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「ダンステアトロン No.18 Dance to the Future」@新国立劇場

2010.05.31(01:11)

グッドモーニンググッドモーニング
(2007/10)
最果 タヒ

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ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩 (新しい詩人)ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩 (新しい詩人)
(2007/11)
久谷 雉

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墓石に持っていく友人たちの顔を/じっと/見ていた間に星が墜ちて来た
夜が終わると/そこにはなにもなく/ひらいた空で鳥が吸い込まれていく
わたしの顔は剥がれ落ち小さな花びらとなった
飛んでいくことを言葉が、そのとき止めてくれたのならばそれはわたしを侮辱する、言葉だったろう
                   最果タヒ/最弱


 吉祥寺バウスシアターで瀬田なつき「彼方からの手紙」が見られないことにぎしぎしと歯噛みしつつ、新国立劇場まで「DANCE to the Future」を見にいった。びっくりするくらい美しかったので、瀬田なつきを見ているひとに「やーい! やーい!」と思ってうっぷんを晴らした。井口裕之「Snow Lotus―雪蓮華」、能美健志「The Last Era of Cinderella」、ドミニク・ウォルシュ「wolfgang for webb」の3本。
 いちばんすばらしかったのは「Snow Lotus」で、最初の茶色いひとがゆっくり歩いているところでもううっとりとして、「ひとが歩いているだけであんなにうっとりできるなんてダンスってなんてすごいんだ!」となんだかみょうに感動した。風船がぱんぱん割れる音がこわかった。にんげんの身体の動きだけでなく、それが動く空間も含めてダンスなんだ、ということがとってもよくわかった。ぶらぼ。
 能美健志「The Last Era of Cinderella」は赤いシンデレラさんたちがきれいで好きだった。ラスト、たくさんのハイヒールたちを背景に赤いドレスを脱いで、肌色が照明に照らされてぴかぴかと輝いているのがきれいで好きだった。
 ドミニク・ウォルシュ「wolfgang for webb」はいちばんバレエに接近していた作品で、つまりいちばんわからなかった。バレエ好きのひとに殴られてもいいけど(よくないけど)、男性が生足を露出しながらにかにか笑いながら踊っているのがほんとうによくわからない。バレエを好きになれるかなれないかは生足にかかっていると、本気で思う。とりあえずわたしがバレエを好きになるには、男性の生足に似ただいこんを八百屋で買ってきて、毎日「バ・レ・エ! ひゅー!」と言いながら抱いて眠るくらいの努力が必要にちがいない。そして、新国立劇場でときどき見かけるタキシードやドレスを着たちびっこたちは将来のバレエ界を担うために日夜ママやパパにだいこんを買いあたえられ「ひゅー!」とか言いながら抱いて寝ているにちがいない。バレエの世界はきびしい。
 新宿武蔵野館まで行ってリチャード・ケリー「運命のボタン」を見た。見たいと言えば見たい映画だけれど、1500円はらって見たいかと言われれば意地でも「見たくねえよ」と答えたくなるような、ものすごい映画だった。まず「あなたなら押しますか?」がキャッチコピーで、ふつうなら「たぶんこれは押すか押さないかの心理的葛藤を扱ったサスペンスなんだろうな」と思うだろうけれど、そんな観客の思惑をぶっとばすかのようにキャメロン・ディアスが30分くらいであっさり押しちゃう。それで、「わたしのせいでだれかが死んだ」とか、「1億円もらったけどどうしよう」とか、そういう葛藤すらなく、火星がどうだの、サルトルがどうだの、出口がどうだの、まったくもって意味不明な展開がえんえん続き、それらがいっさい解決されないまま映画は終わり、わたしたちは観客席にのこされたまま「は?」と思いつづけることになるだろう。こう書くとおもしろそうに見えるかもしれないけれど、書いているほどにおもしろくはないのがリチャード・ケリーのすごさだと思う。

   ◇◇◇

 最果タヒ「グッドモーニング」を読んで、三角みづ紀さんにそっくりだと思った。「たれぱんだぱーんち!」とかそういうことが書かれているんじゃないかしらんと思っていたけれど、そうではなくて、そこに書かれていたのは底抜けの明るさに暗さをまとって拡散していくただの言葉だった。彼女はたれぱんだだけを愛しているわけではないように見えたし、ほんとうには、たれぱんだばかりを愛しているように見えた。わたしにはよくわからなかった。「苦行」がわたしは好きだと思った。「+」文字が多用されていて、わたしは詩のなかに散りばめられるこういう記号をあまりこころよく思わないけれど、彼女の「+」はいままで見た「+」のなかでいちばん美しかったと思う。だからわたしは彼女が好きだと思う
 若い詩人が書いた詩集のあとがきが好きだ。
「グッドモーニング」のあとがきには、たとえばこんなことが書いてある。

