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矢内原美邦、少年社中、そして三角みづ紀

2010.03.12(21:28)

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 2010年3月6日(土)

 横浜までかたこんかたこん電車に揺られて、矢内原美邦「あーなったら、こーならない」を見にいった。たった1時間見ただけなのに「矢内原美邦って頭がよくないんだろうな」と思えるようなダンスだったけれど(頭のいいひとがよい作品をつくるわけじゃないのはあたりまえなんだけえども)後半の、暗幕を使った場所にだいだい色の薄い光がぼっとあたってヒールで踊るあの踊りはすごくきれい、だったから好きだった。アネット・メサジェにピノキオをモチーフにした「カジノ」という作品があって、あれみたい。黒田育世のBATIKの作品を見たとき、「どうしてこの作品には台詞がないんだろうな」と思った、のとは逆で、矢内原美邦を見たときには「音声がぜんぶじゃまだ!」と思ったし、なんというか、このダンスで踊り手たちがやっているおおげさな表情、かわいた笑い、悲鳴、というある種の狂気を連想させるようなつくりかたはちょっと安っぽくなっちゃっているように見えて、あそこで演じられている、おたがいの身体をひっぱったり、つきとばしたり、というのはミニマルなダンスでよく見られることだと思うけれど、ダンスだからといってその内部に「レベルの低い演劇」をいれることが許されるかといえばそういうことでもないとあらためて思った。でも、セーラー服みたいな衣装を着たショートの女の子がかわいかったのでなんでもいいです。
 渋谷にもどった。パク・チャヌク「渇き」を見たかったけれど時間があわなくて、東急の5階にある婦人服売り場を抜けた先にあるかふぇに行ったら婦人服売り場を抜けた先にあるかふぇなので男性:女性比率が1:20ぐらいのものすごいことになっていて、まるでこの世界のすべてを集めたような場所だった。
 新宿まで移動して「渇き」を見た。意外にえぐかったのでこわかった。ソン・ガンホが床に寝そべって血をちゅうちゅう吸っていたのがかわいかった。「渇き」はたぶん「ソン・ガンホの局部がうつっている!」と大評判になったたいへん評判な映画で、わたしは「局部局部」と思いながら映画を見ていたけれど、ぜんぜん局部がでてこず、「あれれ?」と思っていた。けっきょく、局部はあのレイプシーンのあとだったんだろうか。暗くてぜんぜんわからなかった。「きゃは☆」とか言いながら車のフロントガラスにべたっとはりつくキム・オクビンがかわいすぎてうっかり死にそうになった。夜の路上で裸足で全力疾走する謎のヒロインぷりからしてすでに好きで、それにしても、韓国の女優ってみんなどことなくおばさんくさく見えなくもないのにキム・オクビンにしろ(「シークレット・サンシャイン」の)チャン・ドヨンにしろ、みんなすごくかわいいことの不思議さにだれか塩をふってくれ。あと、この映画のラストの一連のシーンわたしだいすきっ!
 帰って矢崎仁司「三月のライオン」を見た。DVDのジャケットに一目惚れして見たのだけれど、本編よりもDVDのジャケットのほうがおもしろかった。でもDVDのジャケットは8割くらいの世界を救うのでなんでもいいです。



 2010年3月7日(日)

