないだろう。

逆に、あえて極端な言葉を選ぶけれど、
社会をデザインするツールとして、文学が有効だとは到底思えない。
『1Q84』が何百万部売れたからってなんなんだ。


 あたしも社会デザインのツールとして文学が有効だとは思わない。「1Q84」が何百万部も売れたからといってなんにもならなかったじゃないか、と言ったのはそもそもあたしだ。

 荒川洋治は「文芸時評という感想」という本のなかで、「文学とは実学だ」と書いた。いくつかの本を挙げ、「これらの本を読むのと読まないのでは人生がまったくちがったものになる」と言った。あたしはあんまり熱心にひとつの本に関わることができないので、「この1冊がわたしの人生を変えた!」ということはだいたい信じなくて、つまり、あたしにとって文学は集合やかたまりとしてしかほとんど認識されていなくて、だからここで荒川洋治がでてくるという無様な事態にもなっちゃうのだけれど、それはさておき、荒川洋治が言っていることはわからないでもなかった。たぶん、荒川洋治が挙げた本とはちがうものがわたしの人生で「役にたっている」だろうと思う。でも、すくなくともそれが社会にたいしてコミットメントするためのツールにはほとんどなっていない。個人で役にたつものが社会の役にたっていない(ようにどうしても見えてしまう)。

 管城さんの「スロウロウライフライブ」の「ひかりのようにあなたの命はまるで遠くから降り注ぐようでした」という日記にこう書いてあった。

 政治はたとえばがんばっているのかもしれないけれど、政治がなんとかしたいと考えているところに所属しているにんげんは政治がなんとかしようとしたところでなんにもならないのであって、政治がなんとかしようと思った時点でなんとかならないことが確定しているのであって、意味なら必要ない。

 社会がやろうとしてることは、それは小説の仕事だ。小説の仕事だし、映画の仕事だし、舞台の仕事だ。あるいは音楽の仕事かもしれないし、ダンスの仕事かもしれない。いずれにしても、それは社会の仕事ではない。


 社会のやろうとしていることはそもそも何なのか、あたしはそれからして知らない。かりに社会が「あたしを幸せに生きやすくするもの」だとしたら、なんというか、それはやはり小説の仕事で、映画の仕事で、舞台の仕事で、音楽の仕事で、ダンスの仕事かもしれない。そして社会があたしのための社会でありえるのならば、社会は小説や音楽や映画の上に成りたつべきであって、社会を土壌として小説、映画、音楽が成りたっているのならば、やはりそれはちがうような気もする。

 200年以上前、西洋社会は「自由・平等」を謳いあげながら、徹底的に非西洋人種を差別していた。彼らにとっての自由・平等は世界的なものではまちがいなくなかった。その現場を目の当たりにした本居宣長は、支配されるアジア・支配する西洋諸国という対立ではない第三世界的な立場としての日本を確立し世界にアプローチしようとした。そう思った彼は、何をやったのか。西洋諸国に「日本はいい国ですよ~こんな文化がありますよ~こんな物がありますよ~仲良くしましょうね~」と言いにいったのか。ちがう。「古事記読もうぜ」と言って、古事記を読んだ。ばかだ。ばかすぎる。でも、その結果何が起きたかといえば、たとえば、あたしがアナ・トレントを見て「なにこのこちょうかわいい」と言えるようになった(というような一連な話はまちがっている可能性がだいぶ高いのであたりまえだけど信じないでください)。
 本居宣長はほんとうには何をやったんだろうか。アナ・トレントを見て「なにこのこちょうかわいい」と言うこと、言えることをあたしはいまのところ価値の最大のところに置いているし、置こうと思っている。たぶん、それはひとつの文学のありかただった。「日本の立場」というところから出発し「自衛隊を海外に派遣しましょう」と言うひとはいっぱいいるけれど、「日本の立場」から同じく出発し「綿矢りさを読もう」というひとはたぶんあんまりいない。
 そして「日本社会の一員としてNPO活動をしよう」と言うひとはそれなりにいても、「日本社会の一員として綿矢りさを読もう」と言うひとはあんまりいない。選挙の日に部屋にこもって綿矢りさを読んでいると「きみは日本国民としての自覚がないのか!」とえらいひとに怒られる。すいませんでした。そして何故怒られるのかといえば、社会という土壌の上に正しさが構築されていて、その正しさによれば「選挙に行かないひとは日本国民としてだーめ!」ということになっているから、らしい。でも、それは「社会の正しさ」であって「個人の正しさ」ではない、と、いまのところは思っている。

