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首を切られたひとびと

2010.03.13(21:06)

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 2010年3月13日(土)

 一歩もそとにでない、という本来わたしのあるべき姿を体現した、すがすがしい日常をすごした。

 14歳フェチなので、廣末哲万「14歳」を見た。おもしろかった。作品のラストでかつて14歳だった大人の男がいま14歳の染谷将太くんに「おまえらがだれかを傷つけるなら、俺はおまえらを傷つけるぞ」という台詞を吐いた。台詞としてはそれがいちばんよかった。この映画を見ているとみんなずっと悩んでいて思わず「おいおい、この世界には悩んでいる14歳と悩んでいるかつて14歳しかいないのかいな。ずいぶんせまい世界だな」と考えてしまうところもあって、そのてんで批判することはできるけれど、それを弱点ととるかどうかはかなり微妙なところで、この映画に関してはそれなりにいいんじゃないかと思った。わたしは鈍感もいいところなので、悩んで先生を彫刻刀で刺しちゃったりとか、そういうことはしないし、しようとも思わないし、ここに描かれている悩める14歳に共感もできない。でも、あの女の先生が「学校の勉強はバレエとちがってただの遊びじゃないから」と言ったり「わたしは14歳だった頃の気持ちが痛いほどわかるから、子供たちに全力で向きあっちゃうな」と言ったり、そういう言葉は、やっぱり気持ちがわるいと思う。この女の先生は14歳だったときに先生を彫刻刀で刺したという過去を持っていて、そのときのことをふりかえって「あのときああしなければ、そこにいられないような気がした」と言う。その台詞もやっぱり気持ちわるくて「何言ってんの?」と思う。この映画のなかで、あの女の先生とその女の先生の精神科の主治医だけが映像からはずれた、どこか理性や理論の場所にいて、14歳を「わかる」ための方法を必要としているように見えた。わたしがいまもっとも気になっているのは、たとえばこの女の先生のように考えないでどうやってだれかと向きあったらいいのかということだけれど、わたしはひとでなしだから、そういうめんどうくさいことはあまり、考えない。
 映画は一本で完結されない、ということをあらためて思った。この映画と、同じく14歳をテーマにした岩井俊二「リリイ・シュシュのすべて」をくらべてもいいし、こういう映画がある一方で、サリンジャーを提示してみせるのも、やっぱり映画を見るひとにひろがる背景を世界としてなりたたせるための、ひとつの手だと思う。だから、ほんとうはこういう映画を見たあとにぽんとサリンジャー(など)をわたしてあげるための「手」が必要かもしれなくて、望むならわたしはその手になりたい。そしていまそういう「手」がないなら、ものづくりに関わっているひとたち、そしてそのものを享受しているひとたち、すべてが抱えるべきおおきな問題だと思う。ものばかりつくっているひとはものばかりつくっている場合じゃないし、ものを見ているひとはものばかり見ている場合じゃない。それは「見てもらう工夫」とかそういうことではなくて、もっとべつの、なにかだと思う。よくわからないけれど。
(しかしそれにしても渡辺真起子はときどき母親を演じさせたら世界一じゃないかとほんとうに思うのだけれどどうだろうか)

 ベルイマンフェチではないけれどベルイマン「狼の時刻」を途中まで見た。ベルイマンは「恥」に続いて2本目。それで、ベルイマンってやっぱりすごいんじゃないだろうかと思った。68年の映画のくせにいつ撮られた映像なのかわたしの目みたいな節穴ではぜんぜんわからない。首から上がとぎれた不安定なショットが連続したあと、いきなり顔のアップがでででんと入ったりして、たいへん気持ちわるい。ベルイマンはひとの顔と胴体がひとつづきであることを認識できないほど変態だったのか。すごいぜベルイマン。「14歳」のなかでひとを切るのはカッターだったり彫刻刀だったりするけれど、ベルイマンの映画のなかではひとを切りつけるための道具はカメラだった。こういう視点が欲しい。
 萩原朔太郎の「月に吠える」という詩集のなかに「蛙の死」という作品がある。


 蛙が殺された、
 子供がまるくなつて手をあげた、
 みんないつしよに、
 かわゆらしい、
 血だらけの手をあげた、
 月が出た、
 丘の上に人が立つてゐる。
 帽子の下に顔がある。



 萩原朔太郎のなかではひとは帽子をかぶってすらいない。これは、たとえば、カフカ「流刑地にて」でいつの間にか囚人と兵士が仲良くなってしまっているという不自然な合一をもっとミクロなレベルで表現されたものに見える。「流刑地にて」では、囚人と兵士が仲良くなり、将校は自ら刑にふくし、お墓はレストランのテーブルの下にある。そういう世界が平然と実現されているのと同様に、帽子の下に顔があるんだと思う。カフカも朔太郎も画家だ。彼らはもう小説や詩を書いてすらいないように見える。彼らは絵を描いているだけだ。そして、ベルイマンはその一端にまちがいなくふれかけていると思う。




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