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ヤン・リーピン「シャングリラ」@Bunkamuraオーチャードホール

2010.03.19(22:26)

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 2010年3月18日(木)

 遊んだりなんだりで意外に時間がないので、日記なんてかんたんに。
 東京国立博物館「長谷川等伯展」に行った。70分ならんだ。ひとがたくさんいた。頭の隙間から見た「松林図屏風」の墨のしゅしゅってなっているところがちょうかっこういいからだいすきだと思った。等伯の絵ってアメリカのポップアートに似ていると思った。ポップアートのひとは水墨画とか練習しているのかな。
 紅姫さんといっしょに吉祥寺の弁天湯でやる風呂ロック(後藤まりこと田渕ひさ子)のライブに行くはずだったけれど、紅姫さんが具合わるくなっちゃったらしく(お大事にしてください!)、それで、管城さんも行くって言っていたので管城さんと行った。わたしは女湯にはいった。管城さんは「まりこ脱いででてこないかな」といきなりセクハラ発言をしていた。まりこがかわいかった。なんか小芝居やってかわいかった。かわいかった。あんなかわいい女の子を乗せてまわっているこの地球はいったいどういう物質でなりたっているのか不思議だった。わたしが知る全田渕ひさ子は「小谷美紗子『adore』でギターやってた、もとNUMBER GIRL」というだけだったけれど、田渕ひさ子もかわいかった。しかもおもしろかった。田渕ひさ子のアルバムももしかして買うべきなのかと思った。テンションがあがりすぎた管城さんは帰り道「はっはっはっはっ」と笑いつづけて「道路ででんぐりがえしがしたい」と言っていた。



 2010年3月19日(金)

 Bunkamuraオーチャードホールでヤン・リーピン「シャングリラ」を見てきた。すっごくおもしろかった。前半太鼓をたたいているだけで「あれ? ダンスじゃないの?」と思ったけれどなんか太鼓たたいているだけでもおもしろかった。歌もあったし踊りもあったし演奏もあったし、すごくおもしろかった。きれいだった。今年見た舞台のなかでいちばん。月光をバックにほぼシルエットで踊るヤン・リーピンがすごくきれいだった。ヤン・リーピンの「孔雀の舞」もこれまたきれいだった。腕がうねうねしていて「なあにあのひと腕の骨ないの?」と思ったくらいにうねうねしていて、きれいだった。衣装もきれいだった。ヤン・リーピンがきれいだった。白くてくるくるまわってふわふわしていたからすきだった。すごくきれいなものが見られたからわたしはうれしかった。オペラグラスを借りてみたけれど、いったいなんのために使うのかわからなかった。どう考えても拡大されずに、なにか、わたしが知らない調節のやりかたがあったのか。どこをどうまわしてもちっちゃいままだった。あれはオペラグラスみたいなかたちをした食べものだったんだろうか。パピコみたいにぱきってふたつに割ってもぐもぐ食べちゃうべきだったんだろうか。オーチャードホールでは19列目より前の席に座るべきだとわたしは未来のわたしに言った(ところで、あの字幕は9割以上いらないと思う。わたしは中国の文化や伝統を知るために中国のダンスを見にいくわけじゃないから)。
 ヤン・リーピンがきれいすぎてびっくりしてテンションがあがったので、そのまま帰るつもりだったけれどうっかりユーロスペースに行ってロメール「我が至上の愛」を見た。途中寝ていたのだけれど、とんでもない作品だった。舞台は5世紀。ふつう、5世紀など大昔を舞台にするなら、ブラッド・ピット主演「トロイ」みたいにたくさんのお金をかけてすごくきれいに昔っぽい映像をつくるのがもうふつうだと思うけれど、ロメールはもうそんなことをまるきり考えていないように見える。わたしはテレビの時代劇をたまに2秒くらい見えると「これは大昔のひとのしゃべりかたじゃなくて、大昔のひとがこうしゃべっただろうと思って考えた現代の時代劇のしゃべりかたにちがいない」と思うまったくいやなひとで、もしわたしが時代劇を撮るなら「えーうざくね?」みたいなしゃべりかたを平気でさせるのにな、とか思う。それで、つまりロメールは5世紀を舞台に「えーうざくね?」をやっているんだと思った。もうこれは映画じゃなくて演劇だ。そしてこれは「映画じゃなくて演劇だ」と言われちゃうくらいに映画なんだと思う。終わりかたもあっけなさすぎてすごい。信じがたい。
 スチュアート・ダイベック「シカゴ育ち」を読んでいる。ダイベックだからもちろんおもしろいけれど、「柴田元幸の訳しかたはこんなに村上春樹に似ていていいんだろうか」とやっぱり思ってしまう。柴田元幸の訳しかたが村上春樹に似ていることが問題ではなくて、柴田元幸の訳しかたが村上春樹に似ているとひとりの読者であるわたしに思われてしまうことが問題で、さらにいえば、それは柴田元幸訳の文章を読むと村上春樹をすぐに連想してしまうほど訳文のありかたが村上春樹的な文章に支配されていることが問題で、それは村上春樹みたいな文章を書けば「村上春樹みたいだね。だめだね」と思いこんでしまっているひとの問題で、もっといえば、なんとなくポスト柴田元幸くさい岸本佐知子の訳文を読んでいるときですら「あー村上春樹だね」と思ってしまうわたしの問題で、ふつうの文章を書かせたらあんなにおもしろい文章を書ける岸本佐知子が「翻訳」というだけで村上春樹を連想してしまうわたしの問題だと思う。
 ほーら、長くなった…。




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