「教育」は押しつけがましい。
「政治」は胡散臭い。
「成功」は鬱陶しい。


 そのとおりだと思う。でも、「文学」もそれと同程度、あるいはそれ以上のレベルでものを押しつけている。このブログのありかたは少なくともそうなっている。だから、それはあたしがおかしいか、文学がおかしいか、今村さんがおかしいか、みんなおかしいか、たぶんどれかだと思う。

   ◇◇◇

 あと「夢」、「想い」、「アツい」というコンテンツの流通を基底とした社会なんてあたしはいやだ。動くのがきらいだし、無感動なにんげんだし、夢も希望もないにんげんだし、そんなあたしみたいななまけものにやさしい社会がいいな。

   ◇◇◇

 高橋源一郎がオウムについて「麻原さんの言う解脱は解脱というひとつの存在しか表さないで、ということは、『解脱ってなんですか?』という意見すらも受けいれないようなやりかたで存在していて、つまり、ここで使われている言葉は非常に貧しい」と言っていた。
「解脱しなさい」と言われて「はい解脱します」と言うほうがおかしいに決まっているんだから、「選挙行きなさい」と言われて「はい選挙行きます」と言うほうがおかしいと思う。だって、あたしも解脱も選挙もしたくないもん。
「解脱」と「選挙」はちがうじゃないか言われれば「そうです」と言う。選挙は「この社会の根幹のシステムを支えるものであって、社会的に必要なこと」で、解脱は「なんかうさんくさいもの」だから。でも、どっちもやりたくないものだ。
 岡田利規のチェルフィッチュ「フリータイム」は、「朝、仕事前に30分くらい、喫茶店行って、コーヒー飲みたいんだけれど、でも、それには早起きしなくちゃいけなくて、えー、って感じで、」ということを1時間以上だらだらしゃべりつづけるという演劇だった。そしてそれはあたしにとってちゃんとリアルだった。だから、あたしは国会中継の場で「これは政治にもっともたいせつなものです」と言って「フリータイム」の演劇を始めればいいのに、と思って、そういうふうな文学的押しつけを低い温度で、やる。
「選挙行きなさい」はもうリアルじゃない。

   ◇◇◇

 学校行く気をなくしたので、今日も行かない。ぷんぷん(家で論文は書くよ!)。




コメント
選挙は、ですね

義務とか権利とかいうよりも、正しいとか間違いよりも
損得の話だと、僕は考えてますよ!

日本の民主主義が「選挙に行った人」による多数決だとすれば
ぽけー としてると、「選挙に行く人」ばかり得をするルールが勝手に作られちゃいます!

若者が選挙に行かないと、老人に有利な社会になっていくし
貧乏人が選挙に行かないと、金持ちに有利な社会になって

投票率が低いと、組織票が強くなるんで、政治家は余裕こくと思います。
どうせ当選者は何万票も差をつけて勝つんだから、誰に入れるかは、そんなに
問題じゃなくて、投票率が上がることが重要だと思います。
浮動票が増えるだけで、政治家は、あせると思います。

ただの多数決じゃなくて、少数意見にも耳を傾けるのが、理想の民主主義だけど
とりあえず2大政党でも、選べるだけラッキーていうか
この普通選挙制度が日本にあることが僕は大好きです。

王政なんて最悪じゃないですか、革命起こすなんて疲れるし、死ぬし、いやです。
投票所まで、てくてくあるいて、えんぴつでてきとうな名前をかくだけで
政治家をびびらせることが出来る。 今の日本は、じゅうぶんに、
なまけもののためのシステムが確立してますよ!まだ、なまけたりないのか!

うん、これは、おもしろくないコメントを書いてしまいました。
おもしろくなかったら、なにもかも台無しだとは、思います。
政治家は、歌をうたうべきですね。
【2010/02/02 17:43】 | くだもの #mQop/nM. | [edit]
あなたのブログは薄っぺらくて好感がもてる。
楽しみにしています。
【2010/02/02 20:23】 | みぼうじん #- | [edit]
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