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勅使川原三郎「オブセッション」@Bunkamura シアターコクーン

2010.05.24(00:48)

おじさんは白馬に乗っておじさんは白馬に乗って
(2008/11/22)
高橋 源一郎

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 ぺん子さんと渋谷のハチ公前で待ちあわせをしていたらぺん子さんがやってきて「ハチ公ってどこですか?」と訊かれた。身のまわりでハチ公がどこにいるかちゃんと知っているひとをひとりも知らない。
 Bunkamuraのシアターコクーンで勅使川原三郎「オブセッション」を見た。いつもの勅使川原作品にはそんなにつっこむところはないけれど、今回はつっこみどころが満載だった。うすうす思っていたけれど、今回のダンスで勅使川原三郎が変態だということがよくわかった。いつもは美しさが前面に押しだされているけれど、今回は変態が前面に押しだされていたと思う。佐東利穂子の衣装がすでにぎりぎりアウトな範囲にうつっていて、わたしは過去4作品ぐらいKarasの作品は見ていて、たぶん、今回のがいちばんあぶなかった。次くらいはいよいよ裸になってでてくるんじゃないかと思えるくらいのアウトっぷりだった。照明の角度によっては全裸に見える、というか、あの衣装であの照明であの黒い靴、そして机上で海の生きものみたいにぐねぐね踊る佐東利穂子のすごさをどう形容したらいいんだろうか。軟体動物か。すごい。
 ヴァイオリンにあわせて勅使川原三郎と佐東利穂子が踊っていた。「ハーメルンのバイオリン弾きだ!」とわたしは思うけれど、見ていると、踊っているのか踊らされているのかわからなくなる。踊らされているということを踊るというか、あやしくてあやうい美しさがあった。勅使川原三郎が見せてくれる光はわたしがいちばん美しいと思う光だ。ヴィクトル・エリセやタルコフスキーが撮った光が実際にわたしの実感として感じられるかどうかわたしは疑問を持っていて(それはわたしが現実に・自然に対応していないからだけど)、そう思っているわたしは勅使川原三郎の光を見ると「よかった、こんなにきれいな光がちゃんとあって」と思って安心して、うっとりする。
「人間関係」に行こうと言ったらぺん子さんは「みんな『人間関係』が好きなんですね」と言った。みんな「人間関係」が好きなのか。みんな人間関係に飢えているのか。
 8時から見たい映画があったので、7時くらいまでつきあってもらってお話をした。ガンダムの話と、会社の話と、追っかけの話と、料理の話と、ミドリの後藤まりこの話(やたら評判がいい新作「shinsekai」買ってない…)などなど。

   ◇◇◇
 
 わたしはたぶん、だれかといっしょにいる時間を常に求めているわけではないんだと思う。わたしはたぶんだれかといっしょにいる時間を求めてばかりだけれど、同時に、だれかといっしょにいない時間も求めてばかりいるんだと思う。でもそれはかっこうをつけた書きかたにすぎない。けっきょくのところ、だれかといっしょにいたいときにはだれかといっしょにいたくて、だれかといっしょにいたくないときにはだれともいっしょにいたくない(あるいはだれでもないだれかといっしょにいたい)ということにすぎない。かりにわたしがほんとうに好きだと思うひとがいたとしても、たぶん、わたしはそのひとと毎日いっしょにいたいとは思わないだろうと思う。どんなにそのひとを好きであっても、そのひとと常にいっしょにいたいとは思わない。いっしょにいるならば、いっしょにいないようなありかたでいっしょにいることを選ぶだろう。それでもわたしはだれかといっしょにいる時間を常に愛している。でもそれはだれかといっしょにいるその時間のあいだにその時間を愛しているということでしかなく、たとえばわたしがだれかといっしょにいるあいだ、そのだれかがわたしが羨むようなありかたで存在している場合は特に、わたしはそのだれかといっしょにいた時間を愛しつづけながらなおそのあとのだれかといっしょにいない時間に絶望をする。ずっとまえ、友達に「だれかといる時間はたいせつだけれど、ひとりでいる時間も必要だよ」と言ったら「それは恵まれているということだよ」と言われた。「俺はひとりでいる時間なんてつくりたくない」と。そうかもしれなかった。
 会社にはいって、生活のリズムが整えられてくると、だれかといっしょにいる時間とだれかといっしょにいない時間の比重が常に重くのしかかってくることがよくわかる。わたしは休日はなるべくだれかといっしょにいない時間をつくらないようにせっせと裏で動いているけれど(そうでないとまじで死んでしまうに決まっているのでそうやっているわけだけれど、それは醜いことなのでやめたい)、そうでなくても、たとえばひとりで映画を見にいったりひとりで演劇を見にいったりするということは、だれかといっしょにいるようなありかたでだれかといっしょにいないような時間をすごすことだ。そしてこうしてブログに日記をせっせと書くことも同じだ。ブログに日記を書くということは、だれかといっしょにいるようなありかたでだれかといっしょにいないような時間をすごすということだ。だからそんなことはどう考えても不健康なので、やっちゃいけない。
 あるひとたちに「他人に興味がないように見える」と言われたことがあった。わたしも「わたしは他人に、というよりもほとんどすべてのものに興味がないな」と思っていて、それはやばいでござるなと思うけれど、やばいでござるなと思ってなんにもしないのはもっとやばいでござるな。

