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イキウメ「プランクトンの踊り場」@赤坂RED/THEATER

2010.05.17(02:14)

人間について (新潮文庫)人間について (新潮文庫)
(1980/09)
ボーヴォワール

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 土曜日はがんばって早起きして、4月にできたばかりの三菱一号館美術館に「マネ展」を見にいった。マネは黒かったので、「黒い!」と思った。マネは黒いし、黒いし、黒かった。たぶん腹黒いし、浅黒かった。ジョブはダークナイトで、闇の剣とか使えるんだろう。「スペインの舞踏家」のドレスのあまりの黒っぷりを見れば、彼が夜な夜な暗黒武闘会をくりひろげていたにちがいないことがよくわかる。「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」ももちろんいいけれど、(批評家に「こりゃだめだ!」と言われてぶちきれて上半分をちょきんと切ってしまった)「死せる男」の異様なはくりょくがほんとうによかった。絵のもっと上からたれながされているような、この世界でいちばん美しい、黒色。
 早稲田松竹まで行って、キェシロフスキ「トリコロール 白の愛」と「青の愛」を見た。映画のおもしろさはでてくる女の子(ひと)がかわいいか(美人か)で9割が決まると思っているわたしは、「白」はジュリー・デルピーがあんまりかわいいと思えない上に、あんまり出番がないので、いまいちのれなかった。「殺人に関する短いフィルム」や「アマチュア」のような「なんだこれ(笑)」という衝撃もあまりない。テンポ(というかのり)が独特だったので、いまいちのれなかったのがいけないのかもしれない。
「青」はいっぽうジュリエット・ビノシュがかわいかったので、たいへんにおもしろかった。青かった。さいきん、わたしは白という色にあんまり興味が持てなくて、あんまりきれいな白色を見た記憶がない。ハンマースホイの雪くらいかな。でもユトリロの描いた雪もきれいだったかもしれない。よくわからない。「青」は音楽の映画で、ジュリエット・ビノシュの頭のなかでばっきんばっきんに音楽が鳴っていた。音楽はきれいだけれど、頭のなかであんなに音楽が鳴っていたらうるさいだろうなと思った。うるさいのはきれいなものだった。いつも。音楽が鳴るとき、映像が暗転し、それから再開する。音楽が映像をきりさいていた。それでも、映像は音楽を通して手をにぎりあっていた。だからそれは再会だった。そしてそれはきっとその世界でなによりもただしい音楽だった。画面の質はエリセ「ミツバチのささやき」に似て、光やコーヒーカップのアップがとても美しかった。最後の「コリント書 13章」(たぶん)の合唱シーンもよかった。ガラスに閉じこめられたジュリエット・ビノシュはかわいい。
 そのあと新宿で「ざんげの値打ちもない」の山田真実さんと会ってきた。彼女は演劇っこなので、ためになる話をいっぱい聞かせてもらった。チェルフィッチュの作品のつくられかた(テキスト、絵、身体)や、勅使川原三郎の講義だかワークショップだかに行ったら1時間30分えんえんジャンプさせられた話を聞くことができた(勅使川原三郎のまわしものなので言うけれど、20日から彼の新作がBunkamuraで行われます。ちょうたのしみです。勅使川原三郎ってダンスのなかではいっとう好き。唯一の危惧はわたしには「アンダルシアの犬」のよさがぜんぜんちっともさっぱりわからないということ。でもなんでもいいや)。勅使川原三郎のダンスを見ると、「あれってふりつけちゃんとぜんぶあるのかな?」と素人のわたしは思うけれど、山田さんによれば「あると思います」とのこと。たとえば、佐東利穂子さんは横浜トリエンナーレで5時間ガラスの上でぶっつづけで踊っていた(らしい)けれど、そういうのにもすべてふりつけはきちんと存在する(らしい)とのこと。ダンスのひとはすごいと思う。ダンス見たい。いっぱい。山田さんはやる気があって(あってというか、なんというか)えらいと思った。わたしは会社の仕事はおろか、自分がやっている書くという作業にもそんなにやる気はないので(というか、「やる気ない」と言うことを唯一のプライドにする、というかなんというか)、やる気を口にだせるということはえらいことだと思った。こわいけど。いろいろお話をしたはずだけれどあんまり覚えていないのは、たぶん、佐川急便の話が衝撃的すぎたからだろう。ここに書くと佐川急便のスナイパーに狙撃されて死ぬので書かない。
 ほかのひとが青色に光っているお酒を飲んでいたのでうらやましくなって飲んだ。飲んでいるあいだまぶしくてしかたなかった。愛の味はしなかった。光っているだけでとくにおいしいものではなかった。