 中野駅で管城さんと待ちあわせをして、いっしょに少年社中「機械城奇譚」を見た。おもしろかった。「ファンタジックでいい話なのかな」と思っていて、たしかにファンタジックでいい話なんだけれど、途中のヒーローショーみたいなところがあまりにもおもしろすぎてかつくだらなすぎたために、そこのインパクトが強すぎてあとはあんまり覚えていない。でも好き。もう終わったのでがんがんねたばれするけれど、ラジオさんがすっごくかわいかった。あと時計さんの豹変ぶりもおもしろかった。ふつうにおもしろいことをやってふつうにおもしろいのはたいへんよいことだなあと思った。終わりかたもわたしはわりと好きだった。「シャドウ・ハーツ」「シャドウ・ハーツ2」を連想させるようなありかたで、外面的に見れば不幸だけれど当人たちからすれば幸せかもねという終わりかた、というかありかた、にわたしはあいかわらず興味を持ちつづけているらしい。だれから見てもしあわせなありかたが当人たちにとって最高のしあわせであるはずがないし、典型的なハッピーエンドを見てはっぴーだと思うならそれはもう物語の場所が「作品」から「鑑賞者」に移行してしまっていて、だから、「物語に生きるのか」と「物語を生きるのか」という選択のなかで、なお物語を愛するのならば、わたしは物語に生きたいと思うよ。
 台詞まわしに「○○だよ」「○○?」「そう、○○というのは、」という流れが多かったと思う。わたしの考えだと、こういうのはとりあえずいっさいやらないほうがいいと思う。それはたとえば「このひとはせりふをてきとうに書いているんじゃないかな?」とわたしなんかに思われてしまうということだし、たんじゅんで、やりがちな、まったく強度のかけらもないこういう台詞、台詞のだしかたをいったん排除しようと考えれば、そのあとでようやっと「ではどうやって台詞をだそう、会話のテンポをどうしよう」と演出家たちが考えることができると思うんです。そもそも、わたしたちは最初から「頭を使える」という状況にはなくて、まず何かをやってから自分を「頭を使える」という状況に置いてそれからようやっと頭を使えるようなわたしたちばかりだから、頭を使うためには頭を使う状況をつくらなくちゃいけなくて、しかも、世界はわりとうれしい具合にたんじゅんで、頭を使えばもっといい作品ができることが多いのだから、それにもかかわらずいい作品ができないのは頭を使っていないからということが多いんだろうし、だからこそ、それは頭を使うようにがんばったほうがいいと思った。身体だけで踊れるわけじゃないだろう、たぶん。演劇ならテンポでこういう台詞のわるい使いかたも打ちけすことがある程度できると思うけれど、小説だともっとひどいなっちゃう。詩を考えてみれば、詩では「1行1行が命がけ!」みたいなところがあると思うので、まずこういう安易な台詞の使いかたは普通はしなくて、けれどよく考えれば「1行1行が大事」なのは小説でも演劇でも同じで、こういう会話のやりとりがぽんぽんできているのなら「きみ、それは油断しているか、手を抜いているかのどちらかさ。ふふん」と言われてもしかたのないことだと思う。
 中野にあったちいさなワインバーみたいなところでワインを飲んでごはんを食べた。ワインがおいしかったしピザがおいしかった。なにかいろいろ話をしたはずなのになんかもうまったく覚えていないんだけれど、わたしはもしかしてひとことも口をきかなかったのかもしれない。管城さんが「結婚するならお金をくれてまったく家に帰ってこないひとじゃないといやだ」と言っていたような記憶はあるけれど、いま思えば、そのひとはたぶんだいたいひとではなくて死体だ。住所は土。多額の生命保険。そして資産。好き好き大好き愛してる。
 帰り道、駅で管城さんがわたしのかばんからわたしの財布を盗もうとしてなにやらがちゃがちゃやっていて、それはひどいのでわたしも続けてがちゃがちゃやって、電車に乗ったらわたしのかばんのがちゃがちゃした部分がすっかり消えていたので、わたしのかばんがかわいそうだった。



 2010年3月8日(月)