   ◇◇◇

 7時にぺん子さんとわかれて、わたしはるんるん気分でリチャード・ケリー「運命のボタン」を見にいこうとしたら、8時から「運命のボタン」はぜんぜんちっともまったくやっていなかったので、唖然として帰った。さいきん、大崎に行こうとして川崎に行ったり、ぼけが激しい。さいきん、ぼけが激しい。やばいでござる。

   ◇◇◇

 勅使川原三郎の次回公演は、11月、フェスティバル/トーキョーで。

 徐々にプログラムがアップされている。勅使川原三郎と黒田育世、そして前田司郎の作品はぜったい見にいきたいと思うけれど、可能なかぎり多く、11月の休日を全部つぶすこころづもりで、できれば全部見たい。こういう催しをえらいと思うのはきちんと春、秋と続けてやっていくことで、この催しに関してはとにかく続けていかなければいけない、続けていくことが大事だといまのところなんとなく思うので、がんばって応援したいし、だから、「みんな見にいってね!」とここで忘れずに、定期的に書いていきたい。


 小野寺修二「空白に落ちた男」

 行きたい。25歳以下は安くなり、わたしはそういうものにとにかくつられまくるので、行きたい。


 酒井幸菜「難聴のパール/Night In June」
 
「世界でいちばんかわいい女の子!」とわたしに絶賛されている酒井幸菜の新作。わたしはもうちゃんと予約しているので、みんな、こぞって見にいきましょう。


 新国立劇場「Dance To The Future」

 新国立劇場は宣伝する気がまったくないとしか思えないホームページのつくりかたをしている(ここだけ読んで「見にいきたい!」と思うひとがいるか?)。わたしは見にいく舞台を決める場合、正直な話、「その演出家がどう評価されているか」と「ちらしを見た印象」でしか決めていない。チェルフィッチュや五反田団がどんなにへんてこなちらしをつくっていてもわたしは見にいくけれど、知らないおっさんがへんてこなちらしをつくっているのなら見にいかない。ドミニク・ウォルシュはぎりぎり知っているけれど、あとのひとはぜんぜん知らない。わたしがこのチケットをうっかりとってしまったのは、ちらしの写真があんまりにきれいだったからだ(ドミニク・ウォルシュ「Wolfgang for Webb」の写真)。
 見にいくひとは、ちらしにうつるたった1枚の写真に6300円をかけるんだぞ。6300円だぞ。わたしが働いて稼いだ6300円だぞ。岡田利規がさいきん「演劇がパブリックであると定義づけられるだけの力が演劇内部にすらないかもしれず、それはまずい」と言っていた。なんというか、わたしみたいな演劇になんにもたずさわっていないただのひとが演劇にパブリックに結びつくためにはたとえばその劇場にたいして6300円のお金をはらいこむという手段でしかほとんどの場合ありえないんじゃないかと思う。なのにどうして新国立劇場は宣伝すらできないんだろうか。それでは誘蛾灯にすらなっていない。わたしはただの蛾だけれど、劇場は誘蛾灯ですらないので、しかたなくわたしは暗闇を探りにいく。「パブリックである」とはどういうことか、それは「ある場所がある都市のなかで明かりを放っている」ということだ。かつては火を起こすことが文明だった。でももうだれもそんなばかげたことは言わない。それでも、おおむかしの猿みたいなにんげんたちは火を起こすことで夜のなかでもおたがいの顔を見てコミュニケーションをとることができた。パブリックとはそういうことだ。非共用の空間を共用の空間に変えたのはただの火だ。
 公演のアンケートをわたしはいつも書かない。それは、めんどうくさいからだけれども、あの項目にはたったひとついちばん大事なことが抜けている。
「あなたはなぜここにいるのですか?」