   ◇◇◇

 日曜日はお昼まで寝て、夕方から赤坂のRED/THEATERでイキウメ「プランクトンの踊り場」を見てきた。「俺は働かない!」と絶叫していたお兄ちゃんがさいこうによかった。演劇も「ふつう」におもしろかった。
 思うに、1度見た劇団の新作公演を「見にいこう!」と思わせるのは、とてもむずかしいと思う。「プランクトンの踊り場」はおもしろいけれど、イキウメを、自発的にもう1度見たいとは思わない。たくさん見ても、もう1度見たいと思える劇団なんてほんとうに少ない。前田司郎、本谷有希子、岡田利規、柴幸男、そういうひとたちは貴重だし、さびしい。たとえば時間堂は2時間見ればおもしろいかもしれないけれど、15分見たかぎり、新作がつくられても自発的には行かないと思う。演劇というのはそれくらい、敷居が高い。わたしは川上未映子を初めて読んだとき「おもしろいけれどそんなにおもしろくないよね」と思ったけれど、なんだかんだで「乳と卵」も読んだし、「先端で~」もうちの本棚で2ヶ月くらい眠っている。本というのは敷居が低い。いまカルヴィーノ「柔らかい月」を読んでいて、これもなにが書いてあるのかぜんぜんさっぱりわからないので「あんまりおもしろくないよね」と思うけれど、どうせカルヴィーノのほかの作品もまただらだら読むに決まっていると思う。本は敷居が低いと思う。それはほんとうにそうだと思う。本を舐めていると言われればそれはそうだと思うけれど、べつにわたしは本なんてアイスキャンディーみたいに舐めていればいいと思う。どうせたいしたことは書かれていないんだし、どの本を読んでも文章しかないのならば、どの本を読んでいたってほんとうにはたいして変わりはない。演劇は、「なにかがある!」と思わなければ、たぶん2度と自発的には見にいかない。その「なにか」というのはなんだろうと考えてみると、たぶん、「オリジナリティ」なんだろうな、というつまらない考えに到達してしまう。「オリジナリティ」というのはわたしはきらいな言葉で、ある作品にたいして「オリジナリティがない!」なんて言うのはなんにも言ってないのと変わらないと思うので、それを言うくらいならなんにも言わない。けれど「オリジナリティ」というのが「なにか」につけられた別名だとしたら、やっぱり「オリジナリティがあるか、ないか」というのは重要な話なのかもしれない、と思う。イキウメ「プランクトンの踊り場」に「オリジナリティ」があるかないか、と言ったら、ないと思う。「オリジナリティ」という概念で一般に象徴される「なにか」というのは、あってもなくても作品の「おもしろさ」には関係がない、けれども、「その作家(演出家)の作品をもう1度見たいか、見たくないか」には関係がある、ということかもしれない。飴屋法水の「4.48 サイコシス」はあんまりおもしろくはないけれど、飴屋法水がまたおおきな演出をやるならば、もういっかい見たいよね、ということだと思う。
 ユーロスペースのレイトショーで石井裕也「君と歩こう」を見た。「川の底からこんにちは」が横浜聡子「ウルトラミラクルラブストーリー」なら、「君と歩こう」は「ジャーマン+雨」だろうか。「君と歩こう」はタイトルも信じがたいぐらい地味だけれど、中身もとんでもなく地味だった。もうどうやったらこんなに地味な映画がつくることができるんだろうかというくらい地味だった。べつになんにも起きないわけではない。でも、たとえば、ジャ・ジャンクーの映画は死ぬほど地味だけれど、そういう地味さとは一味ちがった地味さで、画面全体に地味さがへばりついてとれないくらい、地味だ。地味すぎる。だいじょうぶかと心配になるくらい地味だ。ジミー・ペイジの512倍くらいは地味だ。つまり、「この手の地味さこそがオリジナリティと呼ばれるのだよ」ということです。
 ユーロスペースに通っているので、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」の予告編をもう30回くらいは見ている。それで、予告編にでてくる「きもいよぉ」という女の子が死ぬほどかわいくてだからわたしはもう30回くらいは死んでいるのだけれど、もしかして、あれが噂の多部未華子ですか(ひとの顔を判別できないのでちがうかもしれない)。多部未華子(仮)に「きもいよぉ」と言ってもらえるためにはなにをすればいいんだろうか。それはもしかしてわたしの人生の最終目標ではなかろうか。ストーカー養成学校に通いたい。

