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「15 Minutes Made Volume 8」@池袋シアターグリーン

2010.05.02(01:00)

いつか、遠くを見ていたいつか、遠くを見ていた
(2004/10/25)
友川カズキ

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 池袋シアターグリーンまで「15 Minutes Made Volume 8」を観にいった。6団体が15分ずつ演劇をやるというもの。時間堂をめあてに行ったけれど、結果的に、あえてむりやり、辛辣に、おもしろかった順にならべてみると、Mrs.fictions、芋屋、PLAT-formance、時間堂、TOKYO PLAYERS COLLECTION、国道五十八号戦線、だった。
 Mrs.fictions「Yankee Go Home(ヤンキー母星に帰る)」はいちばんリアルな言葉でしゃべっていた。トト子のしゃべりかたはあの世界で正しかった。ヒカルというヤンキーが椅子の上で目覚め、衒学的しゃべりかたを延々して、星に帰っていくというそれだけの話だった(意味がわからないと言うひとは意味がわからないでいい。わたしにだってわからん)。トト子は「ヒカルの言っていることを理解したいよ」と言っていた。トト子の使う言葉とヒカルの使う言葉はちがう。ちがうけれど、ふたりにはやさしさのようなものがあった。やさしさが言葉をつくるし、言葉がなければ演劇はないと思う。
 芋屋「てめぇは草食ってろ」は少年社中のようなのりがよかった。「ミルキーはママの味~」で爆笑した。つぼにはまった。草食系男子というカテゴリはいらないし、ラストの絶叫も余計だったと思う。けれど、美香役の桑原礼佳が異様にかわいかった。おもしろかった。
 PLAT-formance「R.F.D」はまさかのコントだった。すごくよく考えればわたしがコントを見たのは生まれてはじめてだった。演劇とコント、なにがちがうんだろう、ということをそういえばわたしはいっかいも考えたことがなかった。ボケとツッコミがしっかりしていればコントなんだろうか。「あ、コントだ」とわたしが思えばそれはコントなんだろうか。おもしろかった。
 時間堂「池袋から日暮里まで」はアイデアやコンセプトに忠実になりすぎてしまったのが、逆にマイナスかもしれないと思う。逆にそれはリアルじゃないよ、とわたしは思った。「15分しゃべりつづけて時間がきても終わらなかった」ぐらいまでやったほうがよかったと思う。これは15分見ただけではなんとも言えない。よかったともわるかったとも言えない。なんにもない。
 TOKYO PLAYERS COLLECTION「TOKYOが始まる」は、「渋谷というのはハチ公口からユーロスペースまでの道なりのことである」という認識しかないわたしにとって、いまいちのれなかった。わたしは「東京なんてないよ」ぐらいにしか思っていないので、東京の情報やナレーションばかりで構成されるこの演劇のことがよくわからなかった。なんというか、ひとは舞台の上にでてしゃべるなら、せっかくだからおもしろいことをしゃべったほうがいいんじゃないかと思った。ただ、「あなたは東京のことなんかなんにも知らない」とつきつけられるくだりはよかったと思う。「東京を知らないってそういうことじゃないよね」とは思うけれど。
 国道五十八号戦線「さっき終わったはずの世界」はノーコメント。

「15 Minutes Made Volume 8」は演劇の見本市以上のものになるのか、と思った。わたしは見本市なら見本市でいいと思うけれど、もうちょっと熱い思いがこめられているみたいにも思える。たとえば時間堂の黒澤世莉はこんなことを言っている。