   ◇◇◇

 高橋源一郎「おじさんは白馬に乗って」はひいきめに見て今年読んだ本のなかでもっともおもしろい本だけれど、衝撃的なのは、この本にはページ数がいっさい書いていないということだ。でも、そもそもどうして本にはページ数が書いてあるんだろうか。映画を見る場合、ふつうどこかに現在の時間が表示されることがない。でもなぜ本にはページ数がついているのか。それは、たぶん、読者に1ページめのあとに2ページめを読ませるという、作者や出版社のやさしいこころづかいだろう。けれど、本なんて何ページめから読んだっていいし、5ページめのあとに8ページめを読んだっていいはずだ。でも、わたしたちはあほうだから、ページ数が書いてあることで1ページめのあとに2ページを読まないといけないと思いこんでいる。それは思いこみにすぎないのに。そしてこの本にページ数が書いていないのは、この本がつまり5ページめのあとに8ページめを読んだっていい本であるということを裏づけている。
 わたしは、これはまったくの偶然だけれど、高橋源一郎「おじさんは白馬に乗って」とよく似た本を昨日読んだばかりだった。それは村上春樹というひとが書いた「風の歌を聴け」という本だった。「風の歌を聴け」をひさしぶりに読みかえしてみてびっくりしたのは、あまりにも内容がなく、読みおわったあとになんにものこらないという事実だった。それは評判のわるいケータイ小説の比ではなく、村上春樹「風の歌を聴け」の内容のなさは群を抜いているようにわたしには見えた。タイトル通り、この小説は風にちょっと吹かれたような読後感しかあたえない。それは高橋源一郎「おじさんは白馬に乗って」と同じだった。この本は読んだ内容を読むそばから忘れていく、おそろしい本だった。「それって『風の歌を聴け』じゃん!」とわたしは思った。「風の歌を聴け」は40の断片にわかれていて、いちおうのストーリーらしきものはあるけれど、内容がないならば、それはどんな順番で読んでもたいして変わりないじゃないかとわたしには思えた。この小説がカート・ヴォネガット「スローターハウス5」を下敷きにしているのはわたしの目にはあきらかだと思うけれど、「スローターハウス5」はそれでもいちおう小説だった。でも、「風の歌を聴け」は小説ですらなかった。たぶん、それは「おじさんは白馬に乗って」がそうであるように、エッセイだった。おそらく村上春樹が小説をほんとうに書いたのは「羊をめぐる冒険」からではないかと思う。そして村上春樹はそれから小説を書きつづた。「1Q84」は、村上春樹がふたたび書いた小説ではない小説、なのかもしれない。




コメント
確かに、映画や舞台や美術展を「観に行かせる」最大要因なんてチラシがでかいですよね。「世界最速のインディアン」はチラシでアンソニー・ホプキンスがニコニコしてなかったらわたしはわざわざ映画館まで足をはこばなかったでしょう。
「一人でいる」「みんなといる」ですが、ある心理学者(名前わすれた)に言わせると「人間が一生の間に親密なつきあいができるのは家族ふくめて7,8人」だそうです。
【2010/05/24 21:01】 | 上田洋一 #- | [edit]
ちらしを見て きたないサブカルっぽい絵が描いてあったら 
それだけで「ぽい」です。
描いてなくても「ぽい」するかもしれないので
たいていは「ぽい」です。

そういうことを言うひとは
「俺は決してだれともわかりあえないけど 親密な付き合いができているひとが数人いるぜ!」
とか自信持って言いだしそうで こわいです。
【2010/05/26 08:21】 | 桜井晴也 #oSfzfPCQ | [edit]
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