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ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

2010.02.13(22:45)

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうねぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね
(2004/02/21)
岡崎 京子

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愛 (文学の冒険シリーズ)愛 (文学の冒険シリーズ)
(1999/01)
ウラジーミル・ソローキン

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 2010年2月11日(木)

 水曜日の夜がアルバイトだった。朝の6時20分に眠り、15時に目覚ましをかけたけれど、起きられなかった。「ねむいー」と言いながら、ふとんのなかをごろごろして、けっきょく20時30分に起きた。穴に落ちて白いみみずとたわむれる夢を見た。さいきんのわたしの夢は虫に侵食されているのでだれかほんとうに助けてください。虫きらい。かぶとむしとかくわがたむしとか、あんな気持ちわるい虫をよろこんでつかまえていた少年時代の友達たちは頭が狂っていたにちがいない。わたしは蟻を水で流して殺して遊んでいた。いまは蟻がこわい。蟻きもちわるい。かえるはかわいい。いまかえるをどう思うか、わからないけれど。

 岡崎京子「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」を読んだ。岡崎京子はタイトルのつけかたがうまいと思う。「ヘルタースケルター」(ビートルズだけれども)も「リバースエッジ」もいい。「くちびるから散弾銃」など。どれも読んでないけれど。
 この本は赤ずきんちゃんが娼婦だったり、チルチルとミチルが次々と親を惨殺していくお話だった。

 映像にたいして「リアルだ」と言うことは、いったいどういうことだったっけ、と思った。たとえば、「アバター」にでてくるあの青い生きものたちは現実にいないんだから、それにたいして「リアルだ」と言うとき、たぶん論理的にへんなことが生じるはずだった。わたしたちはCGで描かれた映像、風景を見たときに「きれいだ」と言うかわりに「リアルだ」と言うことを、たぶん、90年代後半から流行りのように覚えはじめたんだと思う(わたしは「FF7」のバイクを見て「実写じゃん!」とたしか言っていた気がする)。「リアルな」風景が見たければ実写で撮ればいい。わたしたちはほんとうに岩じゃなくて「リアルな岩」が見たいんだろうか。「リアルな岩」がもう岩よりもきれいなものになってしまったら、わたしたちの目はいったいどうしちゃったんだろうか。CGが使われるまえ、ものを見て「リアルだ」と言う言いかたが果たして存在していたかどうか、わたしはもう覚えていない。CGによってわたしはたしかにひとつの言いかたを獲得したけれど、同時に、ひとつのものの見方が失われてしまっている。
 いやな予感がした。わたしはワイズマン「聴覚障害」を見て「リアルだ」と感じたような気がしたけれど、それはたぶん、CGの映像を見たあとに逆輸入した感想なような気がする。90年代以前、以降で、ものの見方と感想の口のしかたがおおきく変わっているんだったら、少なくとも何かが失われているはずなんだと思う。

 岩波新書の「中東現代史」がわりかしおもしろい。西欧の列強はまるでジャイアニズム(おまえのものは俺のもの、俺のものは俺のもの)に立っているかのようだ。アラブの国のどまんなかに建てたおかげで軍事的威圧を常にしなければならないような国家体制になったイスラエル。シオニズムは理想主義的な様相から軍事国家のイデオロギーに。アラブ世界に絶望したパレスチナのテロリズム。西洋に搾取されつづけ、適正な利益配分も行われない石油。
 文明の進化の速度というものがそれぞれにあって、ヨーロッパがイスラム系の文明を越えたのはルネサンス以降らしいけれど、とにかくそういうものがあって、アラブの世界がどういうふうな世界になろうとしても、西欧は進化した文明(のありかた)をアラブに押しつけぐちゃぐちゃにしたということだろうか。たとえば、サウジアラビアがいい国かどうかは知らないし、遅れているかどうかも知らないし、いまもそうかどうか知らないけれど、あそこの憲法には「コーラン」が採用されている(らしい)。すごい国だ。ぶらぼー。なんというか、わたしたちからすれば「そんなやりかたでやっていけるの?」と思うのだけれど、そういうありかたはありえるということだと思う。
 文明が遅れている、進化している、近代化している、近代化していない、という価値観は西洋のものだった。西洋がアフリカやアラブの国々の国境をひいたのと同じように、進化の方向の軸までひいた。基準はいつも西洋だった。その種の文明の数値にあわせればアラブのありかた考えかたはどう見たって遅れている(アメリカが「聖書に書かれてあることをそのまま憲法にしようかねえ」と言ったら「は?」と思う)けれど、その遅れかたを「遅れている」と決めたのが西欧列強で、それで、西欧風の近代化をいちおうなしとげてしまった日本はアラブが何を言っているのか基本的にはさっぱりわからない。あたしもわからない。こまったにゃん。
 9.11テロがどうして起こったのかみんな知っているんだろうか。少なくともあたしは知らないぞ。
 ジャイアンは映画のなかだといいひとになるんだから、映画をとればいいのになあ。



 2010年2月12日(金)

(アルバイト明けの)朝に修士論文のレジュメを事務室まで提出し、図書館まで行ってソローキン「愛」、フラン・オブライエン「ハードライフ」、尾崎放哉「尾崎放哉随筆集」を借りてきた。
 それから家に帰ってお風呂のなかでソローキンを読んで、13時に眠った。19時30分に起きて、それからアルバイトをした。



 2010年2月13日(土)

