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池田扶美代+アラン・プラテル+ベンヤミン・ヴォルドンク 「ナイン・フィンガー」@彩の国さいたま芸術劇場

2010.02.07(21:13)

orbital periodorbital period
(2007/12/19)
BUMP OF CHICKEN

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いつかソウル・トレインに乗る日までいつかソウル・トレインに乗る日まで
(2008/11)
高橋 源一郎

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 2010年2月6日(土) お昼

 大学近くのアパートから実家へ帰ってきた。晴れていたのに雪が降っていた。貿易センタービルに飛行機がつっこんだとき、多くのひとが「映画みたいだ」と言ったらしい。でも、たとえば、わたしは渋谷を歩くとき、こわいので、音楽を大きく聴いている。そういうとき、渋谷の風景はただのPVになって、こわさはなくなる。そういうことと貿易センタービルはたぶん何も変わらない。わたしたちの街はずっとずっと、PVだった。
 高橋源一郎「いつかソウル・トレインに乗る日まで」を29ページまで読んだ。これは高橋源一郎が「セカチューOK、ケータイ小説OK」という思惑のもとに書いた小説だ、というふうに認識しているけれど、そういう認識のとおり、文章がとんでもなくひどい。

リビングには先客がいた。妻のヨウコだった。ヨウコはリビングで本を読んでいた。

次の日、ケンジが出社したのは昼すぎだった。

「女」の顔が目の前にあった。ケンジはまず違和感を覚えた。正確にいうなら、まず驚くほど美しいと思った。そして、ひどく若いような気もした。


 技巧も情緒も知性もない文章だ。文章にまともに気を使うひとならこういうことは書かない。もったいなくて、こんなどうでもいい文章で紙を埋めたくないと思うだろう。女子高生の形容のしかたも比喩の使いかたもひどい。「オヤジ」と「女子高生」の会話も想像を絶するひどさだ。うん。技巧も情緒も知性もない。「もう小説なんてどうでもいいや」ということかな。どうせ何を読んだってたいしたことは書かれていないんだから、文章に技巧をこらしたってなんにも変わりはしないんだということなのかな。
「高良留美子詩集」の解説に「シュールレアリストたちはものを見たあとそのもののいろいろ形容をすることに必死で、けっきょくものの見かたを変えることはできなかった」と書いてあった。
 この小説は最後まで読んだら感動できるんだろうか。「高橋源一郎だから最後まで読む」。わたしはそういうひとだ。そういうときわたしは読者のふりをした不具合なパロディでしかない。小説なんてなんでもいい。わたしがパロディであるかぎりは、なんでも。
 今日三角さんのLIVEに行けばウィスキーボンボンをくれるということだったのに、遠すぎるから行かなかった。かなしい。ぼんぼんかなしい。

   ◇◇◇

 Mr.Children「シフクノオト」をひさしぶりに聴いた。「掌」はもちろんいい曲だし、「タガタメ」もいい曲だった。「血の管」がなんといっても最高だけれど。Mr.Childrenはだいすきだったからいちおう「HOME」まではぜんぶ聴いて、「HOME」で「にょ?」と思ったので、それからすっかり聴いていなかった(「ポケット カスタネット」はだいすきだ)。
 Mr.ChildrenとBump of Chickenはいちばん好きだったのに、いつのまにか聴かなくなってしまった。なんでだろうと思ったので「SUPERMARKET FANTASY」と「orbital period」を聴いた。「ギフト」はいい曲だ。「ハンマーソングと痛みの塔」は最高だ。
 坂本龍一「Merry Christmas Mr.Lawrence」を聴いて、RADIOHEAD「life in a glass house」をひさしぶりに聴いた。音がうんときれいだからだいすきだなあと思った。「Morning Bell」(Amnesiacなほう)だいすき。「子供たちをはんぶんに切ろう。はんぶんに。はんぶんに」。ば、ばかじゃないのっ!
 しかしそれにしてもYUKIの「JOY」はかわいい! かわいい!