 朝起きて渋谷でタルコフスキー「サクリファイス」を見た。寝た。いくらなんでも眠すぎやしないだろうかと思った。むり。むーり! 2回見てようやくわかったかもしれない、つまり、わたしは、タルコフスキーは「ノスタルジア」「鏡」「ストーカー」がおもしろくて、「サクリファイス」「惑星ソラリス」は眠いだけ、という認識も持っているひとなのかもしれなかった。
 べろーちぇに行ってLサイズのコーヒー頼んだらとんでもないサイズがでてきたので残した。べろーちぇ安すぎやしないだろうかと思った。やすーい!
 眠気を吐きだしてアラン・レネ「去年マリエンバートで」を見た。「へい、べいべ、きみとぼくは去年ここで会ったぜ。きみってすてきだぜ」「まああたくしあんたなんかと会ったことなくってよ。あら会ったことあるかしら。よくわかんないわあ」というような会話が90分ぐらいえんえん交わされているだけの悪夢のような映画だった。おもしろかった。
 三角みづ紀さん主催のライブ「ことたりない/一幕」を経験するため、学芸大学駅で管城さんと待ちあわせてAPIA40まで行った。歌人の雪舟えまさんの朗読は小動物ちっくでやたらすてきだった。わたしは短歌ならどれでもわりあいすてきに見えるという奇病に犯されていて、この病気は早く治したく、でも治すにはたぶん短歌をいっぱい読まなくちゃいけない。雪舟さんの短歌はいい短歌だし好きだなあと思った。
 堀内幹さんのバンド、騾馬三世を見たら、騾馬三世がびっくりするくらいかっこうよかったので、わたしはびっくりしてしまった。シンバルがぐるぐる渦を巻いていたし、鈴がしゃりしゃりゆっていたし、声は濃いし、「おわーかっこういい!」と思ったからきっとかっこういいのだった。こういうひとたちはふだんどこに住んでいるんだろうと思った。湖とか沼とか台所とか、そういうところに住んでいるというのは、わかるけれども。CDはないのか。ぷーんぷん。
 帰りにてんやでごはんを食べたら、管城さんが「きもちわるい」と言っていた。「わたし、気がついてしまいました。てんぷらは揚げものだったんです!」と言った。わたしは知っていた。ふふん。管城さんはもとからだいぶあれだなあと思っていたけれど、最近彼女に会うたびに「うすうす感づいていたんですけれど、わたし神様だったんです。ここに見えるものはみんなわたしがつくったんです」と神様アピールをされるので、だいぶあれだなあと思った。この日管城さんは夜道でしゃぼん玉を吹いていた。「このまえ五反田で真昼間から吹いてきましたよ」と自慢された。うらやましい。

