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川崎とは常にわたしたちが名づける別名にすぎない

2010.05.22(22:06)

柔かい月 (河出文庫)柔かい月 (河出文庫)
(2003/09)
イタロ カルヴィーノ

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 金曜日は会社の飲み会だった。同期なのに名前を知らないかわいい女の子としゃべっていたのが楽しかった。あの子はいったいだれだったんだろう。

   ◇◇◇

 カルヴィーノ「柔かい月」を読んだ。1部と2部はなにが書いてあるのかまったくわからず「ふざけんな」と思っていたけれど、3部の「追跡」がとんでもなくおもしろくて電車のなかでひとりにやにやしていたので、帳消し。

   ◇◇◇

 飯田橋にあるギンレイホールで、オリヴィエ・アサイヤス「クリーン」、ポン・ジュノ「母なる証明」を見てきた。
「クリーン」は去年見た映画のなかでいちばんおもしろかった映画だけれど、今年見た映画のなかでもやっぱりいちばんおもしろかった。こまぎれにされ、クローズ・アップされた断片が時系列にならんでいるだけでそれがひとつづきの映像になっているというのは奇跡の体現だと思う。アサイヤスのカットはフィルムのひとこまひとこまの密度に匹敵している。マネの黒はおそらくアンゲロプロスの黒に似ている。「クリーン」の冒頭の夜はアンゲロプロスの黒に似ている。マギー・チャンにまた惚れた。
 ポン・ジュノ「母なる証明」はまさか「クリーン」で更新された記録がいきなり更新されるとは思わなかったけれど今年見た映画のなかでいちばんおもしろかった。韓国映画を見るとたまに文化のちがいに愕然とさせられる。たとえば、こういう映画を体験したあとにアメリカやフランスの映画を見ると「なんだ、日本とたいして変わらないじゃん」と思うだろうと思う。というよりも、もう、わたしはアメリカやフランスの文化を文化だと認識することがうまくできないんだと思う。けっきょくアメリカやフランスの映画を見たときに感じる「アメリカっぽさ」や「フランスっぽさ」というのは、「日本っぽさ」ともう変わらないんだと思う。わたしはわたしがいま見ている映画がアメリカ映画やフランス映画だということをよく知っているから、そこに「日本っぽさ」や「文化」を感じてもそれを勝手に「アメリカっぽさ」や「フランスっぽさ」とか「(アメリカの)(あるいはフランスの)文化」に置きかえているだけかもしれない。もうアメリカやフランスに文化はない。そしてそれは日本には文化がないということだと思う。「母なる証明」はそういう「失われた文化」を冒頭のシーン一発で破壊してしまう。冒頭は、「草原でこきたないばあさんがオープニングテーマにあわせて珍妙な踊りをおどる」というとんでもないシーンだけど、わたしがそれを見て衝撃を受けるのは、監督が「本気でその演出をしているのか」、「ふざけてその演出をしているのか」、「ヌーヴェル・ヴァーグ以降のなんだかよくわからない映画芸術の純然たる継承としてたどりついた演出なのか」、が、ちっともわからないことだと思う。たとえば石井裕也「君と歩こう」には主人公の男の子と工場長がいきなり踊りだすシーンがあるけれど、それは「ヌーヴェル・ヴァーグ以降のなんだかよくわからない映画芸術の純然たる継承としてたどりついた演出」だと思う。わたしがうがって見ているだけなのかもしれないけれど、ツァイ・ミンリャンだってわたしは「ヌーヴェル・ヴァーグ以降のなんだかよくわからない映画芸術の純然たる継承としてたどりついた演出」だと思う。わたしはいつのまにかその手の映画にたいしてそういう印象を抱くようになってしまったし、監督たちがそういうシーンを撮ることそしてそういうシーンが観客にわたしが思うような印象を持たれるということを克服できているかどうか、を考えるとわたしは「あやしい」と思う(そういうことを考えると、「井口奈己ってめちゃくちゃすごいのかも」と思う)。ポン・ジュノはそういうところから一歩だけずれているように思う。たった一歩なのだけれど、その一歩が、「母なる証明」という映画を異様でばかげた傑作にしていると思う。ポン・ジュノはただのばかではない。ウォンビンが壁におしっこをして、そのあとバスに乗り母親ひとりがとりのこされる、という一連のシーンだけで、ポン・ジュノが(たとえば園子温などとはちがって)映画を撮れるひとだということがわかる。あるいは女子高生の死体が見つかるシーン、わたしはほんとうに映画を見るめがないのですぐ「黒沢清だ!」と思っちゃうけれど、あのシーンも黒沢清ではないんだと思う。ポン・ジュノは映画がたしかに撮れるくせに、ずれている。そのずれこそがわたしたちが知る文化だ。なぜなら、文化とは「ある国とある国のずれ」という以上の意味でほとんどのひとは使わないからだ。
 ミステリを見たのもひさしぶりだったけれど、真犯人に驚いたのはもっとひさしぶりだった。「ミステリでびっくりする」というのはトリックとか話の運びとかももちろん大事な要素だけれど、もっと基本的なことは、いわゆる「キャラがたっているか」だと思う。3人の犯人候補がいたとして、その3人がどうでもいいひとだったら、わたしは「犯人なんてだれでもいいじゃん」と思う。というより、ミステリにおいて犯人がそのひとである必然性というのはほんとうはまったくなくて、だったら、本質的に犯人はだれでもいいと思う。言いかたが難しいけれど、容疑者からひとりの犯人が特定される瞬間というのは同時に人類全体が犯人になる過程で、「犯人の発見」という行為は「『犯人なんてだれでもいいじゃん』という認識の発見・誕生」にすぎないんだと思う。だから、犯人が発見されたときにわたしたちがほんとうに驚く場合、わたしたちはもう「犯人がそのひとであった」という事実に驚いているんじゃないと思う。わたしたちがほんとうに驚く場合の「犯人の発見」は「人類全体が犯人ではありえない状態の発見」になっているんだと思う。そして、それはじつは愛の生成だと思う。だから探偵が犯人を特定し、なおかつその事実によって観客が驚くならば、探偵は犯人に愛を告白している。

  ◇◇◇

 映画を見終わったあと川崎に行った。もちろん、わたしは大崎に演劇を見にいくはずだったわけではなく、純粋なこころで「大崎の地図を見ながら川崎の街を歩いて迷ってみる」という遊びをやってみたかっただけで、わたしが川崎と大崎をまちがえるみたいな頭のわるいことをするはずがない。「大崎の地図を見ながら川崎の街を歩いて迷ってみる」という遊びはとってもたのしかったので、わたしは大満足だった。地図上に存在している建物が現実にはいっこもなかったよ! 道路のかたちすらちがっていたよ! ほんとうにびっくりしたよ! るんるん!




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