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泥棒と虫けら

2010.04.27(23:52)

 泣きたい夜だからうまくピアノを聴くことができなかった。2年前、好きになりすぎたひとに徹夜で手紙を書いた。そのひとは暗い夜の雨みたいだった。この世界の光をすべてひっさらっていってしまった泥棒みたいなひとだった。てんしんらんまんに「光を奪ったよ!」とわたしに言ってチシャ猫みたいに笑いながらこころのなかで泣いていた。わたしはそのひとになりかった。どうしてそんなひとがこの世界にいるのかわたしにはほんとうにわからなくて、わたしは暗い夜のなかで朝が来るのを待っていた。苦しかった。そのひとが光を奪ってしまったのなら、もう朝は来ないんじゃないかと思った。でも朝は来た。朝はいつも複数形としてわたしの眼前にあった。だからわたしはチシャ猫みたいに笑いながら泣く練習をした。でもわたしにはどうしてもうまくできなかった。なんにもできないことをたっぷりと知っていたのに、そのひとのことをほんとうにいとおしいと思ったから、そのひとになりたかった。でもわたしにはやっぱりできなかった。わたしはそのひとじゃなかった。だからわたしはそのひとじゃないわたしがきらいだったし、そのひとになれないことがひどくつらかった。複数形の朝がうらめしかった。そのひとが泥棒した光を浴びたいと思った。その光をすこしでも浴びることができるなら、わたしはそのひとに踏みつけられて苦しむ虫けらでよかった。でもそれはうそだった。わたしのそのひとの足裏で嘆く虫けらではなく、そのひとと無関係なところで手をとりあって生きたいと思った。でもそのひととわたしは無関係だから、無関係なままでわたしたちが手をつなぐことはむりだった。そのひとはとてもこわいひとだった。わたしはあんなにもこわいひとを知らなかった。世界のすべてをまっすぐに見つめすぎるから、わたしがそのひとのまえに進みでたならばそのひとはわたしをたやすく踏みつぶすだろうとわたしは思った。いくらわたしがにんげんとしてそのひとのまえに立とうと、わたしはわたしの意志でたやすく虫けらになってしまうだろうと思った。わたしはそのひとのまえでにんげんとして存在することに耐えられないだろうと思った。だからわたしはわたしの恥ずかしさを押しかくすために虫けらになるしかなかった。でもあのひとはもしかしたらわたしをにんげんとしてあつかおうとしてくれたかもしれなかった。それはわたしには知れない。でもわたしはあのひとのまえで虫けらを選んだ。そうすることでしか関わるすべを知らなかった。ほんとうはいやだった。わたしはたとえばそのひとの地球になりたかった。なのにわたしは頼りない虫けらだった。どうしてひとを好きになるときわたしは虫けらとしてそのひとのまえに進みでるしかないんだろうと思った。それはいやだった。ほんとうはいやだった。いやなのに、わたしの好きなひとはいつも光を泥棒してチシャ猫のように笑い、こころのなかで泣いていた。わたしはそのかなしみがわたしが植えつけたかなしみならばいいのにと思ってばかりいた。そのひとのかなしみがわたし以外の場所から発生したかなしみだということがどうしても許せなかった。わたしはそのひとのかなしみになりたかった。わたしはそのひとのかなしみになりたかった。そのひとの笑いでなくていい、そのひとが泥棒した光でなくていい、もうそのひとと手をつなぎあうことすら望まない、だからせめてそのひとのかなしみになりたかった。でもわたしにはむりだった。わたしがわたしの惑星のまわりをまわっているあいだに、そのひとは遠い場所に行ってしまった。わたしは花を贈るぐらいしかすることがなかった。朝の光のような、新しい花々を。夜が明けるなら明けたっていい。そのかわり、ひとを好きになるときにもうすこし穏やかなやりかたをあたえてほしい。複数形の朝ならそれでいい。わたしが蛹なら、複数のわたしが還るだろう。わたしはそのひとではないきみのためなら複数のわたしでいい。そのひとではないきみのために、わたしは泣けない夜に泣かないだろう。花の音をたやすく聴きのがすだろう。




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