   ◇◇◇

 高橋源一郎「『悪』と戦う」を読みおわった。期待していたほどは、おもしろくなかった。これはわたしはけっきょくのところ舞城王太郎「好き好き大好き超愛してる」だと思うんだけれど、わたしは、それなら舞城王太郎のほうがおもしろいし、泣けると思う。村上春樹と高橋源一郎は70年代以降もっとも重要な作家で、わたしがもっとも好きな作家だけれど、さいきん、彼らが小説でいったいなにをやっているのかよくわからない(高橋源一郎の場合、評論がおもしろすぎるのがいけないのかもしれない)。もっと若い世代の作家のほうがずっとうまくおもしろいことをやっていると思う。これはいったいどういうことなんだろう、とわたしは思って、考えようとしたけれど、めんどうくさくなってやめた(たぶんひとは歳をとると小説を書こうとしなくなるということだと思う。高橋源一郎「『悪』と戦う」は小説ではなく、たとえば、トルストイが書いたような民話(童話、絵本)だし、「1Q84」も、内容をよく見れば物語が細切れにされてくりかえされているだけなので、あれはたぶん小説ではないんだろう)。
 ボーヴォワールおばさんの「人間について」がおもしろすぎるので、びっくりした。電車のなかで読んでいてぞっくんぞっくんした。さいきん読んだ本のなかではいっとうよかったかもしれない。わたしはパリに行ったときボーヴォワールおばさんのお墓のまえでうろうろして、彼女のお墓をぼへっと眺めていたけれど、読んでから行けば「ボーヴォワールおばさん!」という具合にもっと感動できたかもしれない。おしい。

 或る国は人間に不足しています。ところが、不足していると決定するのはその国なのです。隣国の目には、人口過剰であると見えます。社会がその慣習を固持するためには官吏を必要とします。ところが革命は、その社会を覆す闘士を必要とします。一人の人間は、他の人間たちのために、一個の与件となることによってしか、地上に自分の場を見出しません。そして、どんな与件も、超越されるように運命づけられています。人は、それを活用するか、あるいは、戦うことによって、それを超越します。わたくしは或る人々の邪魔物になることによってしか、別の人々の道具になりません。彼らの全部に役立つということは不可能です。
       ――ボーヴォワール/人間(人間について)





コメント
後れ馳せながらおつかれさまでした。
随分いろいろと停止していました…笑

やる気というか軋轢というか柿の木というか、わたしの背後からにょきにょき生えてくるので仕方なくお金もなく(給料日はわたしのような者にも平等に訪れました、ありがたや)ちょっとずつ前進するも、案の定の前方不注意、地に足つけたと思ったとこからいちにのさんでまるごと抜け落ちてしまいました。

いまはどん底であぐらをかきながら坂口安吾を読んでます。

『夜長姫と耳男』が好きです。

朝が来て佐川急便の刺客がやってくる前にお茶漬けを食べたいような宵の口であります。

それでは又…。
【2010/05/18 23:01】 | やまだ #- | [edit]
先日はわざわざありがとうございました。
おつかれさまでした。

柿の木がにょきにょき生えてきたら
いつでも柿をもぐもぐ食べられてすてきなので
すばらしいです。
まるごとぬけおちたのはきっと
柿を食べる代償です。
がむばってください。
柿をとるか 地面をとるか です。
まあ 地面です。

だれか僕に安吾のおもしろさを教えてほしいものです。
「不良少年とキリスト」がおもしろいとか なんとか。

名前をまちがえて書いていたのは
ただのいやがらせで
ぜんぜんまちがっていたわけじゃないですよ。
(気づいていなかったらここの4行を読むときは目をぐりんとさせて読まないでください)
【2010/05/20 22:27】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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