 明日、14日の日曜日にはルノワール展と舞城王太郎原作の舞台「NECK」を見にいく(つもりな)ので、実家に帰ってきた。6時30分に寝て18時30分に起きた。この睡眠時間はまちがった。
 ウラジーミル・ソローキンはロシアのポストモダン作家らしい。早稲田文学の新しいやつにドストエフスキー2号とかトルストイ4号とかナボコフ7号とかがでてくるあやしい小説が載っているというのでたいへん気になり、とりあえず短編集の「愛」を読んでいる。いちばん近いのは中原昌也だと思う。中原昌也の書きかたは(あんなに短いのに)途中であからさまに書く気をなくしているところだと思う。ふつう、小説というのは「がんばっていいもの、りっぱなものを書こう」と思って書こうするものだけれど、そんな書きかただけが正しい書きかたであるはずがない。たとえば、ソローキン「自習」は小学生の男の子が女性教師に密室につれこまれいたずらされるだけのどこのえろまんがですかとつっこみたくてしようがない短編だし、「樫の実峡谷」はおじいさんと女の子がいて、おじいさんが女の子に過去の戦争の話をいい具合に語りはじめたらいきなり「めえ~」とやぎみたいに鳴きだして話の途中で森のおくに消えてしまう短編だ。どうだ意味がわからないだろう。わたしもわからないぞ。
 ジョン・バース、ドナルド・バーセルミ、ジュリアン・バーンズ、そしてトマス・ピンチョン、ポストモダンを代表する作家たちの本がきらやびやかな様相を持って並んでいることで有名なわたしな本棚だけれど、わたしはもちろんどれも読んでいない(わたしは買った本は基本的に読まない)。基本的にポストモダンなんて信用できないにもほどがあるし、それほどおもしろくないよなあとも思う。それはたぶんバーセルミやバースの小説のありかたがコメディに基づいているからだと思う。だから、ポストモダン文学をちゃんと楽しむためにはそれともうひとつの要素が必要(高橋源一郎だったら詩とリリシズム、オースターだったら探偵小説、というふうに)だとわたしはなんとなく思っているけれど、いかんせん読んでいないからわからないのでいいかげん読みたいなとちょっと思った。

 ソローキン「ロマン」が読みたい。

 19世紀末のロシア。村に戻った青年ロマンが恋に落ち、結婚する。その祝宴の夜、祝いの斧を手にした彼は殺戮を開始する……。衝撃のスプラッターノヴェル。


 あらすじからしてなんかおかしい。読みたい。

   ◇◇◇

 中原中也賞が文月悠光さん(わーお!)に決まった。文月さんはまだ18歳だけれど、彼女のブログには作家になりたいと志して路上で朗読をパフォーマンスをやったり、という過程がずっと書かれていて(友達と詩の本を見ていて「わたしもいつかこれに載るかもよ」なんていうお話をしたり)、それでほんとうに現代詩手帖で最年少でデビューしちゃって、中原中也賞も最年少でとっちゃった。たしか、彼女のブログには以前「わたしが中原中也賞を狙っているなんて言ったら笑われるかな…」というようなことが書かれてあったと思う。わたしが文月さんに興味を持っているのは、そういうことを実際にブログ上に書き、それを残すという彼女の自意識のありかた(にくわえてほんとうにとっちゃったところ)だった。作家が作家になったあとで作家ではなかった頃の自分を語るというやりかたは存在するけれど、作家がまだ作家ではなかった頃に作家ではない自分を語るというありかたはじつはとても貴重なものではないかと思う。それは本来なら語られないはずの声だったし、わたしがいちばん聞いてみたいと思っていたのも、そういう声だった。そして作家がいちばん書かなければいけないはずのものも、語られないはずの声だった。本を読むということは、だいたいの場合自分の知っていることをもう一度確認するための行為にすぎない。それを乗りこえるためにわたしたちは語られない声を描こうとしてきたと思う。彼女のやりかたは直裁だった。だからこそ。
 いまあらためて見ると彼女のありかたは少女漫画的というか、はたから見ていれば、あまりにおとめちっくにすぎているような気がして「なんかすごいな」と思う。どういうことなんだろうなと思う。自意識のかたまりみたいなわたしが言えたことではないけれど、彼女のぱんぱんにふくらんでいるようにしか見えない自意識のそのありかたと、それに反してありえるおとめちっくな流れみたいなもの、の後には転落や不幸が来るはずだけれど、そういったありかたにたいする無言の反逆として詩もまたありうるんだろうなという気がする。

 ま あ 彼 女 の 詩 集 読 ん で な い け ど 。


 
 http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010021301000498.html

 学校や家庭などの日常の描写を通して、10代の若者に共通した気持ちを表現している。

 詩には詩の言葉があって、ニュースにはニュースの言葉がある。これなどは典型的なニュースな言葉すぎてくらくらする。そういう言葉でしか文学のことを語れないことがニュースの文章のひとつの大きな欠点であって利点でもあるけれど、ではどうしてそういう言葉を使ってまで詩集なんかを紹介しなければいけないんだろうかとも思う。ニュースの「読んでもらう工夫」というのがルビをふるとか、見出しをわかりやすくするとか、字を大きくするとか、段組を工夫するとか、Webと協調するとか、そういうやりかたしかでていないようにわたしに見えるというとき、ニュースはいったい何を伝えているのか。
 この手のニュースは、だいたいわたしにとって「ついったーで知る→ぐーぐる先生にたよる→ニュースを読む」という3番目の場所になってしまった。ニュースはすでに知っていることを確認するための媒体になりつつある。だからわたしはニュースを読んでも何も知ることがないという状態になっている。なにそれこわい。




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