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いぐじすたんす

2010.02.18(06:42)

萌の朱雀 [DVD]萌の朱雀 [DVD]
(2007/09/25)
國村 隼.尾野真千子.和泉幸子.柴田浩太郎.神村泰代.向平和文.山口沙弥加 他

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 がまん、むり\(^O^)/

 かつて湾岸戦争が起こったとき、柄谷行人というひとが日本の作家たちに手紙を送った。「海の向こうで戦争が起こっている。我々は海のこちら側で集まり、そのことについて何か話してみよう。それは、最低なことよりもほんの少しだけましなことなのだ」と彼は書いた。作家たちが集まったとき、柄谷行人は最初にこう言った。「私はここで海の向こうの戦争について何かを決定したり、何らかの結論をだそうとは思わない」。彼はその場にいあわせた新聞記者たちをうんざりさせた。その集まりの結果、ほとんど何も起こらなかった。戦争は終わらなかった。だけれど、ひとりの批評家がその集まりを受けて「私は批評家を廃業する」と言った。そしてその宣言のあと、彼は批評家を廃業しなかった。
 
 この話はいったい何を示しているんだろうか。

1 その批評家の言葉はメタファである(批評家は冷蔵庫のメタファであって、そのひとは「批評家を廃業する」と言いながらおうちの冷蔵庫を捨てちゃったのかもしれない)。
2 「批評家」というありかたがその話しあいの前後で変わってしまい、その批評家はたしかにひとつの批評家のありかたを廃業したけれどその結果として新しいありかたの批評家をひきうけざるをえなくなった。
3 その批評家は痴呆症である。
4 その批評家はうそつきである。

 俺は4の意見を支持している。

    ◇◇◇

 最初の予定

 ブログ書かない → 1ヶ月くらい頭を冷やす → 藤野さんみたいな書きかたをしてみる → 頭がおかしくなる → しあわせとふしあわせがごっちゃになる → しあわせになる → 80年後に死ぬ → 天国で焼かれる → 転生して虫になる → 死ぬ → 死ぬ → 死ぬ →

   ◇◇◇

 かまきり ひょーいひょい

   ◇◇◇

 ランボーは「私は一個の他人である」と言った。おそらく、俺が他人になろうとするならば、少しずつ他人を俺に混ぜあわせていくしかない。でもほとんどのひとは、まず他人になってそれから他人のふりをして、それから他人になろうとする。これは矛盾している。だからうまくいかない。自己実現はしたくない。自己分析もしたくない。俺が発見したいのは俺のなかの俺ではなく、俺のなかの他人であった。

   ◇◇◇

 以上をまとめると「ついったーがあるから意味ないね」になる。俺は病気だった。問題は病気をひきうけたあとにどうするかということだった。病気をひきうけたあとに「死なない」という選択をするときに文章というものがはじめて俺にとっての価値を持ったのだった。

   ◇◇◇

「いつか愛という言葉から愛を生むんだ」と書いたひとがいる。俺だ。

   ◇◇◇

「書くということは書かないということよりもほんのすこしだけましなことなのだ」と書いたひとがいる。俺だ。

   ◇◇◇

 私の本はどれもこれもたんにテクストとの関係、さまざまな言語的層との関係にすぎないのです。高尚な、文学的なものから、官僚的なもの、検閲にふれる言語層にいたるまで。物事の倫理的な側面について人から言われても、たとえば、ポルノ文学とかハードな文学の要素をどうやって再現できるか、とかね。私にはそういう質問が分からない。そんなものたんに紙の上の文字にすぎないじゃないか、と思うわけです。

 言っておきたいのは、私は読者そのものなど一度だって考慮したことはないということです。おそらく、だから私がこの国であんまり活字にならないのでしょうね。私が魅了されてきたのはつねにテクストだけでした。私のやっていることがなぜ他のだれかに気に入られるか、今もって分かりません。これは私の個人的な問題、私の心の問題なのであって、私はたんに紙と向かい合ってそれを解決しようとしているだけなのです。

 私は大衆にはいつも脅えてきました。(中略)大衆は、不安と、私生活に帰りたいという願望しか呼び起こしません。

         ソローキンのインタビュー「麻薬としてのテクスト」より


   ◇◇◇

 河瀬直美「萌の朱雀」という映画は「映像がきれい」だけれど、それはたぶん音のせいだろうとあたしは思った。たとえば、映画のなかでひとが街を歩くとき足音が聞こえない場合がよくある。そんなものは聞こえなくていいからだ。「萌の朱雀」の映像のなかに足音がたしかにまざっている。田舎で音がないからだ。その映像の50%くらいは音で構成されているように見えた。映像のはんぶんはつまり音だった。映像は映像だけでできているわけじゃないみたいだった。あたしはこれを見てゴダールの「ウィークエンド」を思いだした。あの映画の耳ざわりのクラクションはたしかにノイズだった。あの映画の後半では、黒人が突然カメラに向かってアジテーションを行う。映像のなかに音が成分としてたしかにまざっているのと同じありかたで、ゴダールの「ウィークエンド」という「映画のふりをしたノイズ」のなかにはたしかにアジテーションがまざっていた。だからあたしはしかたなくそれを聴いてしまった。ノイズだから。耳ざわりだから。それははじめて聴こえてきた。あたしのはじめて。

   ◇◇◇

 日本人が言う日本人と日本人とユダヤ人が言うユダヤ人は意味あいがちがう。ユダヤ人というのは人種的なわけかたではなく、ユダヤ教を信仰する宗教的集団をさしていただけだった。パレスチナ人もその点は変わらない。パレスチナを統治していたイギリス(?)が彼らをパレスチナ人と呼び、それはもともと押しつけられた名前だった。そして対イスラエルというかたちでみずからのアイデンティティを高め、世界において存在を確立するために彼らはパレスチナ人となった。
 という話があっているかどうかあたしは知らない。まちがっていた場合に損をするのはそれを読んでしまったひとで、あたしではないのでどんどん勝手に書いちゃおう。
 パレスチナの過激派組織、というときのパレスチナとはいったいなんなんだろうか。「パレスチナ人の過激派組織」という呼称と「パレスチナの過激派組織」という呼称はいったいなにがちがうんだろうか。
 ということだけ言って考えるのはめんどうくさいので、えらいひとはどんどん考えちゃおう。

   ◇◇◇

 修論発表が無事に終わった。23日が修士論文の最終提出しめきりだけれど、副査の先生に「ありがとうございました。どこかおかしいところはなかったですか?」と訊きにいったら「たいへんけっこうです」と笑いながら言われた。「直しようがないね。どうでもいいね」という意味だと思う。せんせえはやさしい。卒業したい。今日の夕方には結果がでるみたい。これで「ソツギョウ、ダメ、ゼッタイ!」と言われたらあたしは悲しくてとっても泣いてしまう。ぬーん。これからはわりと暇なひとになるので、うれしい。でも謝恩会幹事のお仕事とアルバイトがある。ちょっとだけ。アルバイト、モウシタクナイ、トッテモ!




コメント
5・その批評家は「批評家はかすみを食って生きるわけにはいかない」と認めたくなかった。・・・かなあ?

「ふん、ボクが必要なのはコンテンツだけなんだ」(桂木桂馬)
【2010/02/18 15:49】 | 上田洋一 #- | [edit]
6・その批評家はかすみを食べてみたらまずいことに気づいた、とかですかねえ。
【2010/02/22 18:12】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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