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村上春樹とヴィターリー・カネフスキー

2010.05.06(01:52)

ヴィターリー・カネフスキー DVD-BOXヴィターリー・カネフスキー DVD-BOX
(2010/07/24)
パーヴェル・ナザーロフディナーラ・ドルカーロワ

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 人生なんてだれかの模倣にすぎない。たいしたことじゃない。

   ◇◇◇

(カネフスキー「動くな、死ね、甦れ!」、「ひとりで生きる」、村上春樹「1Q84」についてねたばれあり)
 ユーロスペースで見たカネフスキー「ひとりで生きる」はやっぱり奇跡のような映画だった。わたしは映画のことなんてなにひとつわからないけれど、シーンによって明度を変えているような明るさがすごくここちよくって、見ているあいだ、「俺いますごいもの見てる」と何度か思った。こんなふうに思える映画って、なかなかない。船の上でなわとびをしている子供たちをとらえた映像はわたしが見てきたなかでいちばん美しいものかもしれない、と思う。ワレルカとワーリャの船上のシーン以降、作品は急激に地続きであることをやめてしまう。燃えるねずみ、マーシャとワーリャの死体との対面、そして小屋のまわりを裸で走りまわる獣のようなにんげんたち、ワレルカはついにカメラに向かって語りだす。
「おまえらは俺を殺したいんだろ。でも、殺さないでくれ。殺すなよ。愉快なにんげんがひとりはいたほうがいいだろう。でもおまえらは俺を殺そうとするんだよな。だったら俺が自分で消えてやるよ」
 村上春樹「1Q84 Book 3」でなによりも気にいらなかったのは、「Book 2」で死を迎えたとどう読んでも思える青豆が「じつはひきがねをひいていなかった」といういってんで、「Book 3」はそのてんで歪んでいると思う。歪んでいるわりに、わたしには「どうしても書きたい」と思うような意志をうまく感じることができなかった。それは、「Book 3」が過去2作と同様、その文章が物語の筋を追うようなかたちでしか展開されていないからだ。登場人物たちは会話を交わすふりをして物語の筋を追っているだけだし、地の文はなにかを描写をするふりをしながら物語の筋を追っているだけにすぎない。どうして村上春樹がそこまで物語の筋を追うのかわからない。おおきな物語があり、登場人物はそれをなぞらなくてはいけない。青豆も天吾も物語の傀儡にすぎないと思う。彼らを物語の傀儡に落としこめているのは、村上春樹のたどりついた文章のスタイルだ。彼らはもう羊は追わない。なぜなら、もう羊は眼前にあったし、絶え間なく天上から降りそそいでいるからだ。
 カネフスキー「動くな、死ね、甦れ!」ではガーリャの突然の死によって物語は終わりを迎える。そして、続編の「ひとりで生きる」はガーリャを演じた俳優によって、ガーリャの妹ワーリャが演じられ、ワレルカにたいしてガーリャと同じ役割を演じ、最終的に突きはなす。ワレルカが船を降ろされ、ワーリャに「手紙を書くよ。返事をくれよ」と言う場面。ワーリャは返事をしない。そのかわり、「この鳩を飛ばしてちょうだい」と気狂い女がワレルカにわたした鳩ばかりを気にして「その鳩をちゃんと飛ばすのよ」となんどもくりかえす。船を降りたワレルカはその鳩を空に放つけれど、鳩は飛ばず、海に落ちて死ぬ。そしてその後、明示されないけれど、ワーリャも海に落ちて死ぬ。ワレルカはカメラに向かって語る。
「おまえらは俺を殺したいんだろう」
 続編は歪む。「ガンダムSEED」の続編「デスティニー」がつくられたとき、「SEED」の最終回でムゥの死の象徴である宇宙に漂うヘルメットが画面から削除された。続編は歪む。アゴタ・クリストフが「悪童日記」から続く3部作でその都度前作を否定したように。村上春樹「1Q84 Book 3」は歪みをひきうけず、それをおおきな物語でただ隠そうとしただけのように見える。わたしはできるなら、歪みをひきうけるべきだと思う。
 カネフスキー「ひとりで生きる」の続編、「ぼくら、20世紀の子供たち」はフィクションではなくドキュメンタリーだ。不良少年ワレルカを演じたパーヴェルと守護天使ガーリャ、ワーリャを演じたディナーラが収容所のなかで再会し、おごそかでやさしい会話を交わす。それはドキュメンタリーのなかで生まれた残酷な物語で、ゴダールがかつて「すぐれたフィクションはドキュメンタリーであり、すぐれたドキュメンタリーはフィクションである」と言ったように、たんじゅんなクレヴァスが埋まる。それはまちがいなく歪みだと思う。でも歪みのなかにはやさしさがある。美しさがある。「ぼくら、20世紀の子供たち」はタルコフスキーやパラジャーノフと同じように、わたしが「これは世界でもっともきれいな映像だ!」と思う映像で構成されている。歪みを、残酷な物語をひきうけるというのは、たとえばそういうことだと思う。「ひとりで生きる」で火の粉が降りそそいだように、「ぼくら、20世紀の子供たち」では光の粒子が画面全体に降りそそぐ。これはなんの比喩でもない。
 わたしは会社が終わりしだいかけつける。この世界でいちばんきれいな光を見るためなら、へっちゃら。