 2010年2月7日(日)

 池田扶美代+アラン・プラテル+ベンヤミン・ヴォルドンク「ナイン・フィンガー」を見にいった。よくわからなった。わたしの知るかぎり、コンテンポラリーダンスには2種類あって、つまり、「踊る作品」と「踊らない作品」があって、「踊らない作品」は見ると「???」という確率が非常に高くて、さいきんは「あんまり見にいかないようにしようかなあ」と思っていたのに、「ナイン・フィンガー」が「踊らない作品」だということは知らなかった。「あれれ?」と思った。頭のおかしいようなひとが奇声をあげながらわけのわからないテキストをマイクに向かってさけぶのはやめたほうがいいんじゃないかと思った。これはまったくわたしの考えだけれど、いまやらなければいけないことは、わけのわかるテキストをどうやってさけぶかということだと思う。ローザス「ツァイトゥング」がとても評判が高かったみたいで、わたしは「ツァイトゥング」はなぜか見にいかなかったけれど、だからこそ「ナイン・フィンガー」はすごくすごく楽しみにしていたぶん、よけい残念だった(「ツァイトゥング」がもっとダンスっぽい作品だったから「ナイン・フィンガー」は演劇よりだったのかもしれないけれど)。高い声であのテキストをさけぶことはもしかしたらユーモラスなことなのかもしれないけれど、1時間もそれを聞いていたら、さすがにいらいらしてくると思う。もういっかい考えよう。奇声をあげながらマットにマイクをたたきつけるダンスのいったい何が楽しいんだろうか、見ているひとはそこのいったい何に楽しさを見いだせばいいんだろうか。テキストは全部英語だった。それはしかたないのだけれど、字幕をいちいち読まなければいけないのはやっぱりたいへんだ。字幕のだしかたも台詞から遅れているようにしか見えなかったし、誤植っぽいのもふつうにあったし、もっとひどいのは、字幕をうつしているプロジェクタがたびたびブルーバックして、背景に「Panasonic」の文字がもろにうつっていたことだった。作品の雰囲気がだいなしになっちゃうからやめたほうがいいと思う。飴屋法水演出、サラ・ケイン原作「4.48 サイコシス」も2時間以上あった作品で、(おしりが痛くて)正直途中で飽きていたけれど、舞台装置の圧倒的な美しさとカタコトの日本語がおりなす迫力があった。「ナイン・フィンガー」にはいったい何があったのか、さっぱりわからなかった。John Lennonの「Imagine」が流れたときは「その選曲かよ!」と思ってひとりでくすくす笑っちゃってよかったけれど。あとローザスの池田扶美代さんはすごくよかったので、ちがったかたちでまた見たい。
 英語でものを見たり聴いたり、ということがさいきん難しくなってきているように思った。映画でも英語の映画は、台詞がなんだかぜんぶ白々しく聞こえてしまう感じがして、あんまり見たい気持ちになれない。ロシア語やフランス語、韓国語や中国語みたいな、何を言っているのかぜんぜんわからない言語のほうが好きだ。英語、かっこわるい。

「メールは送ったけれどどうなったのか?」と思ったまますっかり忘れていた舞台芸術系の文化庁予算案、0・5%増という結果になったらしい。とりあえず「よかったよかった」というところだと思う。でも、やっぱり「ナイン・フィンガー」などを見ると「こんなのにお金はらいたくないよ!」と思う気持ちもわからないでもない。だってわけわかんないもん。この作品の「何がおもしろいのか?」ということを説明するのはほとんどむりだと思う。もちろん説明できなければ削ってしまえというのはあまりにもむちゃくちゃな考えだとしか思えないけれども。
 あまりにもよくわからなかったのでElliott Smith「XO」を聴きながら帰った。「Waltz #2」がすき。音が青っぽいからすき。サリンジャー「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」を電車のなかで読んだらひとりで笑った。サリンジャーだいすき。
 去年の佐東利穂子「HER」以来、ほんとうにだいすきだと思った舞台を見られていない。だから、来週行く「NECK」、再来週行くチェルフィッチュはおもしろくあってほしい。「NECK」はともかくチェルフィッチュにはすごく期待している。3月には矢内原美邦とヤン・リーピン。矢内原美邦はどうせ踊らないたぐいのやつだと思うからとりあえずいいとして、1万円とさよならして衝動買いしたヤン・リーピン「シャングリラ」はほんとうにほんとうにおもしろくあってほしい。国宝、ばんざい!




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