   ◇◇◇

 川上未映子「乳と卵」を読んだ。おもしろかった。「わたくし率 イン 歯ー、または世界」を読んだとき、率直に、「こんなものをいまさら読まされてもな」と思った。「読まされてもな」というのがポイントで、わたしはいちおう文学なるものに関心を持っているつもりで、文学というものをやっているひとがこういう作品をさしだしてきてそれにたいして「読まされる」という感覚を無意識に抱いてしまうわたし、と文学の関係性にちょっと嫌気がさしたりもしたことを思いだした。「乳と卵」は「わたくし率 イン 歯ー、または世界」に比べればずいぶんまともな、ふつうの小説になっていて、わたしは「わたくし~」よりもずっとおもしろく読めて「よしよしよし」と思って、途中では「老化するってこわいな。いまのわたしのかたちが年月とともにリアルに変わっていってしまうその感覚ってこわいな」と身につまされることも考えられたのでこの小説はおもしろいと思う。思うけれども、この小説はこの文体で書かれているがゆえに「文学になりすぎちゃっている」感じがどうもしてしまって、とくに、ラストの卵まみれになるシーンは文学というものにあまりにも忠実になりすぎちゃっているんじゃないかしらんとも思った。いま文学が抱えている問題のひとつは何をどう書いても文学になりすぎてしまうこと、言いかえれば、文学というおおきな区分があれもこれも「これは文学だよね!」と言いすぎちゃって、あまりも言いすぎちゃった結果読者もそれに慣れすぎちゃって、ということで、そしてつまるところひとりの読者にすぎないひとりの作者もそのうずのなか、でわしゃわしゃになっているような気がする。それは、たぶん文学的技法(だろうと川上未映子が思っているだろうもの)を駆使した「あなたたちの恋愛は瀕死」という短編にもにょじつに現れていて、なんというか、わたしはいちおうたぶん「文学が好き」だから、こういうのを読むと「あ、好き!」とか「う、ぞっとする!」とか反射的に思って「すごいな」となるけれど、でも、わたしはこれらの作品をきちんと褒める気にならなくて、むしろ、わたしはこれからの小説のありかたは川上未映子のもうちょい先にある(「ヘブン」はどうなんやろうなあ)と思っていて、だから、それは、川上未映子の小説が「文学」としてあっさり回収されてしまうというてんにやっぱり問題があるんだと思っていて、それは、なんというか、たとえば、川上未映子のブログ「純粋悲性批判」に載っているサリンジャーの関西弁訳みたいなことをきちんと(というよりも小説よりもちゃんと)評価する軸というか方法がどこにも確立されていないということがいちばんの問題で、わたしが「川上未映子のもうちょい先」と言うのはつまり、「川上未映子がサリンジャーを関西弁訳にする」というようなもののほんのちょい先になると、思うんです。
 わたしがいまいちばん好きだなと思うのは舞城王太郎で、彼の「ビッチマグネット」を読んでいちばんびっくりしちゃったところは、わたしが「舞城王太郎文章へったくそだな~」と思ったことで、舞城は「ディスコ探偵水曜日」からあからさまに文章がへたくそになっているように思えて、たぶん、や、わたしの予想やけれども、「ビッチマグネット」と「阿修羅ガール」をくらべたらたぶん「阿修羅ガール」のほうがぜんぜん文章じょうずだと思う。わたしはたとえば佐藤友哉や高橋源一郎がやっているような「文章をへたに書いてみる」というようなことに基本的には賛同しないのだけれど、舞城の文章のへたくそ化(というより文学的技巧の減少なのかな)というものでは何かが起こっているような気がする。舞城王太郎は倫理的であって、しかも論理的という、けったいな作家だと思っていて、正論ばっかり、正直なことばっかり、していて、けれどそれでも人生はきちんと流れていってしまっていて、舞城、は文章はへたになっている、というか書きかたを変えているだけやと思うけれど、かわりに花さんとかの人物描写を理論でがんがん攻めていって、理論は舞城が使う直接的でたんじゅんな言葉とよくあっているからそれなりに効果的で、たとえば川上未映子が理論をふりかざしても「あーなんか文章だらだら長いしようわからへんわ」になるけれど舞城だとそうならないだろうと思われるのでして、ということは、ということは、ときて、はて、さっぱりわからなくなったんだけれど、いったい、舞城は何をやっているんだろう。それと、文学というよくわからないひとはもうはやく死んだほうがいいと思う。でももうちょっと、世界はすてきな方向へいけるはずだ。ぷん。で、ツァイ・ミンリャンを見ると「川上未映子たちはいったい何をやっているのかな」と思えてしまう、とわたしにもっぱらの評判のツァイ・ミンリャンの「楽日」を見たらごみのような映画で、さいきんのなかではいちばんショックを受けた。ひさしぶりに映画を見て唖然としてしまって、というのも、一般に難解と言われている映画、たとえばタルコフスキーを見ても「救済がどうの、映像がどうの」という言葉でくくれなくもないし、パラジャーノフですら「詩を映画化してうんぬん、映像美がうんぬん」と言えるし、ゴダールだって「ゴダールはそのものをそのものとして映そうとしているんだ!」とそれっぽいことを言えなくもないけれど、ツァイ・ミンリャン「楽日」はなんにも言えない。わたし、には監督がいったい何を考えてこの映画を撮ったのかほんとうにぜんぜんさっぱりちっともわからなかったし、45分たたないと台詞がいっこもないし、台詞どうでもいいし、次の台詞は70分くらいまでないし、台詞それだけで、終わっちゃうし、こういう映画を見ると、たとえば柴崎友香なんかを読んで「何も起こらない、けれどなんかいいんだよ」とかいうまっとうな感想ですら「あーばかや、そういうことじゃあらへんねんな」と思えてくるほどになってしまうのは、つまり、この映画がたぶん「何か起こる」とか「何も起こらない」とかそういう尺度で撮られている映画ですらないだろうから、ということで、じっさい、ここにうつっているのはほとんどわたしにとってどうでもいいことで、だいたいなんで男のひとたちはトイレであんなに長いあいだおしっこをしているのかわからんし、それはどうでもいいけど、こんな救いようもないほどつまらない映画が見てすら異様におもしろいというのはどういうことだろうなあと考えるのは、川上未映子の小説を読んで「なんだろうなあ」と思うよりもよっぽど難しく文学のためになるんですと思うわたしは高見から見下ろしていろんなものを笑うんです。くすくす。




