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休日破壊者の記録

2010.04.30(02:36)

ヴィターリー・カネフスキー DVD-BOXヴィターリー・カネフスキー DVD-BOX
(2010/07/24)
パーヴェル・ナザーロフディナーラ・ドルカーロワ

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 貴重な休日をつぶし、「はて、俺は貴重な休日をつぶしてまでなにをしているんだろう」という無力感にがんばって耐えながら、3本映画を見てきた。
 まずは、イメージフォーラムで「スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド」。これはゴダール「映画史」よりはましだけれど、そうとうひどい映画で、ジジェクが映画のシーンを引用しながらフロイトがどうの、ユングがどうの、超自我がどうの、といちいちつっこみをいれていくのだけれど、だいたい2時間30分のあいだなにを言っているのかひとこともわからなかった。でも、だいたいの場合まともな映画よりもひどい映画のほうがおもしろいので、この映画もおもしろかった。花に水をやりながら「へい、見てみろよ、この花、まるでヴァギナのようじゃないか、蜜蜂たちを淫乱に誘っているのだぜ!」とかいい歳してカメラに向かってまじめな顔で言っているジジェクさんはばかかと思った。ちょっと倒錯しすぎなんじゃないかと思った。わたしはなにを言っているのかわかるひとよりもなにを言っているのかわらないひとのほうがだいぶん好きなので、ジジェクさんも好きだと思った。チャップリンやリンチを思わず見たくなっちゃうところもよかった。「映画のなかには現実以上のリアルがある」とジジェクは最後に言う。わたしもそう思っていて、たとえば、わたしは「どの本にもたいしたことは書かれていない」と何度か言っていると思うけれど、同時に一般に言われるところの現実にはもっとたいしたことは起きない。起きないのはわたしのせいだけれど、でも、起きないというのはわたしが見つけられないせいかもしれなくて、だからわたしは本や映画をいっしょうけんめい見て、すこしでもこの世界の美しい部分を見つけることができたらなと思う。わたしは頭がわるいし、感受性のかけらもないから、そうすることでしか、一般に言われる現実にたいしたことを見つけられないから、こまる。みんながどうやって生きているのか、よくわからない。
 ユーロスペースまで行ってキム・テギュン監督「クロッシング」。北朝鮮を背景に、脱北によってはなればなれになった親子を描いた映画。これもまさかのメロドラマの連発でもうそうとうにひどい映画だけれど、とてもおもしろかった。これはファンタジーだと思った。アフリカにはアフリカのイメージがあって、アメリカにはアメリカのイメージがあって、ヨーロッパにはヨーロッパのイメージがあって、中世には中世のイメージがあって、江戸には江戸のイメージがある。だからわたしたちがそれらの国、時代を描くとき、じつはもうそれはほとんどファンタジーにはなっていない。「ロード・オブ・ザ・リング」はファンタジーがファンタジーになっていて、おもしろいけれど、ファンタジーにファンタジーが重なっている二重のファンタジーだ。でも「クロッシング」は一重のファンタジーになっていた。終盤、鉄条網を抜けて、子供がひとり荒野をさまようシーンがある。「なんだこれは?」とわたしは思った。「アラビアン・ナイトかよ!?」。キム・テギュン監督がどれくらい本気であのシーンを撮っているのか、実際に脱北という行為がああいうものなのか、わたしは知らないし、そんなに興味はない。でも、北朝鮮、韓国、中国、そしてモンゴルは、もしかしたらいま日本にとってもっともファンタジーな国なのかもしれないと思った。国から国へ移動すること、そんなものはたいしたことじゃないよとわたしなら思う。パスポートをとって飛行機に乗ればいい。でもわたしがこの映画でいちばん気になったのは、たかだか国から国へ移動するという行為がひとつの冒険譚になってしまうというそのありかただった。だからこの映画についてほんとうにまじめに語るんだったら、青山真治「EUREKA」やヴィム・ヴェンダース「さすらい」と比べるべきだと思う。まじめに映画を撮るのなら、日本、ドイツ、それぞれの国でそれぞれのやりかたでしかとれなかったロードムービーを、ロードムービー的手法をぜんぜん使わずにばかみたいなメロドラマ的手法ばっかり使って撮れちゃった(ように見える)この映画、あるいは北朝鮮、中国という場所としての背景を、まじめなひとは考えたほうがいいんじゃないかなと思った。
 そのままユーロスペースに残ってカネフスキー「動くな、死ね、甦れ!」を見た。これはひどくないのにおもしろい、というじつはわたしがいちばん好きなタイプの映画。1度3部作を見たあとであらためてまた見ると、冒頭ですでに泣けた。ワレルカとガーリヤがいっしょにいてなにかしゃべっているだけで泣けた。ガーリヤのやさしさ、せつなさ、かわいさ、がばくはつしていた! 今回はとくに感想はない。感想がないので、まえにわたしが書いたことを引用する。

 普通の映画監督がかりに何か現実を映して編集することによって映画をつくろうとしているのならば、カネフスキーは何かを編集して映画をつくることによってそれを現実にしようとしているように見える。ちがう。たぶんぜんぜんちがう。この世界に(残念ながら)現実しかないのならば、カネフスキーは現実を撮ることによって現実をつくった。でもほかのほとんどの映画監督は現実を撮ることによってそれをフィクションにしてしまう。その編集のやりかた、カメラワーク、演技のさせかた、そのすべてが現実に耐えられるような強度を持てないからだ。フィクションは現実のできそこないにすぎないと思う。すべてのフィクションは失敗作だと思う。

 わたしは映画なんかめったに薦めないけれど、カネフスキーはほんとうに見たほうがいいと思う。特に2作目「ひとりで生きる」はサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」を超えているように思える(!)ので、見たほうがいいと思う。2作目を見るには1作目を見なくちゃいけないから、「動くな~」も見ておいたほうがいいと思う。1作目と2作目を見たら3作目も見なくちゃもったいないので、全部見ておいたほうがいいと思う。今年のゴールデン・ウィークはカネフスキーを見るための連休だろう。

   ◇◇◇

 バーセルミ「雪白姫」を読んだ。おもしろさがまったくわからないまま全部読んだ。わたしはたぶんポストモダンがきらいなんだなと思った。あるいはユーモアの感覚がまったくないだけかもしれないけれども。




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