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皿を割れ 皿を割れば 倦怠の響きが出る。

2010.05.11(23:25)

My Last DayMy Last Day
(2007/11/06)
Kim Hiorthoy

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 カフカは古い作家ではあるけれど、古い小説ではないと思う。カフカの小説はむしろ「古びることができない」といういってんでだけなりたっていると思う。彼の小説はいっかいいっかいで生成される機械のようなものだと思う。彼の文章は錆びつかないわけではなくて、もう錆びきっている。それにもかかわらず動いているからこそ、カフカの小説は魅力がある。終わりもなく、くるくるとまわる彼の小説は永久機関で、この世界でもっとも古い存在のはずの宇宙にたいしてわたしたちが「それは古いよ」と言わないのとどうよう、わたしにはカフカを古いとは言うことができない。カフカの小説はその瞬間にしか生成されない。それは太宰やドストエフスキーとはぜんぜんちがう。わたしがドストエフスキーや太宰に言及するとき、わたしはドストエフスキーや太宰に言及するしかない。でも、カフカに言及するとき、カフカはもうそこにはいない。カフカはそういう作家だったと思う。だから、カフカをまねて文章を書くことが古いとはわたしは思っていない。カフカとは世界の最前線にこぼれおちる粒子に名づけられた別名だ。古いのはそれを見つめているわたしだ。カフカをまねているわたしが古いのではなく、古いわたしがカフカをまねているだけだ。にんげんは宇宙よりもつねに古い。

   ◇◇◇

 チェルフィッチュの岡田利規が新作「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」の評判がいいことにたいして、「釈然としない」と言っている。「ホットペッパー~」はわたしがいままで見たチェルフィッチュのふたつの作品とはだいぶちがうし(演劇と音楽くらいにはちがう)、だからこそ、傑作だと思った。今年見た舞台のなかでいちばんよかったと思う。けれど、同時にそれはいままで見てきたチェルフィッチュがあってからこそ思うことであって、言いかたは難しいけれど、いままで音楽なんて聴いたことのないひとが音楽を聴いたらそりゃびっくりするだろう、という程度の意味でしかないと思う。たとえば、わたしは加山又造を見て「にほんが!」と生まれてはじめて思って、Pink Floydを聴いて「ぷろぐれ!」と生まれてはじめて思って、酒井幸菜がくるくる踊っているのを見て「だんす!」と生まれてはじめて、思った。それは「出会い」だったし、「誕生」だった。ものが生まれるのはけっきょくのところ自分の身体のなかにしかないのだし、すくなくともわたしはそういう方法でしかわたしの外部のものとかかわることができない。だから、けっきょくのところ加山又造がなにを描こうが、わたしとは関係ない。まったく。なぜなら、加山又造の絵はわたしの外部にしかないのだから(音楽やカフカがすばらしいのは、それがわたしの内部にしかないからだろう)。
 チェルフィッチュの今回の作品はたしかに「わかりやすい」。でも、なにがわかりやすいのかわたしたちにはわかりにくいと思う。チェルフィッチュの「フリータイム」と「わたしたちは無傷な別人であるのか?」のわかりにくさというのは、それが演劇であるのかどうなのかわからない、ということがまず挙げられると思う。彼らの言っていることはおおむねわけがわからないと思うけれど、かりにチェルフィッチュの舞台がわたしたちが一般に知っている舞台のようだったら、役者たちの言っていることにたいして「よくわからない」とは(わざわざ)言わないと思う。わたしたちが役者たちの言っていることにたいして「よくわからない」と「安心して」言うことができるのは、なにより、その舞台がはたして演劇なのかどうかよくわからないからだと思う。そして、今回の新作の「わかりやすさ」というのは、たぶん、「その作品が演劇なのかどうかわからないということがよくわかる」くらいの意味だと思う。だから、わたしはふだんよりも安心してチェルフィッチュを見ることができた。そして、「安心して見ることができた」というのは岡田利規にとって侮蔑だろうなと思う。ただ、今回の作品はあえて比較するならボブ・ディランのLIVEに似ていたように思う。それは「誕生」だったし、「出会い」だったと思う。

   ◇◇◇

 高橋源一郎がヘンリー・ダーガーのことを話していた。ダーガーは病院とアパートを往復し、清掃の仕事をしていた。友達はだれひとりいなかった。彼の名前の読みかたを知っているひとはだれひとりなかった。彼は毎日小説を書いた。それは世界でいちばん長い小説だった。そのために彼は椅子の上で眠った。
 わたしは、彼が小説を書いた理由を「暇だったから」だと思う。彼の作品を読んだことはないのでわからないのだけれど、わたしはなんとなくそう思う。彼には書きたいことや言いたいことなんて、とくになにもなかったんだと思う。わたしが文章を書くのはわたしが暇だからだと思う。わたしはとくに書きたいことはないと思う。でもあるかもしれない。それでも、言いたいことはなにひとつないと思う。すくなくともそれが文章としてしか現れないのなら、わたしはそれを言わないだろうと思う。文章なんてその程度のものだと思う。いちばん言いたいことを文章で書くなんて、破廉恥な行為だと思う。

   ◇◇◇

・いまになって日曜日「レンピッカ展」最終日、めんどうくさがって行かなかったことを後悔している。
・わたしの家の妖精さんが食べちゃったのとわたしが買いものに行かないせいで食材がない。
・妖精さんはわたしに食費をはらうべきだ。
・だれかわたしの家に食料をはこんでくれていいよ。
・とりあえずきゃべつと牛乳と霜降りな牛肉でいいよ。
・森美術館と東京都現代美術館ちょういきたい。
・わたしはあらゆるテクノに「はあ?」としか思わないけれどKim Hiorthoy「skuggan」はちょっと、さいきん聴いたもののなかでいちばん「!?」と思ったかもしれない。
・明日テストかもしれないので一生懸命日記書いている。
・だれかわたしにテストの日程教えてくれてもいいよ。


   ◇◇◇

 皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
  倦怠
   額に蚯蚓這ふ情熱
  白米色のエプロンで
  皿を拭くな
 鼻の巣の高い女
  其処にも諧謔が燻すぶつてゐる
   人生を水に溶かせ
   冷めたシチューの鍋に
  退屈が浮く
   皿を割れ
   皿を割れば
 倦怠の響きが出る。
             ――「高橋新吉詩集」より





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