 2010年3月9日(火)

 粗大ごみの回収を「火曜日にお願いします」と何度も何度も言ったのに、あんのじょう、れいの「どっかーん!」のひとは火曜日と月曜日を区別できなかったらしく、火曜日にわたしが大学近くのアパートに行くと、「月曜日の14時と14時30分ににうかがったのですが、留守のようでした。もう一度予約をお願いします」という紙がはさまっていて、わたしは「どっかーん!」と思ったけれど、どっかーんとなると頭の皮がやぶけてパイナップルとかが飛びだしちゃってたいへんなことになるので、わたしはどっかーんとならないでもう一度予約の電話をした。今度電話にでたひとは寝ているひとではないし、わたしが話しているときにかぶせてしゃべってこないし、「1時30分から3時30分のあいだに伺います」とか「ごみはそとにだしておいてください」とか必要な情報をわたしが訊くまでもなくだしてきてくれるまっとうなひとだったし、わたしはいいかげん安心してごみをだしたい、のです。わたしは、よのなかのひとすべてに等しく月曜日と火曜日があたえられていると思いこんで生きてきたけれど、それはわたしの錯覚や思いこみで、わたしが世界に押しつけている一方的な価値観にすぎない。わたしはまるで冬空のようだ。どっかんどっかん。
 雪が降った。いじわるなひとは「北関東に行くにはパスポートが必要です」とか「北関東は東北地方です」とか言う。わたしはだいたいべつに異論はないけれど、雪が降った。わたしはいつも穴のあいた靴を履いているので、雪道を歩くと2秒で浸水が始まり、足がうさぎのように凍えてしまう。つめたい。だれか靴をください。
 アルバイト中にプルースト「失われた時を求めて」(3巻)を読んでいた。だいたいわたしは1巻の途中からだれがどこで何をしていったいどういう人物がどういう関係にあるのかすべてがわからなくなって、3巻に突入したいまもだれがどこにいてだれとなんの話をしているのかわからないままに読みすすめているのだけれど、はて、この小説を読んでいるひとはみんな話の筋を追いながら読めているんだろうか。だとしたら、みんな本を読むちからがとてもすごい! 20世紀最高の小説と一般に言われているのはプルースト「失われた時を求めて」とジョイス「ユリシーズ」だと思っているけれど、ふたつとも、だれがどこでだれとなんの話をしているのか読んでいてもちっともわからない小説だった、ということは、20世紀とはきっとだれがどこにいてなんの話をしているのかわからない時代だったにちがいないとわたしは思う。すごいな20世紀。それできっと21世紀は20世紀のメタなんだろうなと思った。「だれがどこにいてなんの話をしているのかわからないのはちょっとあぶなーい!」と思ったひとたちがたくさんいて、だれがどこにいてなんの話をしているのかわかるようにして、そこに架空の存在をつくって世界を正しい対立のかたちにおさめようとした。でも、だれがどこにいてなんの話をしているのかわかるようになったひともそれが架空によって裏づけされたうそんこな対立だということを知らないで、「YO! YO!」とか言いながら偶像に話しかけている、もんだからだれかやさしいひとが「ちょっとちょっと、そんなにただしい対立のかたちをつくらなくてもわたしたちは会話できるよ、っていうか、そうやってただしい対立をつくりだしちゃったらわたしたちは本質的に会話をするのがむつかしくなっちゃうんだよっ」と教えてあげればいいのににゃあ。



