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愛とテロリズム

2010.05.26(22:43)

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 湯浅政明「マインド・ゲーム」を見ていて、この監督はこの作品にものすごく自信を持っているんだろうなあと思った。でも、どうしてひとは自分の作品に自信を持てたり、あるいは自信を持っているとこんなにも見える作品をつくることができるんだろうか。このひとは自分の作品をアートだと思っているように見える。この作品はなかでどんなにばかげたことをやっていても、すべて知性に回収されていくように見える。もっとはっきりと言うならば、この作品はほかのあらゆる作品にくらべて傲慢に見える。この作品の映像のつくりにくらべたら、ほかのどんな作品のメッセージ性もずいぶんまともなものに見える。わたしが、たとえばゴダールを好きなのは、彼がこの世界に存在するすべての映像についてあらゆることを理解して発言しているように見えながらじつのところちょうてきとうなことをしゃべっているように見えるからだと思う。
 なんでもいいけれど、たとえばゴダールはこんなことを言っている。

 私にとっては予告篇というのは、ほとんど完全な一本の映画です。私は本篇をつくるよりはむしろ、予告篇をつくりたいくらいです。私がいま予告篇をつくるとすれば、四、五時間の長さのものになるはずです。

 あるいはこんなことを言っている。

 私はむしろ、ゆで卵をつくることも含め、すべてが政治だと考えています。なぜなら、ゆで卵をつくるためには、ある一定の金を用意しなければならないし、ある一定のやり方を学ばなければならないからです。

 ゴダールはたったひとことで映画についてすべて語っているように見えながらも、よくよく考えれば、「え…だからなに?」ということしか言っていない。それで、たとえばゴダールの新作「ソシアリズム」の予告編は、本編全編の早まわしだったりする。ばかだろゴダール。しかもぜんぜんちっともまったくおもしろそうじゃない。ばかすぎるだろゴダール。それで、そういう予告編のありかたについて「どうだ」と問われても、「どうもしない」としか、やっぱりわたしには答えられない。それは、たぶん、やっぱり「どうもしない」んだと思う。それはたかが映画なんだと思う。ゴダールが言っていることを聞いたり、太宰が書いたものを読んだりしていると、彼らが「映画や小説なんてたいしたものじゃないよ」と思っているようにときどき見えてしまう。わたしがかりに彼らをほんとうに美しいと思えるところがあるとすれば、そこだと思う。湯浅政明は映画という存在やほかのひとがつくった映画作品や映画という仕事を「たいしたものだ」と思っているように見える。このひとは線をぐにゃぐにゃにゆがめ、途中で絵のタッチを劇的に変えてしまうくせに、ほかの作品を直線でしか越えようとしていないように見える。湯浅政明は自分の映画にたいして「これはくずだ」と言わないように見える。言っているかどうかは知らない。でもそう見える。「これはくずだ」と自分の作品にたいして言うと、ひとはいやんなって直線なんかひいている場合ではなくなるかもしれない。めんどうくさくて、定規なんてにぎっていられなくなるかもしれない。それは直線をひかないようにするための最低な手段かもしれないけれど、それは最低なことよりはほんのすこしだけましなことなのかもしれない、となんとなく思った。
 とあるブログでとある女の子がこんなことを書いていた。

 ちんこについて考えていて思うことには、わたしは男になりたい。ちんこなんて浅はかでとても素晴らしいよ。思慮深ぶるようなちんこなんて見たことがないでしょう。その点女は全然ダメで、だから永遠に女の敵は女だしわたしは女が嫌いです。あと男のちんこ以外の部分も嫌いです、全員死ね!


 彼女はたとえばゴダールのように語っている。
 ばかなふりをするひとはばかなふりをして知性のあるひとのふりをしているにすぎない。そして、知性のあるふりをするのはいつもばかなひとだった。太宰治はいつもばかだった。「斜陽」は、かず子の母親がいきなり庭でおしっこをしはじめて「かず子、むかしの貴族はみんな庭でおしっこをしていたのよ」と言われ、「まあ、お母さんこそがほんとうの貴族だわ!」とぽわーんとしてしまう小説だ。どうして太宰はこんなにばかなことを書けるんだろうと思うと、ときどきぞっとする。
 キリストは処刑されるとき、「神よ、神よ、なぜ私を見捨てたのか」と言った。自分が処刑されるときにこんなのんきなことを言うなんて、キリストはほとんど白痴だったにちがいない。頭がわるいとしか思えない。だからみんなキリストを信じた。

   ◇◇◇

「クレヨンしんちゃん 爆発! 温泉わくわく大決戦」を見た。ひとが戦争のことを知るためには歴史の本を読んだりするのだけれど、そうではなく、たとえば押井守「パトレイバー2」を見たっていいし、この映画を見たっていい。「パトレイバー2」では東京を自衛隊が占拠し、「温泉わくわく大決戦」では春日部を自衛隊が進軍する。日本の危機対策のなさに絶望した各国は円を売り急速な円安が進み、放たれるミサイル潰される戦車たちをまえに野党は「税金のむだづかいだ」と与党を批難する。たとえばこの映画では圧倒的なテロリズムにたいして対抗する手段が家族愛しかなかった。「20世紀少年」に登場するロボットとこの映画に登場するロボットはあまりにも似通っている。でもわたしは地球が破壊されるより春日部が破壊されるほうがかなしかった。幼稚園で飛散していく幼稚園児や先生がかなしかった。ずっとずっとかなしかった。どうしてみんな「テロは許さない!」と言いながらこの映画を見ないんだろう。この映画の最後で、テロリストたちは破壊された春日部をせっせと再建している。彼らは資材を運び、釘をうつ。どうしてみんなはテロリストを許せたんだろうか。温泉とはなんだったんだろうか。おんせん。

   ◇◇◇

 ヴァチカンはジャンヌ・ダルクの死後500年たって彼女を聖人と公式に認めた。500年前彼女は魔女だった。それから500年、彼女はなにをしたんだろうか。なにもしなかった。ただ彼女は死につづけただけだった。だから、ひとはなにもしなくても、ただ死につづけているだけで聖人になれるということだ。




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