- 2007-07-27(金)
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卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)
- 南条 あや
- 新潮社
- 500円
livedoor BOOKS
書評/心理・カウンセリング


南条あやの、『卒業式まで死にません』を読みました。
南条あやはご存知の方も多いでしょうが、リストカットシンドロームでクスリマニアで、18歳で服薬自殺した女性です。彼女の残した、死の直前までの三ヶ月の日記です。
私は、どこかでネットというものを軽蔑しているのでしょう。そこに散らばった文字たちを、本に書かれた文字たちとは、違うように見ているのでしょう。たとえば、貞奴の詩がネット上で公開されたときに読んだとして、それを果たして良いものと認められたかどうか。作品の良さとは思いこみで決まるもの。それは正しいかもしれませんし、正しくないのかもしれません。けれど、思いこみのなかでその良さを認めながら、氾濫する他者の意見に負けてしまう、自分がいます。
それがとても悲しいのです。
いろいろな本を読もうと思いました。私は、小説ばかり読んでいます。けれど、それではいけないと思いました。何故か、わかりませんが、いけないと思いました。最近は、小説と小説以外のものを、交互に読んでいます。決して良い読み方ではないと思いますが、私にはそうすることしかできません。
『卒業式まで死にません』感想を書く前に、すこしだけこの本を褒めておきます。
私は、ネット上で他人の日記を見ません。自分の日記を綴り公開するつもりもありません。
小説以外の作品に、読むに足る文章の書き手がいるのか、と思っていました。ノンフィクションなんか読んだところで、おもしろいのか、と。私は、それが本である以上、文章が上手な書き手によって書かれたものでなければ、読みません。
南条あやは、文章がうまいです。同じ系統の本を、何冊かぱらぱら見たことがありますが、おそらく南条あやは本物です。
ですが、それは文学的とは違います。日本語として破綻しているところがあります、それも技巧的にではなく、未熟さゆえに。けれど、それでも南条あやは文章がうまいと言っていいと思います。
南条あやは死の直前に四編の詩を残しています。それは、べつにうまい詩じゃありません。むしろ、へたくそです。四編のうち、『名前なんかいらない』と『終止符』は、へたくそだけれど、そこには何かがあるのです。
起きなくてはいけない時間に起きて
しなくてはならない仕事をして
名前を呼ばれるなら
誰にも名前を呼ばれたくない
これが『名前なんかいらない』の前半です。
けっこう、好きです。
南条あやの日記は、その内容とは裏腹に、異常なまでにポップでユーモラスに書かれています。
頭の中は「リタリン飲んでみたいーー☆バルビツール酸系催眠剤よこせーーー四環形はイヤじゃーーー」などと好奇心と知識でいっぱいです(笑)
これを利用して医師の前で多重人格でも演じてみたいです(笑)
この頃困ってるのは水をがぶがぶ飲むようになって一日四リットルくらい飲んでいます。多飲症です。
あと、時たま、ホンの少し幻覚が見えます。困ります。でも楽しく精神科ライフを送ってます。
引用するところがまずかった気がします。ここだけ引用したら、ちょっと文章がへたくそに見えてしまうかもしれません。それは「ーーー」や「☆」などの使いかたのせいかだと思いますが、それを除けば、なかなかの文章です。
このポップさが、痛々しいです。たとえば、精神的な病気をかかえていない人が、病気のふりを装って、何か書いたとします。すると、それは、鬱々とした、暗い文章になってしまうのではないでしょうか。何故なら、その人は病気の実際を知らず、想像やイメージで書くしかないからです。そして、暗く書かないと、その人は病気っぽくないと思いこんでしまうのです。それは、その人が何も知らないからです。そして、何も考えていないからです。その人は自信がないのです。病気を想像して書くということに自信がないから、その人は鬱々とした文章しか書けないのです。
南条あやは本当の病気を知っています。だから、彼女はポップを文章を書けます。何故なら、彼女は自信を持っているからです。何かを装う必要がないからです。だから、平気でポップな文章を、そこに存在するリアルを書くことができます。この文章を読めば、自然と彼女の苦しみを知れます。ときとして、鬱々とした文章よりもはっきりと、私たちの心に苦しみを訴えます。
そして、この日記がすごいのは、「物語化」していないことです。彼女は家で寝てばかりですので、日記にあまり書くことはないのです。けれど、彼女は書きます。普通の日記は公開している時点で物語になってしまいます。私は、物語に疑念を抱いているので、物語と化した日記を読む気はありません。そこには、なんにも書かれていないとしか思えないのです。南条あやの日記は、最後まで日記でありつづけたような気がします。
ヴォイスが届きます。読んでいるうちに、南条あやのヴォイスが心のなかの一部分を埋めていくのがよくわかります。そして日記をすべて読み終わったとき、心のどこかにたまっていたそのヴォイスがどこかへ発散していくのを、知れます。それは快感にも似た感情でした。けれど、どこか違う。寂しさ、というのが近いかもしれません。きゅっと不安になり、たしかに心を占めていたはずのものはどこへ行ってしまったのだろう、と思うのです。「死」とは、そういうものかもしれません。
『南条あやの保護室』というホームページがあります。彼女の婚約者と、有志でつくられたページです。南条あやのメモリアルページということで、半永久的に存続していく、ということです。
私は、『卒業式まで死にません』という本は読むべきだと思います。ですが、そのホームページについては嫌悪感を覚えます。