 2010年3月10日(水)

 謝恩会の招待状と費用を集めにいった。夜にアルバイトをした。へんたいで詐欺師であぶないひとがレジにやってきたので、警察を呼んだ。警察のひとがうっかり8人くらい来たので、びっくりして、冷蔵庫に行ってがしゃこんがしゃこんジュースをつめた。



 2010年3月11日(木)

 粗大ごみをだせた。にこにこ。
 謝恩会の招待状と費用を集めにいく、はずの予定だったけれど、ここ最近あんまり眠れていなかったせいで激しい睡魔に襲われて、ベッドから起きあがることあたわず、気がついたら夜の7時くらいだった。未熟くんにやらせてしまった。ごめん。
 アルバイトをした。今日で最後のアルバイトだった。ようやくわたしは太陽の光を浴びる生活にもどれるんだなと思ってうれしくなった。ひとは夜間のアルバイトをしてはいけないということがよくわかった。
 吉行淳之介「菓子祭・夢の車輪」(講談社文芸文庫)を読んでいる。「吉行淳之介の何がおもしろいのかさっぱりわからない」と言うと文学をよくわかっているえらいひとたちにめたんこに怒られてしまうかもしれないので、「吉行淳之介つまんね」とわざわざ言わないわたしの頭はスマートだ。



 2010年3月12日(金)

 寝ていた。夜から渋谷で管城さんと今村さんとバナナフィッシュ鍋をやる予定だったけれど、たぶんバナナフィッシュ鍋はないと思うし、管城さんが死ぬ瀬戸際になったらしいので、ロマキャンが発動しました。おだいじに。

 詩誌「反射熱」主催の岡部淳太郎さんがとあるサイトでわたしの詩をとりあげてくださってます。わーい。わたしは詩人ではないし、詩にたいするやる気はいまほとんどなくて、わたしは詩を書けるとは(いまのところ)思っていなくて、とくに最近は「どうせまともな詩は書けないんだ」と思ってひどい詩ばかりをろくに推敲もせずに連投していて、それは、たとえば荒川洋治が井坂洋子に初めて会ったとき「とりあえず1日ひとつ詩書いてきてね」と言ったとか、そういう話に何かがあって、あと、吉本隆明は「1日ひとつ詩を書けばだれでも詩人になれる」と言ったそうだけれど、つまり、詩人なんてほんとうにはおそらくたいしたものではなくて、けれどもそのたいしたものではないものを引きうけるかたちで詩人はぎりぎりに存在しているかもしれなくて、だから、詩人はたいしたものではないかもしれないけれどたいしたものでないゆえに詩人ではなりがたくて、なんというか、松下容子「闇の末裔」というたいへんおもしろいマンガのなかで都筑は「俺は人間になりたかったんだよ」と言っていたけれど、わたしは、自分がいっこのにんげんであることを証明しようという欲求はぜんぜんなくて、むしろ、にんげんでありながらにんげん以外の蟻とかそういう生きものになるほうがずっとむずかしいと思うんであって、やあ、詩なんて書けるひとが書けばいいのに、わたしは自分の詩以外にべつに興味ないのに、とか思うんであって、そして、ペンギン・カフェ・オーケストラは「ミュージック・フロム・ペンギン・カフェ」しか聴いていないことを秘密にして口がさけても言わないわたしの頭はとんでもなくスマートだ。




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