「デートは劇場で」ということで、2036年にはふつうの高校生がデートで演劇を観るような社会、を目指しています。

 がんばれ。でも、「ふつうの高校生」ってだれだろう。「ふつうのひとが政治に参加できるようなしくみを!」みたいなことを言ってがんばっているひとがいる。「ふつうのひと」に観にきてもらうために、つくりては「ふつうの演劇」をつくらなくちゃいけないんだろうか。ふつうのひとが、演劇や政治、あるいは映画でもなんでもいいけれど、それにコミットメントするような体制をつくりだすためにはまずふつうを殺さなくちゃいけない。そのためにはまずふつうじゃないひとを殺さなくちゃいけない。「せーのっ」と言って子供たちが電車に飛びこむようなものだ。それはまだまだわたしたちにとって異常だし、事件だと思う。会社のひとたちがなにをやっているのかわからないのと同じように、演劇のひとがなにをやっているのかわからない。演劇のひとは演劇という会社をつくるんだろうか。よく、わからない。たとえば、演劇のちらしがどうして劇場に置いていないのか、わたしにはよくわからない。なぜ新文芸坐に置かないんだろか。新文芸坐には基本的におじいちゃんとおばあちゃんしかいないので、層がかぶっているとは思えないけれど、たとえばユーロスペースに置いたっていい。そして映画のちらしはどうして映画館にしか置いていないんだろうか。もしわたしが「ふつうのひとに演劇を観にきてもらいたい!」と思うのなら、わたしはまず自分が毎日なにをやっているのか説明したいと思う。毎日なにをしているのか、その演劇をつくるのにいったいいくらかかっているのか、どうやって稽古をしているのか、月収はだいたいいくらなのか、どのくらい稼げば劇団を維持できるのか、役者は演劇をしながらどんなアルバイトをしているのか、なにを美しいと思いなにをごみくずだと思うのか、どんな本を読み、どんな映画を観にいくのか、何時間稽古をするのか、稽古以外になにをするのか、どうして役者になれたのか、言葉をかけて説明したいと思う。「ふつうのひと」とは「ふつうの学生」や「ふつうの会社員」だと思うけれど、どうしてわたしたちがそのひとたちのことを「ふつう」のだと思うかといえば、たぶん、わたしたちがそのひとたちが毎朝電車に乗ったり、自転車を使ったりして、会社や学校に行くということをいちおう知っているからだと思う。だから、毎朝せっせと学校や会社に行かないひとたちのことをわたしたちは「それはふつうじゃないよ」と言う。わたしたちの言っている「ふつう」とは「毎朝どこかへせっせとでかけていく」ということでしかない。そして、演劇のひとたちはわたしたちにとって「ふつう」かどうかすらわからない。もしかしたら意外にふつうかもしれない。でも、それはわたしたちからすれば見えない。20回演劇を見てもわたしはいったいどうやったら役者になれるのか知らない(興味はないから)。舞台に立つことはひとつの特権だ。会社の飲み会で幹事をやることが「ふつうの生活」に回収されてしまうことと比べれば、本人たちがどういう意識を持とうが、舞台の上に立つということはおそらくどうあっても特権だと思う。特権だからこそそれは「演劇」として成りたつ。なぜなら、「演劇」は「会社」ではないからだ。そして、会社に行くことと演劇に行くことはなにがちがうんだろう。お金をはらうこととお金をもらうことはなにがちがうんだろう。
 わたしは、演劇に判断がくだせると思う。「この演劇はおもしろい、この演劇はつまらない」とある程度自信を持って判断していると自分では思う。本についても、映画についても、音楽についても。それではいけないと、たぶんたくさんのひとが思っている。わたしもそう思う。そんなくだらないことでしか矜持を持てないにんげんばかりが演劇を観にいってはいけないと。でも、たとえば投票には判断が求められる。わたしたちがそこに行くとき、わたしたちに求められるのは判断だけだ。判断しないひとは投票には行かない。わたしも行かない。でも、休日に投票に行くことと休日に演劇を観にいくことにどんなちがいがあるんだろうか。そういうことを教えてくれるひとはだれもいない。ひとは「判断ができるから」どこかへおもむくんじゃないだろうか。そうだとしたら、それは喜劇的だ。すごく。そして「判断ができないから」わたしは会社に行く。たぶん。

