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夜を失った星空の下の農民たち

2010.02.05(00:06)

わたくし率イン歯ー、または世界わたくし率イン歯ー、または世界
(2007/07)
川上 未映子

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 2010年2月2日(火) 夜

 月のはじめなのでアルバイト先にたくさんの荷物がはいってきて、忙しかった。お客さんのおばちゃんに同情されてコーヒーをおごってもらった。ウリ・ジョン・ロート「メタモルフォシス」に感動して、触発され、ロス・カナリオス「シクロス」も聴いた。こっちもたのしい。今年はヴィヴァルディックな一年かもしれない。
 賞味期限のきれた「まるかぶりずし」を食べた。お寿司ってふつうぜんぶまるかぶりだよねと思った。「HUNTER×HUNTER」を読んだ。おもしろい。今週は「ジャガーさん」もおもしろかった。くだらなさが極限に達しつつある。



 2010年2月3日(水)

 午後5時頃に起きた。そとは暗くて、つめたさがひどかった。暖房をつけたけれどなかなかあたたまらなくて、家のなかで凍えていた。図書館に行って本を返して、高橋源一郎「いつかソウル・トレインに乗る日まで」と川上未映子「わたくし率イン歯ー、または世界」を借りてきた。学校に来た。エアコンのとりかえ工事がまだ終わっていないので、エアコンがつかなくて、寒い。エアコンのない学校はスノータイヤのない車と同じくらい致死率が高い。寒すぎて、うっかり死んじゃう。
 ほかのひとのことを書くことを思った。書かれたひとにとってそれは蹂躙かもしれない。たんじゅんに「書かないでくれ」と言われたらわたしはほかのひとを書かないと思う。でも、わたしはどうしてもそのひとを好きなのかどうかがずっとわからないし、ほんとうには好きではないような気がいつもしている。だから書くことでそのひとを好きになることができるのならばそれでいいと思った。だから書きたいと思ったし、思っている。あのひとがなんとかと言った。そういうたんじゅんな、つたないことからでいいから、書きたいと思った。
 死ぬことはがこわいと思っていたけれども、さいきんこわくないんじゃないかと思った。でも痛いのはいや。なんにも考えられなくなることはこわいと思ったけれども、なんにも考えられなくなることはやさしいことだと思った。昔の農民はどうして生きていられたんだろう。わたしは昔の農民を尊敬するし、ばかにするし、軽蔑しているんだと思う。



 2010年2月4日(木) 明けがた

 アルバイトを終えて、学校に来た。Fさんと「携帯電話は文房具と同じだ」という話をした。つまり、「高校を卒業したあたりでとくにお金をかけなくなるという」ことらしい。「俺、昔見栄はって500円くらいのシャープペン使ってた」とFさんは言った。「俺、ふでばこが100円ですよ。小学校のときのほうがいいもの使ってた…」とあたしは言った。
「知りあいの知りあいで150万円で家を買った」とFさんが言った。「それはビニールハウスですよ」とわたしは言った。真相は傷ついた花束のように闇のなかに葬られていった。
 川上未映子「わたくし率イン歯ー、または世界」に衝撃を受けている。22ページまで読んだ感想を少し書く。まず、11ページの「紙に書いてきました」で爆笑したんだけれど、問題はその紙に書かれた文章で、これを読んでわたしは1月の七尾旅人のLIVEに出演した後藤まりこが音読した自身のラブレターを思いだした。たぶん、この連想が川上未映子の文章の多くをとらえているとわたしは思った。川上未映子の文章はその「文章」から「音声としての言語」を想起させるように書かれていて、それは、たぶんじつは「実際にひとがどうしゃべっているか」に近づくように文章を書くことによって達成できるものではないと思う。川上未映子のすごさは、たぶん、ひとはそうしゃべるものではないのにもかかわらず、文章が音声が立ちあがってくるところだと思う。川上未映子の文章は「文章」でも「しゃべり言葉」でもなく、「しゃべられた手紙」だ。

 オセロのぺたこん

 なかなかどうしてやっぱり確かに専門医はさすがやな、とほとんどの感服がわたしをころっとやるのでした。

 その発話と同時に医師の白い袖が、わたしの両目の端に飛んできて、それがあまりにぱりっとしてるものやから無目的な郵便はがきのようで少しのけぞり、


 川上未映子は何かを具体的に描いていない、「ぺたこん」「ころっと」「ぱりっと」のような言葉を使い重ねていくことで、こういう言いかたしかできないけれども、抽象を具体的に描いていっている。それが彼女の特異だ。現代の作家で言えば、岡田利規にいちばん近いと思う。
 ということは、カバー写真の川上未映子のあまりのかわいさにくらべればぜんぜんどうでもいいです。かわいい。かわいい。34歳とはうそだろう。だ まされない ぞん。図書館から借りた本だけれどきりとってポケットにしまっておきたい。みんな「パンドラの匣」は見たほうがいいと思う。映画自体は「中の上…」という感じだけれど、未映子さんがかわいくてかわいいので、見たほうがいと思う。

   ◇◇◇

「高良留美子詩集」の「自然から仮説へ」というエッセイのなかのランボーの言葉を孫引きする。ざくざく。

 銅が眼がさめたらラッパになっていたとしても、それはいささかも銅の落度ではありません。木がある日、ヴァイオリンである自分を発見したとしても、それは木の落度ではありません。

 目が覚めたとき自分が虫であることを発見したザムザに、ひととしての落度はなかった。

 私は一個の他人である。

 ランボーはこうも言った。



 2010年2月4日(木) 夜

 朝の11時睡眠、午後8時30分起床。「赤ちゃんと僕」を読んでから学校に来た。まだエアコンがなおっていなくて、寒い。これから修士論文を書いて、お昼になったら先生に提出しようと思う。
 が ん ば る 。




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