いわゆる、病める若者のカリスマとなりえる人たちはたくさんいます。村上春樹、太宰治、リリイ・シュシュ、そして南条あや。それが救いになっているという意見もあるかもしれません。が、私はその安易な偶像化には危険を感じます。
南条あやのページは偶像化しているとしか思えません。
99年5月12日、死体検案書という一枚の紙切れが、この一連の物語の最後に残りました。
何よりわからないのが、婚約者のこの言葉です。そこで「物語」という言葉を使ってしまうのが、私にはわからないのです。
もちろん、婚約者の方の気持ちを私はまったくわかりません。南条あやの本を読んだからと言って、「僕には南条あやの気持ちがわかった」なんて言いません。舌を噛み切っても言いません。
だから、今日私が書いたこの文章も、本来ならネットで公開するべきではありません。私は何もわかっていないのに、南条あやについて何か書こうと思っているのです。何か書きたいと思っただけなのです。私のこの文章はネットのなかのありふれた言葉として、埋もれていくでしょう。その現象がいったい何なのか、それすらも、私にはわからないのです。
南条あやが小谷美紗子を好きらしいです。何故か、とてもうれしく思いました。


コメント
初めまして
生で小谷美紗子の歌を聞く機会に恵まれました。
植物園のドームの一角だったんですが
辺り一面の植物たちが共鳴しているようで凄かった。
その時演奏したのが ”火の川” や ”生けどりの花” だったせいか
自分もアルバムの中では ”うたき” が一番好きです (^^)
この記事の中で
>このポップさが、痛々しいです。
>たとえば、精神的な病気をかかえていない人が、病気のふりを装って、何か書いたとします。
>すると、それは、鬱々とした、暗い文章になってしまうのではないでしょうか。
>何故なら、その人は病気の実際を知らず、想像やイメージで書くしかないからです。
と言う部分、何故か酷く心に突き刺さりました。
自分の身の回りにも、様々な心の病に苦しみ
そこから派生する、社会からの差別的な対応と闘っている人が居ます。
例えば鬱だったり、例えば性同一性障害だったり、多重人格性障害だったり。
ですが確かに彼らは明るい。
調子の良い時は、普通の人間と同じように笑ったりもする。
調子の悪い時でも、何かから逃げるように躁状態を貫いてる時もある。
それに対し、net上で出会う ”自称、鬱” の人は大抵‥‥鬱々とした暗い状態ですね。
病気について自信がないから暗く書くしかない‥‥確かにそうだと思います。
興味深い考察(?)だったので、失礼ながら長文コメントさせて頂きました。
では、失礼します m(_ _)m
「うたき」はまさしく傑作だと思います。このあいだのライヴに行ったのですが、やはり「火の川」は特に印象深い一曲でした。すさまじいパワーがあるな、と。
心の病を抱えた人は、僕らよりも死に対する抵抗がなく、死に近いところにいるかもしれません。けれど、それがイコール、「生から遠ざかっている」ということにはならないと思うのです。
「自称・鬱」の人も、鬱の人も、「暗い文章を書くな!」というわけではありませんが……。
ポップに書くと、「そんなふざけたような書き方は、他の実際に苦しんでいる人たちに失礼だ!」と非難されたりします。ですが、その非難はおかしい気がします。僕らは、何故苦しむ人にさらに「暗さ」を押しつけてしまうんだろう、と。
実際、苦しんでいる人たちがどう思うか、僕なんかにわかるはずがないのですが……。
で、頂いたお返事見ていて思った (思いだしたに近いかな) ことをひとつ。
>心の病を抱えた人は、僕らよりも死に対する抵抗がなく
>死に近いところにいるかもしれません。
この部分なんですが‥‥
医者から相当強い抗鬱剤を処方されていた知人等
自分の知る限りの心の病を抱えた人のことを考えてみると
『死に対する抵抗が無い』 というよりもむしろ
『”平常な状態” から ”死” にシフトする際の ”遊び” が非常に少ない』
といった感じの表現の方がしっくり来るような気がします。
追い詰められて追い詰められて死に向かっていく‥‥では無くて
急降下しては浮上し、急降下しては浮上し、の繰り返しの中
ある一線を越えて沈み込んでしまった時、発作的に死を選ぶのではないかと。
文章を書ける時 = 文章を書く余力がある = 浮上時 だとすると
その文章が暗く鬱々としたものだろうが、妙に明るいものだろうが
心に葛藤を抱えながらも ”死” に対して必死に抵抗している姿なんじゃないでしょうか。
自分は ”どくとるマンボウ航海記” という
作家かつ精神科医 (で、ご本人も躁鬱病)の北杜夫氏の本が好きなんですが
痛快なエッセイで、ところどころ入る妄想部分は常人の発想を超えてます。
『心の病 = 暗く沈みっぱなし』 という
固定概念に囚われてる人達に読ませてやりたい (ーー;)
>心の病を抱えた人は、僕らよりも死に対する抵抗がなく
>死に近いところにいるかもしれません。
たしかに、ここの部分は適切ではなかったように思えます。
心の病を扱ったエッセイや小説を読んでも、病気を抱えた人は正常なときと不安定なときが交互にやってくるなか、必死に戦っているようです。抵抗力がない、などの言い方はずいぶん失礼なものかもしれません。ないわけがないので。
固定観念に縛られないようにものを書きたいものですが、とても難しく、反省のしっぱなしです。
文章に関してですが、「鬱を装った文章、たとえばエンターテインメント小説で鬱病の人を主人公にして(病気ではない人が)文章を書く場合」と、「本当に病気な人が文章を書く場合」と、どちらの場合を言っているのかすこし混乱しているのですが、後者の場合について少し書きます。
これは、もちろん好きに書けばいいことです。ポップに書こうが、暗く書こうが、それがきちんと考えられた真摯な文章であったなら、どういう形であれ、否定することはできません。文章を書くという行為が当人に何をもたらすのかはわかりませんが、文章は、自分が書きたいように書くのが一番でしょう。
北杜夫は未読なんですが。躁鬱病で精神科医だったんですね。躁も躁で大変そうな気もするのですが……。