 せっかくだから、新文芸坐まで行って増村保造「妻は告白する」を見た。雨に濡れた若尾文子が異常にかわいかった。とんでもないことをばんばん言う、おそろしい映画だった。
 誤解をおそれずに言うと、1962年のこの映画はもう日本映画じゃないな、と思う。今日見た演劇でもそうだけれど、映画や演劇(や小説)にはリアルなしゃべりかたとリアルじゃないしゃべりかたがある。今日見た演劇のなかで唯一リアルにしゃべっていたと思ったのはMrs.fictionsだけど、それはいま現在生きているひとがしゃべるようにしゃべる、という意味ではなくて、そのしゃべりかたがその映画空間や演劇空間のなかでリアルであるようなしゃべりかたをしていた、ということだ。うまく言えないけれど、ここで鈴木並木さんが言っていることを適当に参照してくれればいい。
 日本以外の映画を見て思うのは、「このひとたちが現実でなにかをしゃべるようにしゃべっているのかどうか、よくわからないな」ということだった。だから日本映画以外の映画はすくなくともわたしにとってわたしに卑怯なことをしている、と思う。(ただ、たとえば、わたしがウォン・カーウェイ「マイ・ブルーベリー・ナイツ」を見ようと思って5分ほどで消したのは、そこにでてくるひとたちがまるで映画のなかでしゃべるように映画のなかでしゃべっていたからだと思う。映画のなかで映画のようにしゃべっているひとを撮ることしかできないひとは、わたしたちに映画しか提供できない。映画のなかに映画しかうつっていないなら、わたしはそれをつまらないと思って、現実で映画を観るために映画館に行く。たとえばそれはそういうことだ)。そして、わたしは増村保造「妻は告白する」という映画にうつっている若尾文子たちが当時のリアルな会話を交わしているのかわからない。だから、昭和がひとつの国家だとすれば、その国はアメリカよりもじゅうぶんに遠い。わたしは「クロッシング」で見た北朝鮮の風景のようにしかこの時代を見ることができない。だから「妻は告白する」はわたしにとっては日本語をしゃべる外国の映画だった。「あれは吹き替えですよ」と言われても、「あーそうだったんだ」ぐらいにしか言わない(現在テレビでやっている時代劇を見ても「昔のひとがこんなしゃべりかたするわけないじゃん」と思うわたしでも、山中貞雄「人情紙風船」を見たとき、なんてリアルなんだろうと思った。でも、いま考えればそれは「人情紙風船」のなかのひとがリアルな言葉でしゃべっていたわけではなく、わたしにそれをリアルな言葉かどうか認識する手段が失われていただけじゃなかったのかとも思う)。

   ◇◇◇

「俺のつくる焼きうどんってまずいな」と20回くらい思ったあと、オイスターソースでつくったら革命的な味がした。聞くところによると、フランス革命の時代、民衆は「オイスターソースをわれらの手に!」と言いながら貴族たちの首をがつがつ切りおとしていったらしい。やはり歴史は学ぶべきだ。革命をわが手に。
 実家に帰った。実家に帰るために、姉に「駅に9時か10時か11時にむかえにきて!」と言ったら怒られた。




コメント
すみませんこんなふうにコメント連投するつもりじゃなかったのですが、あというかつもりというのも変です、どんなつもりもなかったので全くわたしの意図するところとは違うというか意図すら無いものなのですが、つまり今何が言いたいかというと、私も昨日グリーンでその芝居×6を観たのです。ああびっくりした。しました。
Mrs.fictionsとても好きでした。時間堂はわたし初見だったのでこれからじゃかじゃか観たいな、と思うくらいの面白さを感じました。夜の回に行ったのですけれどもし同じ回なら桜井さま、すれ違っていたりしたのでしょうか。狭いです世界。それから小説が音楽であるのと同じような意味でコントは演劇だと思っています。でもそのことに反論されたら何も言い返せません。ありがとうございます。
【2010/05/02 13:51】 | ヨヲコ #- | [edit]
こんにちは。
太陽がぴかぴかしていたので
僕の回は昼の回にちがいないです。
6時間くらいの時間差ですれちがっていたにちがいありません。
Mrs.fictionsはすばらしかったです。「時間堂上等」とか「智恵子は東京には空がないと言ふ」とかもうばかじゃないかと思いました。
時間堂はマカロンだと問題だと思いました。僕は、「マカロンなんかどうでもいいよ!」と思うんですけれど、はたして、「マカロンなんかどうでもいいよ!」と言うひとに時間堂は何を言うことができるんだろうと思いました。「ふつう」によりそうことで、「マカロンなんかどうでもいいよ!」と言うひとのふつうにどう対応してくれるのかと。言うだけならかんたんだし、やっぱり15分じゃなんとも言えないたぐいのものだと、僕はいまのところ思っているのですけれど。

>それから小説が音楽であるのと同じような意味でコントは演劇だと思っています。

そうですね。そんなようなものかもしれません。
【2010/05/04 19:39】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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