 今年の春。モネの絵を久しぶりにみた。ただ中でうつくしさへの賛美が、鐘の音のように鳴り響いている。わたしは、衝動に追い立てられて書くさいにきらめいて見えるこの世界をあいしていた。いつかそこにまた、帰りたいと、そして十代の経験に固執し、攻撃的でいなければ出会えないと、一年間思い続けていた。賛美すべきものは攻撃性ではない。うつくしさだ。そう思い出した瞬間、目の前の世界が、懐かしく鮮やかな色を帯びて広がった。

 ちぐはぐな言葉で書かれたこのあとがきは、十代をふりかえり、「決してわたしは彼らを、遺物にはしない。」という力強い言葉でしめられている。思えば、わたしが去年読んでもっとも感動した散文は安川奈緒「MELOPHOBIA」の「あとがき」だった。だから「あとがき」とはなんだろうなと思う。それはたぶんおまけではないし、詩でもない。一般に難解でよくわからない現代詩を書いているひとがすっとさしだすわかりやすい言葉ではあるけれど、それだけでもないような気がする。わたしが詩集のあとがきを読んでいて思うのは、「どうしてこのひとはこんなにやさしいんだろう」ということだ。吐きたいくらいのやさしさがあって、それはその本のいちばん最後に書いてあるくせにたんじゅんでちゅうぶらりんで、いちばん最後に書いてあるからこそどこにも行き場がない。
 久谷雉「ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩」の「あとがき」もいい。

 ぼくは時々、ひとりの友だちのことを思いだします。東京のはずれの坂道の多いまちに暮らしていた女の子。この本にあつめた詩のほとんどは、その友だちが聴かせてくれた話に対するへんじの代わりに、書かれたようなものです。港で出会ったやくざといっしょに、日の暮れるまで釣りをしたこと。ふた月も学校をさぼって、素性も知らない男の子と東京を転々としたこと。あかるい時間に外に出ても、本屋と映画館のほか、どこにも行くあてのないぼくにとっては、信じられないような話ばかりでした。

 たとえばわたしは、友達がしゃべることや書くことを聞いたり見たりすると、自己嫌悪におちいることがあった。そのひとにくらべるとわたしはわたしがなんにもやっていないように思った。わたしはわたしのおかげでそのひとが美しくあればいいのにと思った。それはみにくいことだった。だからわたしはちがうことが言いたいと思った。
「そのひとはわたしとは関係なしに美しくあって、たとえそのひとがわたしと関係なくありつづけて、そしてこれからもありつづけるとしても、わたしはそのひとが美しくあるかぎりはわたしがどうであれ生きていけると思った。」
 たとえばそういうことが言いたいと思った。そういううそなら海亀がたまごを産むみたいにぽんぽん言えた。いつかうそをつきつづけて、それがほんとうになったらいいなと思った。でもうそはうそのままだったし、ほんとうのことはどこからもやってこなかった。そしてわたしはうそをついたままでも平気に生きていられたし、平気にだれかを好きなような気がしていたし、平気で光と夜を美しいと思いつづけたような気すらしていた。デカルトの思考法によれば、真なるものとは自分のなかに確固として存在していないかぎりそうであると認めないらしかった。でもわたしはデカルトではなかった。わたしはそのひとですらなかった。わたしのなかにはほんとうのことはなかった。デカルトがそう言えたのは、彼が自分のなかに真なるものをいくつかは持っていたからだと思う。わたしは持っていない。わたしはわたしのなかで慈しむ美しさをにせものだと思う。たとえば美しさは久谷雉が描いたあの女の子のなかにあるようなものだと思う。では、そのとき久谷雉はなにになるんだろうか。久谷雉の美しさはいったいどこかにあるんだろうか。わたしはできるだけ自分を信用したくはない。「美しいものを見たときに『美しい』と言うこと」を美しいとは呼びたくはない。そう言いたいならまずは自分が美しくなればいいと思った。わたしは、「美しい」という言葉はすべて他者から発されるべきだと思った。美しさを鑑賞し感想するのではなく、美しさになるべきだと思った。美しさになるのならば「美しい」と言うべきではないかもしれないと思った。たとえばそのひとが美しいと言わなくても、そのひとは美しいままだろうと思った。わたしが美しいと言わなくてもそのひとが美しいなら、そのときこそわたしはそのひとを美しいと言いたいと思った。たんじゅんに、美しいものが好きだと思った。だからそのひとを好きだと思った。でもわたしはそのひとがほんとうに好きかどうかはよくわからなかった。だからそのひとを好きになりたいと思った。そのひとをたんじゅんに美しく思えて、そのひとをほんとうに好きになれるとしたら、わたしはわたしが美しくなくてもいいと思った。いろいろなところに行きたいと思った。海でも山でも動物園でも墓場でもいいから、どこかに。




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