   ◇◇◇

「奇跡のような映画」とはまったく正反対で、「奇跡なんてひとつも起こらない映画」としておもしろいのが、石井裕也監督「川の底からこんにちは」。満島ひかり主演で、わたしは満島ひかりが主演の映画は見にいかなくてはいけないというかわいそうな呪いにかかっているので見にいったけれど、これはおもしろい。20回くらい笑った。
「いいかげんあんたを好きになりたいんだよ」
 満島ひかりはそう言った。すごくいい言葉だと思う。わたしもいいかげんだれかを好きになりたい。
 新人監督の作品をなんとなくだらっと見ていると、いまの映画の傾向とわたしの好きな映画の傾向がつかめる。「川の底からこんにちは」はわたしの見たところ、横浜聡子「ウルトラミラクルラブストーリー」と同じ系譜だと思う。たぶん、いま評価されるたぐいの映画の主流がこの系譜なんだと思う。
 べつにかまわない。でも、こういう分析みたいなことは、やっぱりなんとなくさみしい。

   ◇◇◇

「世界初! 塚本晋也全監督作品上映」がシアターN渋谷で。わたしは「バレット・バレエ」だけは見にいくつもりだけれど、塚本晋也ってだれだか知らないので、どうすればいいのかわからない。




コメント
タルコフスキーは3月に「惑星ソラリス」のビデオを図書館で借りて見たばかりです。TSUTAYAにないんだもん。
「惑星ソラリス」は「こんな清潔に散らかっている宇宙ステーションにソラリスの海が『お客』寄こすのは当然だよ」という映画だと思いました。あれが20代の男女数人がタバコと酒をかっくらってるステーションなら、チェーンソー持ったGKマスク男が侵入するだけですね。
パラジャーノフとカネフスキーは残念ながらまだ観てません。つーか、桜井さんのこのブログ読むまで存在自体知りませんでした。色々教わってます、ありがとうございます。
【2010/05/08 21:43】 | 上田洋一 #- | [edit]
「ソラリス」
SFと言ってもわりと適当ですよね。
未来都市の道路に日本の首都高がそのまんま使われていたり
日本人から見ると「ぬお!?」という感じで。
宇宙ステーションもそんな感じで。
奥さんが美人だからなんでもいいですけれど。
パラジャーノフとカネフスキーは僕もよく知りません。
適当に映画館に通っているだけで
いろんな発見があるみたいです。
【2010/05/10 07:55】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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